34番 誰(タレ)をかも しる人にせむ 高砂の
松もむかしの 友ならなくに
藤原興風(オキカゼ) 『古今集』雑上・909
<訳> 私はいったい誰を心の許せる友としたらいいのでしょうか。あの千年の寿命を保っている松でさえも、昔からの友ではないのに。(板野博行)
oooooooooooo
親しい友は一人また一人と亡くなっていった。青葉を保つ松とて、曽て誼を結んだことはなく、今更である。これから胸襟を開いて話し合える友をどうしたものか と。作者何歳時の作か不明であるが、人生の重い課題を問う歌ではある。
作者・藤原興風は、“我が世の春”を謳歌する多くの藤原氏族の中では、さして恵まれたとは言えない家系にあったようで、地方官を重ねている。時代を遡れば、日本最古の歌論書『歌経標式』を著したご先祖・浜成が居り、優れた歌才を受け継いでいると言えよう。
率直な気持ちを詠った歌であり、調子を合わせて五言絶句としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [上平声十四寒・十一真韻]
郁郁不楽 郁郁(イクイク)として楽しまず
今和誰結懽, 今や誰と懽(カン)を結ばん,
石友各成塵。 石友(セキユウ)は各(オノ)おの塵と成る。
高砂松雖寿, 高砂(タカサゴ)の松 寿(イノチナガ)しと雖(イエド)も,
曾非那所親。 曾(カツ)て那(ソ)れは親しむ所に非(アラ)ず。
註]
結懽:友人として交際する。 石友:堅くて変わらぬ交わりをする友。
成塵:亡くなる。 雖寿:曹操:「亀雖寿」に依る。
高砂の松:現兵庫県高砂市の浜辺、白砂青松の名所。歌枕である。
<現代語訳>
うつうつとして楽しまず
今や誰と親しく友情を結んだらよいであろうか、
親友たちは一人また一人と已に亡くなっていった。
高砂の松は寿命が永く、未だに青々としているとはいえ、
それは昔から心が通じ合う友ではなかったのだ。
<簡体字およびピンイン>
郁郁不乐 Yùyù bù lè
今和谁结欢, Jīn hé shéi jié huān,
石友各成尘。 shí yǒu gè chéng chén.
高砂松虽寿, Gāoshā sōng suī shòu,
曾非那所亲。 céng fēi nà suǒ qīn.
xxxxxxxxxxxx
藤原興風は、生没不詳であるが、平安時代前期の歌人・官吏で、59代宇多天皇(在位887~897)のころ活躍した。数多くの歌合に出詠しており、『古今和歌集』(17首)以下の勅撰和歌集に38首入集、三十六歌仙の一人で、家集に『興風集』がある。管弦、特に琴に秀でていた と。
興風は、京家・藤原浜成の曾孫で、相模掾・道成の子息。父と二代続けて相模掾に任ぜられている。治部少丞を挟んで、上野権大掾、上総権大掾、位階は正六位上に至る。中央の政界では出世できず、父子ともに地方官を歴任している。
曾祖父・浜成(727~790)は、藤原・京家の祖、万葉歌人である麻呂(695~737)の嫡男である。46代孝謙(749~)-47代淳仁(758~)48代称徳(764~)-49代光仁(770~)-50代桓武天皇(781~806)に仕えた公卿・歌人である。
麻呂より一世代近く早く、他の藤原3家、南家・武智麻呂(680~737)、北家・房前(681~737)、式家・宇合(694~737)が誕生している。四者ともに不比等の子息であるが、麻呂は他3者の異母弟で、麻呂の母は五百重娘(天武夫人のち不比等の妻)、他3者の母は蘇我娼子である。
浜成は、従四位上(771)、参議に叙任(772)と出世されているが、他3家の同世代に比して出世は遅い。年齢差もあろうが、立太子や天皇の践祚の過程で他3家と歩調が合わなかった点も大きな要因であったようである。
特に山部親王(光仁帝第一皇子、後の桓武帝)の立太子に当たって、同親王の母の身分が低いことを理由に異を唱え、他の候補を立てて、激しく対立したようである。
