2007年9月16日(日) =カントリーウオーク高坂=
今日の熊谷の予想最高気温は35℃。厳しい残暑が
予想されるなか、東武東上線高坂(たかさか)駅に
12人の参加者が集まった。参加者数はいつもより少
なめ。3組に組み分けして、10時10分に出発する。
今日の企画は、舌状に東に延びた高坂台地下に湧く、
7つの湧水をめぐるというもの。午前中はこの湧水を
目指すことにする。
わがグループ4人は、駅東口から延びる車道を東に
進み、県道407号と「八王子道」を越える。高坂集落の
菩提寺、東光院を抜けて東側台地下に下り、まず「東
光院下の清水」へ。
斜面林の下にある直径3mほどの湧水池で、10数
匹のコイが泳いでいた。
以前歩いたときには、台地下の流れに沿って田んぼ
のあぜ道があったのだが、東側の広大な田んぼは造
成中で、道も消えていた。
台地に戻り、斜面林の中の緑陰を進む。切妻造り瓦
ぶきのシンプルな高坂神社裏手を過ぎ、国道407号
のカーブ点に出た。北へ延びるバイパスが開通してい
て、田園風景が見下ろせたこの辺の景観も、すっかり
変わっていた。
バイパスを横断し、東側の折本山緑地に入る。正代
集落の北側台地上に残る緑地である。ケヤキやクヌギ
などの林に遊歩道があり、ミンミンゼミなどがにぎやか
に鳴く。
緑地の木陰はまだしも、日向はもう30℃を越えて
いると思われ、厳しい残暑。東屋があったので休憩し、
水分補給をする。
さらに500mほどで世明寿寺に入る。市内最古の
千手観音像は、南北朝時代の14世紀半ばのものとか。
本堂は精巧な木彫で飾られている。
山門もなかなか趣のあるものだった。門前にこんな
変わった石碑が立っていた。
東側の台地下に、「観音下の清水」がある。標識が
無いので分かりにくく、竹の落ち葉や紙切れが落ちて
いて、きれいな湧水とはいえぬ見栄えだ。
東側一面が田園地帯となり、色づき始めた田んぼを
見ながら南へ。舌状台地下の東南端の角、民家の庭
先のようなところが、「大下の清水」である。
庭石や植え込みなどに囲まれ、ホテイアオイの大き
な花が2輪咲いていた。
台地の南側、正代の家並みと田んぼの間を西へ向かう。
次の「中形の清水」は、少し北へ引っ込んだところで湧き、
コンクリートで周囲を固めてあり、水もが豊富に茂って
いる。
魚がたくさん見え、メダカも十数匹泳いでいた。
その先を少し上がり、西に進んで御霊神社へ行く。
7月25日付近の日曜日には境内で正代の祭りばやし
が奉納されるとか。
南側に田んぼを見下ろし、その田んぼからの風がさわ
やか。境内にある正代公会堂では、地元の人が集会を
開いていた。
すぐ近くにあるのが「寺下の清水」。ここもコンクリート
で囲んだ湧水。湧水量は少ないのか、流下量はわずか
だった。
湧水の横を上がって青連寺に参拝する。本堂の西側
に、屋根がけで、「小代重俊供養塔」と記されたりっぱな
青石塔婆があった。
小代重俊は、武蔵七党の児玉党の人で、文永8年
(1271)に蒙古襲来に備え、幕府から現、熊本県荒尾
市の野原荘へ行くことを命じられたとのこと。青石塔婆
は、蒙古襲来の弘安4年(1281)の建立という。
最後の湧水は「宮鼻の清水」。やはりコンクリートで護
岸されているが、湧水量は一番多く水もきれいで冷たい。
現在でも地元の方が野菜などの洗い物に使うのか、流
れに沿って太い木の板が置いてあった。
大下の清水から宮鼻の清水まで、700m足らずの間に
4つの湧水が続いていた。
正午が近づいたので、昼食地を目指す。少し戻って南
側の、色づき始めてイナゴも飛び出す田んぼの間に入る。
コンバインでの刈り取りの始まったたんぼと大東文化
大グランドの間を進み、正代運動広場の東屋に12時
15分に着いた。
暑いのでゆっくりと昼休みを取り、13時半に出発。
ハヤだろうか、小さい魚がたくさん見える流れに沿って
すぐ東側の都幾川右岸堤防に上がる。
昼休み中に、ここにやって来たKさんは、カワセミを
見たというので期待して来たが、姿を見せなかった。
そばの小剣神社境内には、もうすぐ咲きそうなヒガ
ンバナが、たくさん芽を伸ばしていた。
少し戻って、田んぼの間を北へ向かう。
早俣集落に入り、南端にある光明寺の木陰で休憩。
少し歩くと残暑がこたえ、水分補給が欠かせない。
