2017年3月5日(日)
啓蟄(けいちつ)の今日は、最高気温は3月下旬並みになるとの予報。久しぶりに、J
R東日本の「駅からハイキング」で3日間開催の終日、「梅花はなやかな下野薬師寺と道
の駅しもつけ」に出かけた。
自宅を出てちょうど2時間ほど、9時13分にJR宇都宮線の自治医大駅に下車する。
東口のテントで受付を済ませ、9時25分にスタートした。
東に真っ直ぐに伸びる駅前通りを進み、二つ目の信号を左折する。突き当たりが自治医
科大学の正門。
下野市(しもつけし)のマンホールデザインは、極めてシンプルなもの。
そこを右折しすぐに左折、自治医科大の敷地の東側沿いをしばらくは北に進む。構内の
マンサクが見頃になっていた。
南側にはクヌギなどの落葉広葉樹林が2か所ほど残り、そこも自治医大の所有地のよう。
自治医大の敷地横を北端まで進み、左からの車道に合して東に向かう。梅林や麦畑の横
などを過ぎ、三昧場(さんまいじょう)と呼ぶアシの茂る池があった。
下野(しもつけ)薬師寺の僧侶が身を清めて修行したところという伝説があるとか。江
戸時代の絵図にも記され、当時は湧水もありきれいな湿地だったと考えられるという。
その先を右折して南へ、近くの畑ではもみ殻を焼いている。
今日のコースの主要ポイント地、下野薬師寺跡はすぐ先にあった。まず目に付くのは数
10本の梅。紅梅白梅がちょうど見頃である。
下野薬師寺は、7世紀後半の天武天皇の頃に創設されたと考えられている国指定史跡。
8世紀中頃には、僧の資格を得るための場である戒壇(かいだん)が設けられ、奈良の東
大寺、九州の筑紫観世音寺とともに日本三戒壇院のひとつに数えられ、東国随一の寺とし
て隆盛を極めたと伝えられているとか。
史跡の北側には、発掘調査の成果により平成12年(2000)に複製された、回廊の
北西隅部の建物があった。8世紀前半に建造されたと考えられる瓦葺きの建物の一部であ
る。
南西側は安国寺(あんこくじ)の六角堂。かつての下野薬師寺の戒壇跡と伝えられる場
所で、江戸時代は釈迦堂と呼ばれ、文化2年(1805)に刊行された「木曽路名所図鑑」
により確認できるという。
今日は年に一度の「下野薬師寺史跡まつり」の日。
ふるさと歴史の広場では、弓矢体験、梅ジュースの無料配布、ミニ新幹線の運転、かん
ぴょうを使ったふくべ細工絵付け体験、お囃子(はやし)の演奏などが行われていて、多
くの下野市民が訪れ賑わっている。
史跡地の南西隅にある安国寺では、住職の講話の後、本堂内で雅楽の演奏が始まった。
安国寺は暦応2年(1339)、足利尊氏が古代の国分寺にならい全国に安国寺を建立
した際、下野国には薬師寺が存在するので安国寺を建てることなく、そのまま安国寺と寺
名を改称したと伝えられているとか。
現在の本堂は明治38年(1905)の再建、近世以前の建物は六角堂と山門の一部の
みという。
少し戻り、国史跡範囲の南西側にある下野薬師寺歴史館(入館無料)に入る。
下野薬師寺のガイダンス施設で、館内には発掘調査で見つかった瓦などの出土物、寺に
関する文献資料、復元模型などが展示されていた。
安国寺前を東進するとすぐ、突き当たりは薬師寺八幡宮である。貞観17年(875)
の創建と伝えられ、現在の社殿は寛文2年(16762)に領主・佐竹右京太夫により再
建されたもの。栃木県指定有形文化財である。
平成14年(2002)に大改修を終えたようで、再建当時の色彩を甦らせている。
境内には学問の神・五條天満宮、勝負の神様・千勝神社、八幡の金精様なども祭られて
いる。
本殿前の下野市名木30選のイチョウや、参道の市指定天然記念物で樹高約20m、目
通り周囲4.8m、推定樹齢600年というケヤキなどが目に付いた。
社務所前には、葉書の木があり、この木の葉に字を書いて前のポストに投函すると、後
日祈願してもらえるという。
八幡宮の参道を出た南側は、天狗山雷電神社。京都の賀茂別雷神社から祭神を勧請した
もので、五穀豊穣や殖産の守り神として厚く崇敬されているようだ。
近くのケヤキだろうか、かなりの高木にたくさんのヤドリギが付いていた。
南側の県道310号に出て、広々とした田園地帯を東へ、新国道4号の高架下を抜けて、
「道の駅しもつけ」に11時28分に入る。
駐車場は広くて車も多く、道の駅としてはかなり大規模のよう。
建物の前で恵比寿、大黒の福の神がにこやかに迎えてくれる。
建物に入ると地元の野菜を初め、農産物加工品、地酒や菓子など品数豊富で、たくさん
の人で賑わう。
建物を出て南側の長いベンチに腰を下ろし、暖かい日差しをいっぱいに受け、広々とし
た田んぼなどを眺めながら昼食にした。
正面入口側に置かれた交通マナーを記した大ダルマの横から、12時03分に道の駅を
後にした。