後に山部親王が桓武帝として即位(781)すると、報復と思われ、浜成は太宰帥として下向、さらに太宰員外帥に降格される。また娘婿・氷上川継の変(782)に連座して、参議・侍従をも解任された。晩年は不遇な身に終わり、790年67歳で薨去された。
浜成と他3者と歩調が合わなかった深層には、皇統に関わる確執があったように思われる。称徳帝まで続いた天武系は、光仁帝で天智系に代わる。ただ光仁帝は、聖武帝の皇女・井上内親王を妻として他戸親王を設けていたことから、女系では天武系と言え、両系の“橋渡し役(?)”にも見える。
浜成は、歌論書『歌経標式』を光仁帝に献上しており、光仁帝は浜成の文学的才能を高く評価されていたようである。同帝の時期に順調に昇進を重ねている。ただ同書に引用された皇族歌人の数は、天武系に偏っている と。
祖母・五百重娘は、不比等の前に天武夫人であったこと。さらに娘婿・氷上川継は天武帝の曾孫にあたる等々、天武系により深い繋がりがあるように思われる。浜成は、天武帝に対して愛着と尊敬の念を抱いていたのではないか と推測されている。
光仁期は、ある種節目にあたる激動の変革期にあり、浜成はその大波に飲まれた偉人の一人であったように読める。藤原京家は、以後衰退していった と。上掲の歌の作者・興風およびその父・道成は、その余波を受けていたのであろう。
興風の別の面を示す歌を紹介して、本項の締めとします。管弦、特に琴に秀でていたようで、女性に人気があったのではないでしょうか。「あなたは本気なのかしら」と言ってきた恋人に、我が恋心は尽きることはないよ と応えているようです。
わが恋を 知らむと思えば、田子の浦に
たつらむ波の 数をかぞえよ (後撰和歌集 恋 藤原興風)
[わたしの恋心がどれほどのものか知りたいと思うなら
田子の浦に立つであろう波の数をかぞえてみなさい](小倉山荘氏)
松もむかしの 友ならなくに
藤原興風(オキカゼ) 『古今集』雑上・909
<訳> 私はいったい誰を心の許せる友としたらいいのでしょうか。あの千年の寿命を保っている松でさえも、昔からの友ではないのに。(板野博行)
oooooooooooo
親しい友は一人また一人と亡くなっていった。青葉を保つ松とて、曽て誼を結んだことはなく、今更である。これから胸襟を開いて話し合える友をどうしたものか と。作者何歳時の作か不明であるが、人生の重い課題を問う歌ではある。
作者・藤原興風は、“我が世の春”を謳歌する多くの藤原氏族の中では、さして恵まれたとは言えない家系にあったようで、地方官を重ねている。時代を遡れば、日本最古の歌論書『歌経標式』を著したご先祖・浜成が居り、優れた歌才を受け継いでいると言えよう。
率直な気持ちを詠った歌であり、調子を合わせて五言絶句としました。
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<漢詩原文および読み下し文> [上平声十四寒・十一真韻]
郁郁不楽 郁郁(イクイク)として楽しまず
今和誰結懽, 今や誰と懽(カン)を結ばん,
石友各成塵。 石友(セキユウ)は各(オノ)おの塵と成る。
高砂松雖寿, 高砂(タカサゴ)の松 寿(イノチナガ)しと雖(イエド)も,
曾非那所親。 曾(カツ)て那(ソ)れは親しむ所に非(アラ)ず。
註]
結懽:友人として交際する。 石友:堅くて変わらぬ交わりをする友。
成塵:亡くなる。 雖寿:曹操:「亀雖寿」に依る。
高砂の松:現兵庫県高砂市の浜辺、白砂青松の名所。歌枕である。
<現代語訳>
うつうつとして楽しまず
今や誰と親しく友情を結んだらよいであろうか、
親友たちは一人また一人と已に亡くなっていった。
高砂の松は寿命が永く、未だに青々としているとはいえ、
それは昔から心が通じ合う友ではなかったのだ。
<簡体字およびピンイン>
郁郁不乐 Yùyù bù lè
今和谁结欢, Jīn hé shéi jié huān,
石友各成尘。 shí yǒu gè chéng chén.