本堂前に、紅白のサルスベリが花を咲き競っていた。
長屋門のある旧家の前を抜け、都幾川の高野橋を
渡って左岸堤防を上流に向かう。
顔の汗が止まらず目に入るので、始終ハンケチで
ぬぐわねばならない。ゴールまでずっと続けた。
眼下の田んぼには、刈り入れを終えてはさ掛けした
ところもあった。
左岸下に並ぶ下押垂集落の、西側にあった神社の
木陰でまた休憩。日陰があったらこまめに休憩しな
いと熱中症になりそう。
再び強い日差しの照りつける広々とした田んぼの
間を北側の流れまで進み、県道の北にある将軍塚
古墳の横に進む。
埼玉県内では、行田市埼玉(さきたま)の二子山古
墳に次ぐ巨大な前方後円墳だという。まだ学術調査が
行われていないので、内部の埋葬施設や外部の埴輪
(はにわ)などは不明とのこと。
墳丘は全長115m、高さは前方部8m、後円部12
m、総面積5755㎡という。後円部の上には神社が、
前方部には大きな忠魂碑が立っていた。
北側には無量寿寺があり、源頼朝の信頼が厚かっ
た鎌倉武士、野本氏の館跡で、江戸時代の「新編武
蔵風土記稿」にも境内1万4千坪あったことが記され
ていたという。
ここでさらに休憩。Mさんが、とっとおきの冷えた杏
仁豆腐を皆さんに配り、熱く乾いたのどにしみ通る。
国道407号バイパスを横断し、下野本から若松町
1丁目を経て、16時10分にゴールの東武東上線
東松山駅に着いた。
暑さボケか何ボケか知らぬが、いつも途中で撮る
記念写真を撮り忘れたので、駅の横で撮った。
暑い中、小学3年生のMSちゃんも、最後まで元気
に歩きとおした。
有志は、近くのやきとり屋、三金へ入って汗をぬぐい、
東松山名物のやきとりを食べて歓談する。
途中、沖縄・石垣島へ出かけて台風にあい、2日遅れ
で飛行機に乗ったという、今日の担当の一人、Aさんも
羽田から駆けつけ、19時頃まで、話がはずんだ。
帰途、20時頃の東武東上線川越市駅の温度計は、
まだ30.5℃。この日の最高気温は、隣の鳩山で33.
2℃、熊谷で33.7℃だった。
(天気 晴、距離 11km、地図(1/2.5万)東松山、歩行
地 埼玉県東松山市、歩数 19,800)
今日の熊谷の予想最高気温は35℃。厳しい残暑が
予想されるなか、東武東上線高坂(たかさか)駅に
12人の参加者が集まった。参加者数はいつもより少
なめ。3組に組み分けして、10時10分に出発する。
今日の企画は、舌状に東に延びた高坂台地下に湧く、
7つの湧水をめぐるというもの。午前中はこの湧水を
目指すことにする。
わがグループ4人は、駅東口から延びる車道を東に
進み、県道407号と「八王子道」を越える。高坂集落の
菩提寺、東光院を抜けて東側台地下に下り、まず「東
光院下の清水」へ。
斜面林の下にある直径3mほどの湧水池で、10数
匹のコイが泳いでいた。
以前歩いたときには、台地下の流れに沿って田んぼ
のあぜ道があったのだが、東側の広大な田んぼは造
成中で、道も消えていた。
台地に戻り、斜面林の中の緑陰を進む。切妻造り瓦
ぶきのシンプルな高坂神社裏手を過ぎ、国道407号
のカーブ点に出た。北へ延びるバイパスが開通してい
て、田園風景が見下ろせたこの辺の景観も、すっかり
変わっていた。
バイパスを横断し、東側の折本山緑地に入る。正代
集落の北側台地上に残る緑地である。ケヤキやクヌギ
などの林に遊歩道があり、ミンミンゼミなどがにぎやか
に鳴く。
緑地の木陰はまだしも、日向はもう30℃を越えて
いると思われ、厳しい残暑。東屋があったので休憩し、
水分補給をする。
さらに500mほどで世明寿寺に入る。市内最古の
千手観音像は、南北朝時代の14世紀半ばのものとか。
本堂は精巧な木彫で飾られている。
山門もなかなか趣のあるものだった。門前にこんな
変わった石碑が立っていた。
東側の台地下に、「観音下の清水」がある。標識が
無いので分かりにくく、竹の落ち葉や紙切れが落ちて
いて、きれいな湧水とはいえぬ見栄えだ。
東側一面が田園地帯となり、色づき始めた田んぼを
見ながら南へ。舌状台地下の東南端の角、民家の庭
先のようなところが、「大下の清水」である。
庭石や植え込みなどに囲まれ、ホテイアオイの大き
な花が2輪咲いていた。
台地の南側、正代の家並みと田んぼの間を西へ向かう。