新国道4号下を西に抜けて、国道沿いに少し南西へ。北側台地上に広い境内の寺が見え
る。
その寺、龍興寺に向かってV字状に回り、境内に上がる。
下野薬師寺の別院として白鳳8年(680)に建立、鑑真和上(がんじんわじょう)が
天平宝字5年(761)に龍興寺として開基したという古寺。
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は宝亀元年(770)下野薬師寺の別当職として着任し
たが、2年後に没したという。
本堂を中心に、広い境内には幾つもの建物や塔、仏像、古木などが多く、それら多くの
傍らに説明板が立っていて、理解しやすいようになっている。
本堂の左手に立つシラカシは、栃木県天然記念物で樹高20.5m、目通り周囲3.6
m、推定樹齢は500年という。
その木の下には、宝亀元年(770)に当寺の別当として左遷された、弓削道鏡の墓と
伝えられる墳墓がある。近くのヒカンザクラが花を見せ始めていた。
平成の大修理で再建したという、西側の山門を出る。
北側の墓地には、天平勝宝6年(754)に来朝し、唐招提寺や東大寺、当寺などを建
立し、天平宝字7年(763)に76歳で没した唐の高僧・鑑真和尚の遺徳を偲んで、弟
子たちが建立したといわれる鑑真和尚碑がある。
そばのボダイジュは、和尚の杖が成長したものといわれ、下野市名木30選に選定され
ている。
西側の県道145号に出て、薬師寺郵便局前の細道を西に向かうと、数mの盛土上に龍
興寺の二月堂が再建されていた。
当初の二月堂は、東大寺二月堂の形式を踏まえて建立されたようだが、長年の風雪で傷
み東日本大震災で被災したため、人間国宝・西岡常一棟梁の弟子、菊池恭二棟梁により再
建されたとのこと。ちなみに、全国で二月堂を有する寺は、東大寺と龍興寺のみという。
次の十字路を南へ進むと、もみ殻を散布中の田んぼがある。
その先を西進して下野市農園横を進み、さらに南下して駅に通じる駅前通りに出た。
新しい住宅地にある祇園原公園横を通過して、ゴールの自治医大駅に13時26分に戻
った。好天で暖かくて風も弱く、絶好のウオーキング日和だった。
(天気 快晴後晴 距離 9㎞、地図 駅からハイキング地図、歩行地 下野市、歩数
17,500)
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啓蟄(けいちつ)の今日は、最高気温は3月下旬並みになるとの予報。久しぶりに、J
R東日本の「駅からハイキング」で3日間開催の終日、「梅花はなやかな下野薬師寺と道
の駅しもつけ」に出かけた。
自宅を出てちょうど2時間ほど、9時13分にJR宇都宮線の自治医大駅に下車する。
東口のテントで受付を済ませ、9時25分にスタートした。
東に真っ直ぐに伸びる駅前通りを進み、二つ目の信号を左折する。突き当たりが自治医
科大学の正門。
下野市(しもつけし)のマンホールデザインは、極めてシンプルなもの。
そこを右折しすぐに左折、自治医科大の敷地の東側沿いをしばらくは北に進む。構内の
マンサクが見頃になっていた。
南側にはクヌギなどの落葉広葉樹林が2か所ほど残り、そこも自治医大の所有地のよう。
自治医大の敷地横を北端まで進み、左からの車道に合して東に向かう。梅林や麦畑の横
などを過ぎ、三昧場(さんまいじょう)と呼ぶアシの茂る池があった。
下野(しもつけ)薬師寺の僧侶が身を清めて修行したところという伝説があるとか。江
戸時代の絵図にも記され、当時は湧水もありきれいな湿地だったと考えられるという。
その先を右折して南へ、近くの畑ではもみ殻を焼いている。
今日のコースの主要ポイント地、下野薬師寺跡はすぐ先にあった。まず目に付くのは数
10本の梅。紅梅白梅がちょうど見頃である。
下野薬師寺は、7世紀後半の天武天皇の頃に創設されたと考えられている国指定史跡。
8世紀中頃には、僧の資格を得るための場である戒壇(かいだん)が設けられ、奈良の東
大寺、九州の筑紫観世音寺とともに日本三戒壇院のひとつに数えられ、東国随一の寺とし
て隆盛を極めたと伝えられているとか。
史跡の北側には、発掘調査の成果により平成12年(2000)に複製された、回廊の
北西隅部の建物があった。8世紀前半に建造されたと考えられる瓦葺きの建物の一部であ
る。
南西側は安国寺(あんこくじ)の六角堂。かつての下野薬師寺の戒壇跡と伝えられる場
所で、江戸時代は釈迦堂と呼ばれ、文化2年(1805)に刊行された「木曽路名所図鑑」
により確認できるという。
今日は年に一度の「下野薬師寺史跡まつり」の日。
ふるさと歴史の広場では、弓矢体験、梅ジュースの無料配布、ミニ新幹線の運転、かん
ぴょうを使ったふくべ細工絵付け体験、お囃子(はやし)の演奏などが行われていて、多