高砂松虽寿, Gāoshā sōng suī shòu,
曾非那所亲。 céng fēi nà suǒ qīn.
xxxxxxxxxxxx
藤原興風は、生没不詳であるが、平安時代前期の歌人・官吏で、59代宇多天皇(在位887~897)のころ活躍した。数多くの歌合に出詠しており、『古今和歌集』(17首)以下の勅撰和歌集に38首入集、三十六歌仙の一人で、家集に『興風集』がある。管弦、特に琴に秀でていた と。
興風は、京家・藤原浜成の曾孫で、相模掾・道成の子息。父と二代続けて相模掾に任ぜられている。治部少丞を挟んで、上野権大掾、上総権大掾、位階は正六位上に至る。中央の政界では出世できず、父子ともに地方官を歴任している。
曾祖父・浜成(727~790)は、藤原・京家の祖、万葉歌人である麻呂(695~737)の嫡男である。46代孝謙(749~)-47代淳仁(758~)48代称徳(764~)-49代光仁(770~)-50代桓武天皇(781~806)に仕えた公卿・歌人である。
麻呂より一世代近く早く、他の藤原3家、南家・武智麻呂(680~737)、北家・房前(681~737)、式家・宇合(694~737)が誕生している。四者ともに不比等の子息であるが、麻呂は他3者の異母弟で、麻呂の母は五百重娘(天武夫人のち不比等の妻)、他3者の母は蘇我娼子である。
浜成は、従四位上(771)、参議に叙任(772)と出世されているが、他3家の同世代に比して出世は遅い。年齢差もあろうが、立太子や天皇の践祚の過程で他3家と歩調が合わなかった点も大きな要因であったようである。
特に山部親王(光仁帝第一皇子、後の桓武帝)の立太子に当たって、同親王の母の身分が低いことを理由に異を唱え、他の候補を立てて、激しく対立したようである。
後に山部親王が桓武帝として即位(781)すると、報復と思われ、浜成は太宰帥として下向、さらに太宰員外帥に降格される。また娘婿・氷上川継の変(782)に連座して、参議・侍従をも解任された。晩年は不遇な身に終わり、790年67歳で薨去された。
浜成と他3者と歩調が合わなかった深層には、皇統に関わる確執があったように思われる。称徳帝まで続いた天武系は、光仁帝で天智系に代わる。ただ光仁帝は、聖武帝の皇女・井上内親王を妻として他戸親王を設けていたことから、女系では天武系と言え、両系の“橋渡し役(?)”にも見える。
浜成は、歌論書『歌経標式』を光仁帝に献上しており、光仁帝は浜成の文学的才能を高く評価されていたようである。同帝の時期に順調に昇進を重ねている。ただ同書に引用された皇族歌人の数は、天武系に偏っている と。
祖母・五百重娘は、不比等の前に天武夫人であったこと。さらに娘婿・氷上川継は天武帝の曾孫にあたる等々、天武系により深い繋がりがあるように思われる。浜成は、天武帝に対して愛着と尊敬の念を抱いていたのではないか と推測されている。
光仁期は、ある種節目にあたる激動の変革期にあり、浜成はその大波に飲まれた偉人の一人であったように読める。藤原京家は、以後衰退していった と。上掲の歌の作者・興風およびその父・道成は、その余波を受けていたのであろう。
興風の別の面を示す歌を紹介して、本項の締めとします。管弦、特に琴に秀でていたようで、女性に人気があったのではないでしょうか。「あなたは本気なのかしら」と言ってきた恋人に、我が恋心は尽きることはないよ と応えているようです。
わが恋を 知らむと思えば、田子の浦に
たつらむ波の 数をかぞえよ (後撰和歌集 恋 藤原興風)
[わたしの恋心がどれほどのものか知りたいと思うなら
田子の浦に立つであろう波の数をかぞえてみなさい](小倉山荘氏)