台風9号が去り、東京都内も残暑で33℃を越えました。
今日は、「やまさん」の「関東百駅巡礼歩行」の第37番
目で、東京都世田谷区の東急世田谷線松陰神社前駅
周辺を歩きました。
========================
2007年9月8日(土) =関東百駅巡礼歩行 No.37=
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東急世田谷線は、京王線下高井戸駅と世田谷区の中心、
三軒茶屋を結ぶ、全長5kmの路線である。
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線路の幅が、JRや西武鉄道より広いと感じたので調べ
てみたら、やはり1372㎜だった。ちなみに、JRや西武は
1067㎜、新幹線は1435mである。
私は、京王線下高井戸から乗り、松陰神社前駅に10時
前に着いた。
今日の参加者は東京、神奈川、埼玉からの8人、写真は
私以外のメンバー。10時3分に駅を出た。
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駅東側の通りを北へ、まず松陰神社をめざす。
途中で、地図に記されていた図書館に寄り道すること
にして、細い路地を入ったら、住宅の庭に珍しいピンク
のノウゼンカズラが咲いていた。
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世田谷図書館を確認して北側の松陰神社通に出て、
緑の豊富な松陰神社に入る。
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長州藩の志士、吉田松陰は、幕府の弾圧により江戸伝馬
町獄で処刑後、千住小塚原に罪人として埋められたが、
文久3年(1863)門下生の高杉晋作などにより、長州藩
の所有地だった、ここ世田谷若林に丁重に改葬され、明治
15年(1882)に松陰神社が建立されたという。
神社西側の墓地に、吉田寅次郎(松陰)の墓があった。
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社殿の東側には、吉田松陰の教育道場だった松下村塾
を模した建物がある。ほんものは、山口県萩市にある松陰
神社境内にあることは、萩を訪ねた方はご存知のとおり。
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神社の境内は、桜、モミジ、カシなどの豊富な緑に覆わ
れていた。
神社の南側の松陰神社通を西へ、世田谷区役所前
交差点を通過し、中央図書館の西にある勝国寺に寄る。
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山門、この本堂、そして薬師堂とも最近の改築のようで、
いずれも新しい。
さらに西へ進み、烏山川を暗渠(あんきょ)にして、その
上を緑道にした烏山川緑道に入り、南へ進む。
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緑道には、大正初期の世田谷城址付近の地図や江戸
名所図会・豪徳寺の絵など、この付近の昔をしのばせる
白磁のプレートが埋め込まれていた。
もとの城下橋のところから緑道を離れ、西北に進んで、
豪徳寺に入る。
豪徳寺の創建は文明12年(1480)だが、天文10年
(1633)に世田谷領主井伊直孝が井伊家の菩提寺と
して伽藍を創建し整備したという。
広い境内は緑が豊富だが、その中でも新しい三重塔が、
ひときわ目についた。
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豪徳寺は、招き猫発祥の地ともいわれ、境内の一角
に招猫観音が祭られていて、奉納された招き猫がたく
さん並んでいた。
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墓地の奥には井伊直弼(いいなおすけ)の墓がある。
井伊直弼は、第16代近江彦根藩主で、幕府の最高
権力者になったが、直弼が行った安政の大獄に反対する
水戸浪士に桜田門外で、安政7年(1860)3月に暗殺
された。
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このあたり、世田谷郷は彦根藩井伊家領地であった。
墓は、右にちょっとだけ傾いていた。
こちらは、豪徳寺境内に立つ大イチョウ。
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豪徳寺の正門がある西に出て、烏山緑道まで南下し、
緑道を少し東に回って世田谷城址公園に入った。
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ここも豊富な緑に覆われている。正午も近いので、木陰
のベンチで昼食をする。
世田谷城は、14世紀後半に吉良治家が居住したのが
始まりとされ、のち北条氏と結んだが、天正18年(1590)
豊臣秀吉の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。
昼食後、南に延びる城山通りを進み、東急世田谷線と
世田谷通りの南に回って、ボロ市通を東に向かう。
ここがボロ市通り、12月15日の世田谷ボロ市には、
この通りは出店(でみせ)で埋めつくされるという。
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少し進んで、世田谷代官屋敷に入った。
江戸時代の初め、この家の主、大場氏は彦根藩井伊家
世田谷領(2300石)の代官職を務め、明治維新まで世襲
したとのこと。
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この母屋は、江戸中期の元文2年(1737)と宝暦3年
(1753)の2度における工事で完成したという。
約70坪(231.4㎡)あり、関東地方における代官屋敷
としての規模をよく保存していることから、母屋と表門が
国の重要文化財に指定されている。
中に入ると、高い天井に曲がった太い梁や屋根組みが
丸見えで、当時の高い建築技術が垣間見られる。
屋敷内には、樹齢200年といわれるタブノキをはじめ、
やはり緑が豊富で、セミの鳴き声が賑やか。屋根掛けを
したつるべ井戸も残っていた。
地続きにある世田谷区郷土資料館に入り、出土品や
代官屋敷の模型、玉川上水の木桶などの展示を見て、
13時半前に、解散となる。
私はこの後、東急世田谷線の西側沿いに北へ向かい、
吉良氏歴代の墓のある桜一丁目の勝光院や、源義家が
奥州の内乱を取り鎮めた記念に建てたと伝えられ、来週
15日が秋の大祭となる世田谷八幡宮、その北の常徳院
などを回り、14時20分に小田急線豪徳寺駅に着いた。
