(44番)逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに
人をも身をも 恨みざらまし
中納言朝忠 『拾遺集』恋一・678
<訳> もし、あなたと逢うことがなかったら、あなたの無情やわが身のつらさを恨んだりすることもないだろうに。(板野博行)
ooooooooooooooo
なまじ逢ったことがあるだけに、今の君の冷淡な振る舞いに、また自分の辛い運命に恨み言も言いたくなるのだよ と。恋慕の情はますます募り、遣る瀬無い思いに駆られている様子が読み取れます。
作者は、中納言朝忠こと藤原朝忠(910~967)、従三位・中納言まで昇進した平安中期の公家・歌人。三十六歌仙の一人で、漢文にも優れ、和楽器・笙の名手でもあったと伝えられている。
「恨み節」の七言絶句としました。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [去声十四願韻]
怨言 怨言(エンゲン)
好久没有逢機会, 好久(ズイブン)と逢う機会なく,
不勝恋慕転愁闷。 恋慕(レンボ)に勝(タ)えず 転(ウタ)た愁闷(シュウモン)。
曾無経歴所相爱, 曾て相愛せし所の経歴無かりせば,
対自和君何抱恨。 自(ミズカラ)和(ト)君に対し 何ぞ恨みを抱(イダ)かんか。
註]
好久:長い間。 転:だんだん甚だしくなるさま。
愁闷:気が滅入る。
<現代語訳>
恨み節
長らく逢う機会がなくなって、
思慕の念に堪えられず、ますます気が滅入ってくる。
嘗て愛し合ったことがなかったなら、
自分にもまた君にも、こんなに恨みを抱くことはなかったろうに。
<簡体字およびピンイン>
怨言 Yuànyán
好久没有逢机会, Hǎojiǔ méiyǒu féng jīhuì,
不胜恋慕转愁闷。 bùshèng liànmù zhuǎn chóumèn.
曾无经历所相爱, Céng wú jīnglì suǒ xiāng'ài,
对自和君何抱恨。 duì zì hé jūn hé bàohèn.
xxxxxxxxxxxxxxx
歌の作者・藤原朝忠は、藤原北家高藤流、右大臣・藤原定方(百人一首-25番、閑話休題-129)の五男。官位は、従三位・中納言まで昇進、60代醍醐-61代朱雀-62代村上天皇の3代にわたり厚い信任を受けていた。
上掲の和歌について少々触れておく必要がある。同歌は、村上天皇主催の天徳内裏歌合(960、閑話休題-132)では「まだ逢ったことのない相手への恋(未逢恋)」の題部で詠われ、“勝ち”を収めた歌のようである。『拾遺和歌集』にもその部類として載っている と。
しかし藤原定家は、「一度逢ったのち何かの事情で逢えなくなった恋(逢不逢恋)」、失恋の歌として読んだ。後世の主たる百人一首の注釈書も同様の解釈を採っている と。漢訳はその解釈に従った。但しこの歌は、朝忠51歳時の作のようではあるが。
歌人として『後撰和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に21首を入集され、家集に『朝忠集』がある。三十六歌仙の一人である。天徳内裏歌合では巻頭歌を出詠しており、また6番中5番で“勝ち”を収めているということで、名に恥じない優れた歌人と言えよう。
和楽器の笛・笙の名手ということで、女性にモテたようである。少弐、大輔、右近衛府(右近)などの宮廷の才女、また村上天皇の中宮や女御に仕える才女たちとの恋の贈答歌が遺されている と。恋人という話題のあった右近の一首は百人一首に選ばれている(38番、閑話休題-136)。
中納言朝忠の逸話として、時々見掛けるのに「水飯の事」がある。その話の筋はこうである。普段の立ち居振る舞いにも難儀をかこつ肥満の三条中納言が、思い余って医者にダイエット法を相談した。医者は、「冬は湯漬け、夏は水漬け」で食事をするよう助言する。
暫く経って医者を呼びつけ、“助言通りにしたが、一向に効き目がない”と言い、賄い役に“水飯”を用意させ、食事摂取の具合を再現した。3寸切り干し瓜十ほど盛った食器、尾頭つき大ぶりの鮎の塩辛三十ばかり、それに大盛りのご飯に水を入れた椀が並べられた。
三条中納言は、干し瓜を五つ六つ、塩辛五つ六つをぺろりと平らげ、水飯の椀を取り空っぽにする。これを2,3度おかわりして、ご飯のお櫃も追加し、出された食べ物を平らげる。医者はその様子を見て、“御太りなど治るはずはない”と言って逃げ去った と。
『宇治拾遺物語』にある話であるが、“三条中納言”とは、藤原定方の六男・朝成の号である。因みに朝忠の号は、“土御門中納言”または“堤中納言”とされている。
歴史のどっかで話題の主が、朝成から朝忠に化けたようである。話を混乱させているのは、朝成も才賢く、唐(モロコシ)に詳しく、笙の腕前も見事、ともに定方の子息で“中納言”と、重なる部分が多いことによるのであろうか。
本稿の本論からやや逸れた話題ではあるが、“普段の立ち居振る舞いにも難儀をかこつ”ほどの肥満体では、上掲の歌のイメージとあまりにも掛け離れているため、敢えて朝忠の“名誉(?)”にかけて触れることにしました。
天徳内裏歌合に出詠された朝忠の歌をもう一首紹介して本稿の締めとします。
わが宿の 梅が枝に鳴く 鶯は
風のたよりに 香をや尋めこし (玉葉集 42)
