愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題281 陶淵明(7) 園田の居に帰る 五首  其の五

2022-10-10 09:16:46 | 漢詩を読む

“俗世間”との交わりを断ち田園生活を始めるに際して詠われた《園田の居に帰る》、細切れにして読んできました。その最終章:其の五に至りました。農作業を終え、谷川の清らかな水で足を洗い、帰宅。新熟の濁酒に鶏料理を用意して、隣人に声を掛けて寛いでいます。

 

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 帰園田居 其の五  

悵恨独策還、 悵恨(チョウコン)して独り策(ツエ)つきて還(カエ)り、 

崎嶇歴榛曲。 崎嶇(キク)として榛曲(シンキョク)を歴(ヘ)たり。 

山澗清且浅、 山澗(サンカン) 清く且(カ)つ浅く、 

可以濯吾足。 以(モッ)て吾が足を濯(アラ)う可(ベ)し。 

漉我新熟酒、 我が新熟の酒を漉(コ)し、 

隻鶏招近局。 隻鶏(セキケイ)もて近局(キンキョク)を招く。 

日入室中闇、 日ヒ)入りて室中(シツチュウ)闇く、 

荊薪代明燭。 荊薪(ケイシン)もて明燭(メイショク)に代(カ)ゆ。 

歓来苦夕短、 歓(ヨロコ)び来(キタ)って夕べの短きに苦しみ、 

已復至天旭。 已(スデ)に復(マ)た天旭(テンキョク)に至る。 

 註] 〇悵恨:いたみ恨む。前詩(其四)を承けて、死没した昔人を悼み、幻化の如き

  人生を恨む意; 〇崎嶇:起伏するさま; 〇榛曲:叢木地区; 〇濯吾足:屈原の

  『漁父辞』に「滄浪の水清ければ以て吾が纓(エイ)を濯ぐ可く、滄浪の水濁らば以て 

  吾が足を濯ぐ可し」。“纓”は役人の冠についた紐のことで、官途に就く意味。一方、

  足を濯ぐとは、官途を去ること; 〇近局:近曲に同じ、近隣; 〇歓来:“来”は 

  語助詞; 〇天旭:夜の明けること。  

<現代語訳> 

心穏やかではいられないまま杖をつきながら帰路につき、

灌木の生い茂る起伏の激しい山道を通りかかった。

谷間の水は清らかで底が浅く見える、

その清らかな水で足をすすげば少しは気持ちをさっぱりとさせられよう。

家に帰ったあと 出来立ての自家製の酒を漉し、

鶏を一羽つぶして隣人を招いた。

日は沈んで室内は暗く、

薪を燃やして灯りの代わりとする。

話がはずんでようやく愉快な気持ちになったが 夏の夜の短いのが恨めしい、

早やもう夜が明けようとしている。

          [松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る]

<簡体字およびピンイン> 

 帰园田居 其の五  Guī yuántián jū  qí wǔ  [入声二沃韻] 

怅恨独策还、 Chàng hèn dú cè hái,  

崎岖歴榛曲。 qíqū lì zhēn .         

山涧清且浅、 Shān jiàn qīng qiě qiǎn, 

可以濯吾足。 kě yǐ zhuó wú .  

漉我新熟酒、 Lù wǒ xīn shú jiǔ,  

只鶏招近局。 zhī jī zhāo jìn .  

日入室中暗、 Rì rù shì zhōng àn,  

荆薪代明烛。 jīng xīn dài míng zhú.  

歓来苦夕短、 Huān lái kǔ xī duǎn,  

已复至天旭。 yǐ fù zhì tiān . 

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陶淵明は、意を決して田園に帰り、詩作に没頭し、後に“隠逸詩人”、“田園詩人”あるいは“酒の詩人”と称されるに至りました。そのスタートの詩・《園田の居に帰る》を締めるに当たって、ここで“隠逸”について、歴史的流れを含めて、概観しておきたいと思います。

 

まず、“隠逸(インイツ)”に関わる用語は、“隠遁(イントン)”、“退隠”、“帰隠”、“隠”、“遁” 等々ほぼ同義語で、さらに“隠者”や“逸民”などが文献上目に止まる。ところで、“隠遁”の意味合いは、「誰が、何故に、何処から何処に“隠遁”する」のか、日本と中国で、さらに中国では時代によってかなり考え方に違いがあるようである。

 

日本においては、“隠遁”とは、この世の中を“汚らわしいもの、儚きもので厭うべきところ”と見て、世俗から脱して別の世界を目指して逃避すること、“世捨て人” を意味しているようである。すなわち、“日常生活を営む社会、一般社会、世俗”からの逃避を意味しており、その行為は、身分を問わず行い得る“あこがれ”の対象とされていたように思われる。

 

一方、中国においては、当初、基本的に逃避する“世俗”とは、“君に出仕することを目標とする官僚社会”を意味しており、“隠遁”とは、“自己の主義を守り通すために、出仕する場・宮仕え“からの逃避、またはこの“世俗”を無視すること” を意味していたようである。

 

したがって、“隠遁”とは処世術の一つであり、それを行使するのは、知識階級(士大夫階級)の宮仕えを目標とする官僚であり、“世俗”と、自分の考えが合わず、自分の行為が全うできず、自分の意に沿わない時、 “官僚社会から「隠れる」こと”である。一般庶民とは全く関係のない行為なのである。以下、中国における“隠遁”の流れを概観します。

 

歴史的には、“隠遁”は ●不満からの逃避、●自由への憧れ、●山水を愉しむ など、時代によりその目的・趣きを異にしている。“隠遁”最初の例は、周代、孤竹国(コチクコク)の王子・伯夷(ハクイ)・叔斉(シュクセイ)兄弟の故事で、司馬遷の「史記列伝」で一番目に挙げられている と。

 

両王子は、周の武王が殷王朝を倒そうとする行為を、“仁”に悖ると 諫めたが聞き入れられないばかりか、武王の家臣が兄弟の無礼に怒り、二人を殺害しようとしたので、首陽山に隠れて隠棲します。孔子は、両人を聖人とし、その行為を褒め称えた と。 

 

前漢の頃、王莽(前45~後23)は、幼少の皇帝を立てて実権を握り,ついには“新”朝を創建(在位9~23)したが、天下は大乱となる。官僚たちは安穏の日々を送ることが出来ず、生命の危険さえ感じていた。そこで官命の届かない安全な場所・山野に“身を隠す”ことになった。

 

三国~晋代になると、生命の危険がなくとも“隠遁”する風潮が生まれる。後漢滅亡後、儒教思想は知識人の支持を失い、老荘思想が脚光を浴びるようになった。すなわち、「無為自然」、人間本来あるがまゝの姿を尊重する、自由を求める風潮が醸成されてきた。阮籍(ゲンセキ)・稽康(ケイコウ)など「竹林の七賢」とされる人々が現れます。

 

此の頃になると、政治に対して積極的に抵抗し、むしろ官界を“俗”とし、自由を求めるようになる。一方、荒涼とした“山野”を“山水”と美しいイメージで捉えるようになり、“山水”などの風物を「自然」と呼び、人間より卓越した世界と見るようになる。今日に生きている「自然 nature」の概念の誕生と言えよう。

 

晋代末から劉宋のころに世に出た陶淵明は、老荘思想、時の隠遁思想の洗礼を受け、特に注目すべきは、自然界の風物、すべての“自然”の中に“真理”があると見抜いたことであろう。この考え方を基礎として、田園に身を置いて詩作に専念するのである。“隠逸詩人”、“田園詩人”とされる所以であり、さらに“酒の詩人”の称号が加わる。

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