48番 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ
砕けてものを 思ふころかな
源重之『詞花和歌集』恋上・211
<訳> 風が激しいので、岩にぶつかる波が砕けるように、私だけが千々に思い乱れて恋の物思いをするこの頃だなあ(板野博行)
oooooooooooooooo
想い人に胸の内を訴えたのだが、微動だにしない岩盤にぶつかったが如く、身も心も打ち砕かれて…、恋の悩みに沈んでいます と詠う男性。引き籠りに陥りそうで心配ではある。気丈に立ち直るよう、励ましてやりたい気にさせる歌である。
作者・源重之(?~1000?)は、56代清和天皇(在位858~876)のひ孫に当たる。三十六歌仙の一人で、特に63代冷泉天皇(在位967~969)の皇太子の折、皇太子に百首歌を献上しており、これは後世盛んに行われる“百首和歌”の祖とされている。
漢詩では、肘鉄に遭い、 恋煩いで“引き籠り”寸前に至るほど、打ち萎れている姿を描いた。下記ご参照ください。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [上声四紙韻]
碰釘子 釘子(クギ)に碰(ブツ)かる
因雨暴風波浪起, 暴風雨に因(ヨッ)て波浪(ハロウ)起り,
碰堅定岩砸自己。 堅定(ケンテイ)な岩に碰(ブツカ)り 自己(ミズカ)ら砸(クダ)ける。
摧残這身何所像, 摧残(フミニジ)られし這(コ)の身 何に像(ニ)たる所ぞ,
日夜担憂孤房里。 日夜 担憂(タンユウ)して孤(ヒトリ)房内にあり。
註]
碰釘子:肘鉄を食らう。 碰:ぶつかる。
堅定:動揺しない。 砸:砕ける。
摧残:踏みにじる。 担憂:憂える。
<現代語訳>
肘鉄を食らう
激しい暴風雨に惹き起こされた波浪、
びくともしない岩にぶつかり、自ら砕け散っている。
(想い人に)打ち砕かれたこの身は 一体何に似ているといえようか、
日夜憂いを懐いて 一人部屋に閉じこもっている。
<簡体字およびピンイン>
碰钉子 Pèng dīngzi
因雨暴风波浪起, Yīn yǔ bàofēng bōlàng qǐ,
碰坚定岩砸自己。 pèng jiāndìng yán zá zìjǐ.
摧残这身何所像, Cuīcán zhè shēn hé suǒ xiàng,
日夜担忧孤房里。 rìyè dānyōu gū fáng lǐ.
xxxxxxxxxxxxxxxx
源重行は、清和天皇の3子、貞元親王の孫・兼信の子、清和天皇のひ孫に当たる。父・兼信が陸奥安達郡に土着したことから、叔父の参議・兼忠の養子となる。官位は従五位下・筑前守に至った。清和源氏に属する。
冷泉天皇の時代に活躍し、天皇の皇太子時代、帯刀先生(タチハキノセンジョウ)を務め、天皇即位後は近衛将監となり、従五位下に叙爵する。次64代円融天皇(在位969~984)朝の半ば以降、相模権守(976)を皮切りに、信濃守・日向守・肥後守・筑前守など地方官を歴任した。
藤原氏を中心とする華やかな宮廷からは外れた存在で、河原左大臣(源融)、恵慶法師、平兼盛、清原元輔、大中臣能宜等々、源融の東六条河原院に集まった専門歌人グループの一人として歌を詠みかわしていた(閑話休題-132, -139, -167&-168)。
また三蹟の一人、藤原佐理(スケマサ)とも親交があり、991年以後に大宰大弐・佐理を頼って筑紫に向かっており、その折佐理の求めに応じて、書の手本となる歌を送っている。佐理の書には手本として、数多く重之の歌が用いられている と。
995年以後は陸奥守・藤原実方(百人一首 51番)に随行して陸奥国に赴いており、1000年の頃、当地で没したという。享年60余歳。
このように後半生は必ずしも順風とは言えず、不遇を嘆く歌、また陸奥における子息の死を悼む歌など遺されている。一方、経歴から見られるように、旅での生活を基に旅の歌を得意とし、地方の名所を詠んだ歌も多く、歌枕が頻出し、旅の歌人とも評されている。
62代村上朝(在位946~967)の頃、皇太子・憲平親王(のちの冷泉天皇)に百首歌『重之百首』を献上しており、これは後世盛んに行われる“百首和歌”の祖とされている。なお、上掲の歌はこの百首歌中、恋の部の歌である。
“百首(和)歌”とは、私的にまたは天皇や上皇の求めに応じて、一人または複数人で詠まれた百首の歌集をいう。『重之百首』は、重之一人で詠まれたもので、春(20)、夏(20)、秋(20)、冬(20)、恋(10)、雑(10)の計100首と、様式が整った最古のものとされ、後世の同集の祖とされている所以である。
重之は三十六歌仙の一人に撰ばれていて、『拾遺和歌集』(13首)以下の勅撰和歌集に66首入集されている。家集に『重之集』があり、『重之百首』はこの家集中に含まれている。
旅の歌人・重之の旅での歌(下記)を一首紹介します。旅にあって、恋しく思われるのはやはり都なのだ と満たされない気持ちが伝わって来るように思われます。
松がえに すみてとしふる しら鶴も
こひしきものは 雲井なりけり (『重之集』)
[松の枝に何年も住み着き齢を重ねている白鶴も 俗世間から超絶している