[私の居る家の梅の枝で鳴く鴬は 風の案内によって香りを求めて
やって来たのだろうか] (Wikipedia)
人をも身をも 恨みざらまし
中納言朝忠 『拾遺集』恋一・678
<訳> もし、あなたと逢うことがなかったら、あなたの無情やわが身のつらさを恨んだりすることもないだろうに。(板野博行)
ooooooooooooooo
なまじ逢ったことがあるだけに、今の君の冷淡な振る舞いに、また自分の辛い運命に恨み言も言いたくなるのだよ と。恋慕の情はますます募り、遣る瀬無い思いに駆られている様子が読み取れます。
作者は、中納言朝忠こと藤原朝忠(910~967)、従三位・中納言まで昇進した平安中期の公家・歌人。三十六歌仙の一人で、漢文にも優れ、和楽器・笙の名手でもあったと伝えられている。
「恨み節」の七言絶句としました。
xxxxxxxxxxxxxxx
<漢詩原文および読み下し文> [去声十四願韻]
怨言 怨言(エンゲン)
好久没有逢機会, 好久(ズイブン)と逢う機会なく,
不勝恋慕転愁闷。 恋慕(レンボ)に勝(タ)えず 転(ウタ)た愁闷(シュウモン)。
曾無経歴所相爱, 曾て相愛せし所の経歴無かりせば,
対自和君何抱恨。 自(ミズカラ)和(ト)君に対し 何ぞ恨みを抱(イダ)かんか。
註]
好久:長い間。 転:だんだん甚だしくなるさま。
愁闷:気が滅入る。
<現代語訳>
恨み節
長らく逢う機会がなくなって、
思慕の念に堪えられず、ますます気が滅入ってくる。
嘗て愛し合ったことがなかったなら、
自分にもまた君にも、こんなに恨みを抱くことはなかったろうに。
<簡体字およびピンイン>
怨言 Yuànyán
好久没有逢机会, Hǎojiǔ méiyǒu féng jīhuì,
不胜恋慕转愁闷。 bùshèng liànmù zhuǎn chóumèn.
曾无经历所相爱, Céng wú jīnglì suǒ xiāng'ài,
对自和君何抱恨。 duì zì hé jūn hé bàohèn.
xxxxxxxxxxxxxxx
歌の作者・藤原朝忠は、藤原北家高藤流、右大臣・藤原定方(百人一首-25番、閑話休題-129)の五男。官位は、従三位・中納言まで昇進、60代醍醐-61代朱雀-62代村上天皇の3代にわたり厚い信任を受けていた。
上掲の和歌について少々触れておく必要がある。同歌は、村上天皇主催の天徳内裏歌合(960、閑話休題-132)では「まだ逢ったことのない相手への恋(未逢恋)」の題部で詠われ、“勝ち”を収めた歌のようである。『拾遺和歌集』にもその部類として載っている と。
しかし藤原定家は、「一度逢ったのち何かの事情で逢えなくなった恋(逢不逢恋)」、失恋の歌として読んだ。後世の主たる百人一首の注釈書も同様の解釈を採っている と。漢訳はその解釈に従った。但しこの歌は、朝忠51歳時の作のようではあるが。
歌人として『後撰和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に21首を入集され、家集に『朝忠集』がある。三十六歌仙の一人である。天徳内裏歌合では巻頭歌を出詠しており、また6番中5番で“勝ち”を収めているということで、名に恥じない優れた歌人と言えよう。
和楽器の笛・笙の名手ということで、女性にモテたようである。少弐、大輔、右近衛府(右近)などの宮廷の才女、また村上天皇の中宮や女御に仕える才女たちとの恋の贈答歌が遺されている と。恋人という話題のあった右近の一首は百人一首に選ばれている(38番、閑話休題-136)。
中納言朝忠の逸話として、時々見掛けるのに「水飯の事」がある。その話の筋はこうである。普段の立ち居振る舞いにも難儀をかこつ肥満の三条中納言が、思い余って医者にダイエット法を相談した。医者は、「冬は湯漬け、夏は水漬け」で食事をするよう助言する。
暫く経って医者を呼びつけ、“助言通りにしたが、一向に効き目がない”と言い、賄い役に“水飯”を用意させ、食事摂取の具合を再現した。3寸切り干し瓜十ほど盛った食器、尾頭つき大ぶりの鮎の塩辛三十ばかり、それに大盛りのご飯に水を入れた椀が並べられた。
三条中納言は、干し瓜を五つ六つ、塩辛五つ六つをぺろりと平らげ、水飯の椀を取り空っぽにする。これを2,3度おかわりして、ご飯のお櫃も追加し、出された食べ物を平らげる。医者はその様子を見て、“御太りなど治るはずはない”と言って逃げ去った と。
『宇治拾遺物語』にある話であるが、“三条中納言”とは、藤原定方の六男・朝成の号である。因みに朝忠の号は、“土御門中納言”または“堤中納言”とされている。
歴史のどっかで話題の主が、朝成から朝忠に化けたようである。話を混乱させているのは、朝成も才賢く、唐(モロコシ)に詳しく、笙の腕前も見事、ともに定方の子息で“中納言”と、重なる部分が多いことによるのであろうか。
本稿の本論からやや逸れた話題ではあるが、“普段の立ち居振る舞いにも難儀をかこつ”ほどの肥満体では、上掲の歌のイメージとあまりにも掛け離れているため、敢えて朝忠の“名誉(?)”にかけて触れることにしました。
天徳内裏歌合に出詠された朝忠の歌をもう一首紹介して本稿の締めとします。
わが宿の 梅が枝に鳴く 鶯は
風のたよりに 香をや尋めこし (玉葉集 42)
[私の居る家の梅の枝で鳴く鴬は 風の案内によって香りを求めて
やって来たのだろうか] (Wikipedia)