次の「中形の清水」は、少し北へ引っ込んだところで湧き、
コンクリートで周囲を固めてあり、水もが豊富に茂って
いる。
魚がたくさん見え、メダカも十数匹泳いでいた。
その先を少し上がり、西に進んで御霊神社へ行く。
7月25日付近の日曜日には境内で正代の祭りばやし
が奉納されるとか。
南側に田んぼを見下ろし、その田んぼからの風がさわ
やか。境内にある正代公会堂では、地元の人が集会を
開いていた。
すぐ近くにあるのが「寺下の清水」。ここもコンクリート
で囲んだ湧水。湧水量は少ないのか、流下量はわずか
だった。
湧水の横を上がって青連寺に参拝する。本堂の西側
に、屋根がけで、「小代重俊供養塔」と記されたりっぱな
青石塔婆があった。
小代重俊は、武蔵七党の児玉党の人で、文永8年
(1271)に蒙古襲来に備え、幕府から現、熊本県荒尾
市の野原荘へ行くことを命じられたとのこと。青石塔婆
は、蒙古襲来の弘安4年(1281)の建立という。
最後の湧水は「宮鼻の清水」。やはりコンクリートで護
岸されているが、湧水量は一番多く水もきれいで冷たい。
現在でも地元の方が野菜などの洗い物に使うのか、流
れに沿って太い木の板が置いてあった。
大下の清水から宮鼻の清水まで、700m足らずの間に
4つの湧水が続いていた。
正午が近づいたので、昼食地を目指す。少し戻って南
側の、色づき始めてイナゴも飛び出す田んぼの間に入る。
コンバインでの刈り取りの始まったたんぼと大東文化
大グランドの間を進み、正代運動広場の東屋に12時
15分に着いた。
暑いのでゆっくりと昼休みを取り、13時半に出発。
ハヤだろうか、小さい魚がたくさん見える流れに沿って
すぐ東側の都幾川右岸堤防に上がる。
昼休み中に、ここにやって来たKさんは、カワセミを
見たというので期待して来たが、姿を見せなかった。
そばの小剣神社境内には、もうすぐ咲きそうなヒガ
ンバナが、たくさん芽を伸ばしていた。
少し戻って、田んぼの間を北へ向かう。
早俣集落に入り、南端にある光明寺の木陰で休憩。
少し歩くと残暑がこたえ、水分補給が欠かせない。
本堂前に、紅白のサルスベリが花を咲き競っていた。
長屋門のある旧家の前を抜け、都幾川の高野橋を
渡って左岸堤防を上流に向かう。
顔の汗が止まらず目に入るので、始終ハンケチで
ぬぐわねばならない。ゴールまでずっと続けた。
眼下の田んぼには、刈り入れを終えてはさ掛けした
ところもあった。
左岸下に並ぶ下押垂集落の、西側にあった神社の
木陰でまた休憩。日陰があったらこまめに休憩しな
いと熱中症になりそう。
再び強い日差しの照りつける広々とした田んぼの
間を北側の流れまで進み、県道の北にある将軍塚
古墳の横に進む。
埼玉県内では、行田市埼玉(さきたま)の二子山古
墳に次ぐ巨大な前方後円墳だという。まだ学術調査が
行われていないので、内部の埋葬施設や外部の埴輪
(はにわ)などは不明とのこと。
墳丘は全長115m、高さは前方部8m、後円部12
m、総面積5755㎡という。後円部の上には神社が、
前方部には大きな忠魂碑が立っていた。
北側には無量寿寺があり、源頼朝の信頼が厚かっ
た鎌倉武士、野本氏の館跡で、江戸時代の「新編武
蔵風土記稿」にも境内1万4千坪あったことが記され
ていたという。
ここでさらに休憩。Mさんが、とっとおきの冷えた杏
仁豆腐を皆さんに配り、熱く乾いたのどにしみ通る。
国道407号バイパスを横断し、下野本から若松町
1丁目を経て、16時10分にゴールの東武東上線
東松山駅に着いた。
暑さボケか何ボケか知らぬが、いつも途中で撮る
記念写真を撮り忘れたので、駅の横で撮った。
暑い中、小学3年生のMSちゃんも、最後まで元気
に歩きとおした。
有志は、近くのやきとり屋、三金へ入って汗をぬぐい、
東松山名物のやきとりを食べて歓談する。
途中、沖縄・石垣島へ出かけて台風にあい、2日遅れ
で飛行機に乗ったという、今日の担当の一人、Aさんも
羽田から駆けつけ、19時頃まで、話がはずんだ。
帰途、20時頃の東武東上線川越市駅の温度計は、
まだ30.5℃。この日の最高気温は、隣の鳩山で33.
2℃、熊谷で33.7℃だった。
(天気 晴、距離 11km、地図(1/2.5万)東松山、歩行
地 埼玉県東松山市、歩数 19,800)