ように見えるが、恋しく思っているのは大空(雲居)なのだ]
砕けてものを 思ふころかな
源重之『詞花和歌集』恋上・211
<訳> 風が激しいので、岩にぶつかる波が砕けるように、私だけが千々に思い乱れて恋の物思いをするこの頃だなあ(板野博行)
oooooooooooooooo
想い人に胸の内を訴えたのだが、微動だにしない岩盤にぶつかったが如く、身も心も打ち砕かれて…、恋の悩みに沈んでいます と詠う男性。引き籠りに陥りそうで心配ではある。気丈に立ち直るよう、励ましてやりたい気にさせる歌である。
作者・源重之(?~1000?)は、56代清和天皇(在位858~876)のひ孫に当たる。三十六歌仙の一人で、特に63代冷泉天皇(在位967~969)の皇太子の折、皇太子に百首歌を献上しており、これは後世盛んに行われる“百首和歌”の祖とされている。
漢詩では、肘鉄に遭い、 恋煩いで“引き籠り”寸前に至るほど、打ち萎れている姿を描いた。下記ご参照ください。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [上声四紙韻]
碰釘子 釘子(クギ)に碰(ブツ)かる
因雨暴風波浪起, 暴風雨に因(ヨッ)て波浪(ハロウ)起り,
碰堅定岩砸自己。 堅定(ケンテイ)な岩に碰(ブツカ)り 自己(ミズカ)ら砸(クダ)ける。
摧残這身何所像, 摧残(フミニジ)られし這(コ)の身 何に像(ニ)たる所ぞ,
日夜担憂孤房里。 日夜 担憂(タンユウ)して孤(ヒトリ)房内にあり。
註]
碰釘子:肘鉄を食らう。 碰:ぶつかる。
堅定:動揺しない。 砸:砕ける。
摧残:踏みにじる。 担憂:憂える。
<現代語訳>
肘鉄を食らう
激しい暴風雨に惹き起こされた波浪、
びくともしない岩にぶつかり、自ら砕け散っている。
(想い人に)打ち砕かれたこの身は 一体何に似ているといえようか、
日夜憂いを懐いて 一人部屋に閉じこもっている。
<簡体字およびピンイン>
碰钉子 Pèng dīngzi
因雨暴风波浪起, Yīn yǔ bàofēng bōlàng qǐ,
碰坚定岩砸自己。 pèng jiāndìng yán zá zìjǐ.
摧残这身何所像, Cuīcán zhè shēn hé suǒ xiàng,
日夜担忧孤房里。 rìyè dānyōu gū fáng lǐ.
xxxxxxxxxxxxxxxx
源重行は、清和天皇の3子、貞元親王の孫・兼信の子、清和天皇のひ孫に当たる。父・兼信が陸奥安達郡に土着したことから、叔父の参議・兼忠の養子となる。官位は従五位下・筑前守に至った。清和源氏に属する。
冷泉天皇の時代に活躍し、天皇の皇太子時代、帯刀先生(タチハキノセンジョウ)を務め、天皇即位後は近衛将監となり、従五位下に叙爵する。次64代円融天皇(在位969~984)朝の半ば以降、相模権守(976)を皮切りに、信濃守・日向守・肥後守・筑前守など地方官を歴任した。
藤原氏を中心とする華やかな宮廷からは外れた存在で、河原左大臣(源融)、恵慶法師、平兼盛、清原元輔、大中臣能宜等々、源融の東六条河原院に集まった専門歌人グループの一人として歌を詠みかわしていた(閑話休題-132, -139, -167&-168)。
また三蹟の一人、藤原佐理(スケマサ)とも親交があり、991年以後に大宰大弐・佐理を頼って筑紫に向かっており、その折佐理の求めに応じて、書の手本となる歌を送っている。佐理の書には手本として、数多く重之の歌が用いられている と。
995年以後は陸奥守・藤原実方(百人一首 51番)に随行して陸奥国に赴いており、1000年の頃、当地で没したという。享年60余歳。
このように後半生は必ずしも順風とは言えず、不遇を嘆く歌、また陸奥における子息の死を悼む歌など遺されている。一方、経歴から見られるように、旅での生活を基に旅の歌を得意とし、地方の名所を詠んだ歌も多く、歌枕が頻出し、旅の歌人とも評されている。
62代村上朝(在位946~967)の頃、皇太子・憲平親王(のちの冷泉天皇)に百首歌『重之百首』を献上しており、これは後世盛んに行われる“百首和歌”の祖とされている。なお、上掲の歌はこの百首歌中、恋の部の歌である。
“百首(和)歌”とは、私的にまたは天皇や上皇の求めに応じて、一人または複数人で詠まれた百首の歌集をいう。『重之百首』は、重之一人で詠まれたもので、春(20)、夏(20)、秋(20)、冬(20)、恋(10)、雑(10)の計100首と、様式が整った最古のものとされ、後世の同集の祖とされている所以である。
重之は三十六歌仙の一人に撰ばれていて、『拾遺和歌集』(13首)以下の勅撰和歌集に66首入集されている。家集に『重之集』があり、『重之百首』はこの家集中に含まれている。
旅の歌人・重之の旅での歌(下記)を一首紹介します。旅にあって、恋しく思われるのはやはり都なのだ と満たされない気持ちが伝わって来るように思われます。
松がえに すみてとしふる しら鶴も
こひしきものは 雲井なりけり (『重之集』)
[松の枝に何年も住み着き齢を重ねている白鶴も 俗世間から超絶している
ように見えるが、恋しく思っているのは大空(雲居)なのだ]