くの下野市民が訪れ賑わっている。
史跡地の南西隅にある安国寺では、住職の講話の後、本堂内で雅楽の演奏が始まった。
安国寺は暦応2年(1339)、足利尊氏が古代の国分寺にならい全国に安国寺を建立
した際、下野国には薬師寺が存在するので安国寺を建てることなく、そのまま安国寺と寺
名を改称したと伝えられているとか。
現在の本堂は明治38年(1905)の再建、近世以前の建物は六角堂と山門の一部の
みという。
少し戻り、国史跡範囲の南西側にある下野薬師寺歴史館(入館無料)に入る。
下野薬師寺のガイダンス施設で、館内には発掘調査で見つかった瓦などの出土物、寺に
関する文献資料、復元模型などが展示されていた。
安国寺前を東進するとすぐ、突き当たりは薬師寺八幡宮である。貞観17年(875)
の創建と伝えられ、現在の社殿は寛文2年(16762)に領主・佐竹右京太夫により再
建されたもの。栃木県指定有形文化財である。
平成14年(2002)に大改修を終えたようで、再建当時の色彩を甦らせている。
境内には学問の神・五條天満宮、勝負の神様・千勝神社、八幡の金精様なども祭られて
いる。
本殿前の下野市名木30選のイチョウや、参道の市指定天然記念物で樹高約20m、目
通り周囲4.8m、推定樹齢600年というケヤキなどが目に付いた。
社務所前には、葉書の木があり、この木の葉に字を書いて前のポストに投函すると、後
日祈願してもらえるという。
八幡宮の参道を出た南側は、天狗山雷電神社。京都の賀茂別雷神社から祭神を勧請した
もので、五穀豊穣や殖産の守り神として厚く崇敬されているようだ。
近くのケヤキだろうか、かなりの高木にたくさんのヤドリギが付いていた。
南側の県道310号に出て、広々とした田園地帯を東へ、新国道4号の高架下を抜けて、
「道の駅しもつけ」に11時28分に入る。
駐車場は広くて車も多く、道の駅としてはかなり大規模のよう。
建物の前で恵比寿、大黒の福の神がにこやかに迎えてくれる。
建物に入ると地元の野菜を初め、農産物加工品、地酒や菓子など品数豊富で、たくさん
の人で賑わう。
建物を出て南側の長いベンチに腰を下ろし、暖かい日差しをいっぱいに受け、広々とし
た田んぼなどを眺めながら昼食にした。
正面入口側に置かれた交通マナーを記した大ダルマの横から、12時03分に道の駅を
後にした。
新国道4号下を西に抜けて、国道沿いに少し南西へ。北側台地上に広い境内の寺が見え
る。
その寺、龍興寺に向かってV字状に回り、境内に上がる。
下野薬師寺の別院として白鳳8年(680)に建立、鑑真和上(がんじんわじょう)が
天平宝字5年(761)に龍興寺として開基したという古寺。
弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は宝亀元年(770)下野薬師寺の別当職として着任し
たが、2年後に没したという。
本堂を中心に、広い境内には幾つもの建物や塔、仏像、古木などが多く、それら多くの
傍らに説明板が立っていて、理解しやすいようになっている。
本堂の左手に立つシラカシは、栃木県天然記念物で樹高20.5m、目通り周囲3.6
m、推定樹齢は500年という。
その木の下には、宝亀元年(770)に当寺の別当として左遷された、弓削道鏡の墓と
伝えられる墳墓がある。近くのヒカンザクラが花を見せ始めていた。
平成の大修理で再建したという、西側の山門を出る。
北側の墓地には、天平勝宝6年(754)に来朝し、唐招提寺や東大寺、当寺などを建
立し、天平宝字7年(763)に76歳で没した唐の高僧・鑑真和尚の遺徳を偲んで、弟
子たちが建立したといわれる鑑真和尚碑がある。
そばのボダイジュは、和尚の杖が成長したものといわれ、下野市名木30選に選定され
ている。
西側の県道145号に出て、薬師寺郵便局前の細道を西に向かうと、数mの盛土上に龍
興寺の二月堂が再建されていた。
当初の二月堂は、東大寺二月堂の形式を踏まえて建立されたようだが、長年の風雪で傷
み東日本大震災で被災したため、人間国宝・西岡常一棟梁の弟子、菊池恭二棟梁により再
建されたとのこと。ちなみに、全国で二月堂を有する寺は、東大寺と龍興寺のみという。
次の十字路を南へ進むと、もみ殻を散布中の田んぼがある。
その先を西進して下野市農園横を進み、さらに南下して駅に通じる駅前通りに出た。
新しい住宅地にある祇園原公園横を通過して、ゴールの自治医大駅に13時26分に戻
った。好天で暖かくて風も弱く、絶好のウオーキング日和だった。
(天気 快晴後晴 距離 9㎞、地図 駅からハイキング地図、歩行地 下野市、歩数
17,500)
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