(天気 晴、距離 4.3k(郷土資料館まで)、7k(豪徳寺
まで)、地図(1/1万) 世田谷、歩行地 世田谷区)
今日は、「やまさん」の「関東百駅巡礼歩行」の第37番
目で、東京都世田谷区の東急世田谷線松陰神社前駅
周辺を歩きました。
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2007年9月8日(土) =関東百駅巡礼歩行 No.37=
東急世田谷線は、京王線下高井戸駅と世田谷区の中心、
三軒茶屋を結ぶ、全長5kmの路線である。
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線路の幅が、JRや西武鉄道より広いと感じたので調べ
てみたら、やはり1372㎜だった。ちなみに、JRや西武は
1067㎜、新幹線は1435mである。
私は、京王線下高井戸から乗り、松陰神社前駅に10時
前に着いた。
今日の参加者は東京、神奈川、埼玉からの8人、写真は
私以外のメンバー。10時3分に駅を出た。
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駅東側の通りを北へ、まず松陰神社をめざす。
途中で、地図に記されていた図書館に寄り道すること
にして、細い路地を入ったら、住宅の庭に珍しいピンク
のノウゼンカズラが咲いていた。
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世田谷図書館を確認して北側の松陰神社通に出て、
緑の豊富な松陰神社に入る。
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長州藩の志士、吉田松陰は、幕府の弾圧により江戸伝馬
町獄で処刑後、千住小塚原に罪人として埋められたが、
文久3年(1863)門下生の高杉晋作などにより、長州藩
の所有地だった、ここ世田谷若林に丁重に改葬され、明治
15年(1882)に松陰神社が建立されたという。
神社西側の墓地に、吉田寅次郎(松陰)の墓があった。
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社殿の東側には、吉田松陰の教育道場だった松下村塾
を模した建物がある。ほんものは、山口県萩市にある松陰
神社境内にあることは、萩を訪ねた方はご存知のとおり。
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神社の境内は、桜、モミジ、カシなどの豊富な緑に覆わ
れていた。
神社の南側の松陰神社通を西へ、世田谷区役所前
交差点を通過し、中央図書館の西にある勝国寺に寄る。
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山門、この本堂、そして薬師堂とも最近の改築のようで、
いずれも新しい。
さらに西へ進み、烏山川を暗渠(あんきょ)にして、その
上を緑道にした烏山川緑道に入り、南へ進む。
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緑道には、大正初期の世田谷城址付近の地図や江戸
名所図会・豪徳寺の絵など、この付近の昔をしのばせる
白磁のプレートが埋め込まれていた。
もとの城下橋のところから緑道を離れ、西北に進んで、
豪徳寺に入る。
豪徳寺の創建は文明12年(1480)だが、天文10年
(1633)に世田谷領主井伊直孝が井伊家の菩提寺と
して伽藍を創建し整備したという。
広い境内は緑が豊富だが、その中でも新しい三重塔が、
ひときわ目についた。
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豪徳寺は、招き猫発祥の地ともいわれ、境内の一角
に招猫観音が祭られていて、奉納された招き猫がたく
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墓地の奥には井伊直弼(いいなおすけ)の墓がある。
井伊直弼は、第16代近江彦根藩主で、幕府の最高
権力者になったが、直弼が行った安政の大獄に反対する
水戸浪士に桜田門外で、安政7年(1860)3月に暗殺
された。
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このあたり、世田谷郷は彦根藩井伊家領地であった。
墓は、右にちょっとだけ傾いていた。
こちらは、豪徳寺境内に立つ大イチョウ。
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豪徳寺の正門がある西に出て、烏山緑道まで南下し、
緑道を少し東に回って世田谷城址公園に入った。
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ここも豊富な緑に覆われている。正午も近いので、木陰
のベンチで昼食をする。
世田谷城は、14世紀後半に吉良治家が居住したのが
始まりとされ、のち北条氏と結んだが、天正18年(1590)
豊臣秀吉の小田原攻略により、世田谷城も廃城となった。
昼食後、南に延びる城山通りを進み、東急世田谷線と
世田谷通りの南に回って、ボロ市通を東に向かう。
ここがボロ市通り、12月15日の世田谷ボロ市には、
この通りは出店(でみせ)で埋めつくされるという。
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少し進んで、世田谷代官屋敷に入った。
江戸時代の初め、この家の主、大場氏は彦根藩井伊家
世田谷領(2300石)の代官職を務め、明治維新まで世襲
したとのこと。
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この母屋は、江戸中期の元文2年(1737)と宝暦3年
(1753)の2度における工事で完成したという。
約70坪(231.4㎡)あり、関東地方における代官屋敷
としての規模をよく保存していることから、母屋と表門が
国の重要文化財に指定されている。
中に入ると、高い天井に曲がった太い梁や屋根組みが
丸見えで、当時の高い建築技術が垣間見られる。
屋敷内には、樹齢200年といわれるタブノキをはじめ、
やはり緑が豊富で、セミの鳴き声が賑やか。屋根掛けを
したつるべ井戸も残っていた。
地続きにある世田谷区郷土資料館に入り、出土品や
代官屋敷の模型、玉川上水の木桶などの展示を見て、
13時半前に、解散となる。
私はこの後、東急世田谷線の西側沿いに北へ向かい、
吉良氏歴代の墓のある桜一丁目の勝光院や、源義家が
奥州の内乱を取り鎮めた記念に建てたと伝えられ、来週
15日が秋の大祭となる世田谷八幡宮、その北の常徳院
などを回り、14時20分に小田急線豪徳寺駅に着いた。
(天気 晴、距離 4.3k(郷土資料館まで)、7k(豪徳寺
まで)、地図(1/1万) 世田谷、歩行地 世田谷区)