秋の夜長、閑居のつれづれに毎夕酒を飲み、酔後、気ままに書き連ねたもの。「飲酒」と題するが、必ずしも酒を詠っているわけではなく、むしろ酒に託して自己の心境を告白したもののようである。陶淵明を知るのに格好と思われるので、《飲酒二十首》を選び、読んで行きます。
なお、二十首中《其の五》および《其の七》は、ネット上でも多くの解説記事が目に留まり、広く知られていて、筆者の日常に口ずさむレパートリーの一部ともなっています。しかし[陶淵明]の“真面目”を捉えたいという望みから、向後、全二十首を順次、読み解いていくべく、心積もりしています。まず、その“序文”を。
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飲酒 二十首 序文
序文
余閑居寡歓、 余(ワ)れ閑居(カンキョ)して歓び寡(スクナ)く、
兼比夜已長。 兼(カ)ねて比(コノゴロ) 夜 已(スデ)に長し。
偶有銘酒、 偶ゝ(タマタマ) 銘酒有り、
無夕不飲。 夕(ユウベ)として飲まざる無し。
顧影独尽、 影を顧(カエリ)みて独(ヒト)り尽くし、
忽焉復酔。 忽焉(コツエン)として復(マ)た酔う。
既酔之後、 既に酔うの後(ノチ)は、
輒題数句自娯。輒(スナワ)ち数句を題して自(ミズカ)ら娯(タノ)しむ。
紙墨遂多、 紙墨(シボク)遂(ツイ)に多く、
辞無詮次。 辞(ジ)に詮次(センジ)無し。
聊命故人書之、聊(イササ)か故人に命じて之(コ)れを書せしめ、
以為歓笑爾。 以(モッ)て歓笑(カンショウ)と為(ナ)さん爾(ノミ)。
註] 〇忽焉:すばやいさま; 〇輒:同様の事情や行為があるごとに、結果が繰り返して
あらわれることを表す。「そのたびに」、「……のときはいつも」; 〇紙墨:紙と墨、
墨で書いた文書; 〇詮次:順序、次第、順序・配列を決める; 〇聊:いささか、
ひとまず; 〇歓笑:明るく笑う; 〇爾:助詞、判断を示す文の末に置き、肯定や
確認を示し、(…なのである)。
<現代語訳>
わたしはひっそりと暮らして楽しみも少なく、
しかもこの頃は夜が長くなった。
たまたま銘酒が手に入ったので、
飲まぬ夜とてない。
影法師を相手に独り飲み干して、
飲むと忽ち酔ってしまう。
酔うた後には、
二、三の詩句を書き写してひとり楽しむのが常である。
何時しか書き散らしたものが増えてしまい、
字句は前後の脈絡に欠ける。
ともかく友人に書き写してもらい、
お笑い草にでもと思っている。
[松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る]
<簡体字およびピンイン>
序文 Xùwén
余闲居寡欢、 Yú xiánjū guǎ huān,
兼比夜已长。 jiān bǐ yè yǐ zhǎng.
偶有铭酒、 Ǒu yǒu míngjiǔ,
无夕不饮。 wú xī bù yǐn.
顾影独尽、 Gù yǐng dú jǐn,
忽焉复醉。 hū yān fù zuì.
既醉之后、 Jì zuì zhīhòu,
辄题数句自娯。zhé tí shù jù zì yú.
纸墨遂多、 Zhǐ mò suì duō,
辞无诠次。 cí wú quán cì.
聊命故人书之、Liáo mìng gùrén shū zhī,
以为欢笑尔。 yǐ wéi huān xiào ěr.
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《飲酒 二十首》は、“宮仕えか”、“田園生活か”と心が揺れ動いていた陶淵明が、田園への“隠遁”生活へと覚悟を決した初期の頃の作と想像される。詩の制作年については、松枝茂夫・和田武司(注1)によれば、淵明が、彭沢より帰田後の四十歳(405)前後、あるいは帰田後12年を経た53歳頃の作とする2説がある と紹介している。
なお、下定雅弘(注2)は、《飲酒 二十首》全体の詩の内容及び詩中の文言から、母・孟氏が亡くなり(401)、その喪に服して郷里で閑居していた、38歳(402)または39歳(403)の秋から冬の頃の作であろうとしている。
作時期については諸説あるようですが、本序文に触れているように、少なくとも一気に書いたものではなく、恐らくは酒下に雑念から解放された状態(?)で、折に触れて書き留めていったものを、ある時期一連の繋がりとして纏めて、本序文を添えて完成したもののようである。
向後、《飲酒 二十首》を読んで行くに当たって、その道標となると思われるので、下定雅弘の著作(注2)から、以下、参考となる部分を丸ごと転記させて頂きます。
<陶淵明の文学は、官界への未練と死への恐れを、克服すべき二つの大きな課題としつつ、終生、揺れと葛藤を示しながらも、農耕生活を基盤として、飲酒・琴・読書・家族愛・田園の風景など、さまざまな人として生きる喜びと味わいを歌い続けるものである。これを淵明的世界とすれば、この淵明的世界の入り口に位置しているのが《飲酒 二十首》である>。
追記]
先に、梁・武帝の長子、蕭統の『陶淵明伝』(注1)を基に、淵明の生涯を振り返ってきましたが、記載する機会がなく、この期に及んだ。淵明を知る上で貴重と思えるので、『陶淵明伝』の書き遺した分をここに追記しておきます。
<陶淵明は楽器はひけなかった。にもかかわらず弦(イト)のない琴を一面持っていて、酔ってよい機嫌になると、その琴を撫でさすりして自分の気持ちを表すのであった。身分の上下にかかわらず、誰でも自分の許に来た人には、酒があると一席設けた。
しかし陶淵がもし先に酔った場合には、あっさり客に告げるのであった。“わたしは酔って眠くなった。どうかお引き取りくださらんでしょうか”。その飾り気のない率直さはこの通りであった。>
<かれの妻の翟(テキ)氏もよく貧苦の生活に安んじ、彼と志を同じうした。かれは曽祖が晋代の宰相であったから、今さら次の宋朝に身を屈して仕えることを恥じ、宋の高祖(劉裕)以来、天下は次第に安定してきたが、もはや再び出仕する気はなかった。
元嘉四(427)年、またお召の勅命がくだろうとするとき、たまたま逝去した。時に年六十三。世に靖節(セイセツ)先生と号す。>
<参考文献>
注1:松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫 2015
注2:下定雅弘 『陶淵明「飲酒 二十首」をどう読むか? ―その主題と制作時期―』
中国文史論叢 岡山:中国文史研究会 (4) 2008