愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 284 飛蓬-157 箱根路を過ぎる 第3代征夷大将軍 源実朝 

2022-10-25 09:27:23 | 漢詩を読む

鎌倉三代将軍 源実朝(1192~1219)の歌「箱根路を……」(下記)を漢詩に翻訳してみました。実朝の歌の中でも、万葉調の代表的な歌として絶賛されている歌です。伊豆・箱根権現の二所詣(ニショモウデ)の帰路、箱根路を通り過ぎようとした折に作られている。

 

 [詞書] 箱根の山を打ち出でてみれば、波の寄る小島あり。共(トモ)の者、この海の名

  は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答え侍(ハベ)りしを聞きて、箱根に

  詣づとて  

箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 

  沖の小島に 波の寄るみゆ 

     [金槐和歌集・雑・639; 続後撰和歌集・羇旅・1312] 

(大意:伊豆・箱根権現参詣の二所詣での帰路、箱根路を通ってくると 遥か彼方 眼下 

 に伊豆の海が広がっており、沖の小島に波が寄せては砕けた白波が見えるよ) 

xxxxxxxxxxxxx

 過箱根路  第三代将軍源実朝      [上声十七篠韻-上声十九皓韻]  

西仰霊峰東天杳, 西に霊峰を仰ぎ 東に天(テン)杳(ヨウ)たり,

欲吾越過箱根道。 吾れ箱根の道を越過(コ)えんと欲す。

迢迢遼闊伊豆海, 迢迢(チョウチョウ)として遼闊(リョウカツ)たり伊豆の海,

只看波寄沖小島。 只だ看る 沖の小島に波の寄るを。

 註] 〇霊峰:富士山; 〇杳:はるかに遠いさま; 〇迢迢:道が遠いさま; 

  〇遼闊:果てしなく広い; 〇伊豆海:伊豆半島東部に広がる相模灘; 

  〇沖の小島:相模湾の初島。   

<現代語訳> 

 箱根路を過(ヨ)ぎる

西に霊峰・富士を仰ぎ見 東に杳杳たる青空を見つつ、

今 わたしは箱根路を行き過ぎようとしている。

眼下、遥か遠く、茫漠とした伊豆の海に、

只 沖の小島に波が寄せるのが見えるだけである。

<簡体字およびピンイン> 

西仰灵峰东天杳, xī yǎng líng fēng dōng tiān yǎo. 

欲吾越过箱根道。 yù wú yuè guò xiānggēn dào,  

迢迢辽阔伊豆海, Tiáo tiáo liáokuò yīdòu hǎi, 

只看波寄冲小岛。 zhǐ kàn bō jì chōng xiǎo dǎo

oooooooooooooooo

 

源実朝の歌については、「小倉百人一首」に撰された「93番 世の中は常にもがもな渚漕ぐ海女の小舟の綱手かなしも」(注1)、さらに「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨止めたまえ」(注2)の両歌に関しては、既に漢詩として紹介しました。 

 

これら両歌ともに、実朝が目を向けているのは“庶民”です。かの年代、労働者、“租税”の対象者としてだけではなく、“生活者・庶民”に意を注がれた為政者はいたであろうか? という思いもあり、人間・実朝に心惹かれて、彼の遺した歌に関心を寄せております。

 

実朝は、武士の家系に生まれ育ち、遠く雅な都・京都から離れた“東夷”の地で、坂東武者の中に育ち、京都在住の藤原定家を師として、今でいう“通信教育法”により “和歌”を学び、詠んでいます。かの正岡子規が「万葉歌人・柿本人麻呂や山部赤人に匹敵する優れた歌詠みである」と絶賛する歌人に成長しています。

 

父・頼朝は、勅撰和歌集『新古今和歌集』に二首撰されており、実朝はこの事実を知り、刺激を受けて歌作を志す一因ともなったようである。定家という当代の最先端をいく素晴らしい“師”に恵まれたことも幸運であったとすべきでしょう。

 

当時、“国の政(マツリゴト)”を京都に替わって、鎌倉で執り行おうとする大きな流れが出来つつある時代であった。実朝は、征夷大将軍として“国を守る”役割を担わされていたばかりではなく、成長に伴い、自ら“政”に関わる“為政者”としての一面も自覚していったのではないでしょうか。

 

しかしその面では、北条氏の存在が大きく、実朝は、自ら携わることが叶わない状況に追いやられていた。かかる状況下、実際に進められている“政”を客観的に観察する機会とし、 “政”のあるべき理想像を自ら描き、その中で“庶民”の存在、位置づけも構築していたと想像されます。歌に見るように、“庶民”にも目を向けていた実朝でした。

 

さて掲題の歌は、詞書にあるように、伊豆・箱根権現の二所詣からの帰路の折に詠まれた歌である。伊豆・箱根権現は、父頼朝の信仰が熱く、頼朝はしばしば詣でていたという。実朝は、将軍として16歳から22歳の間に8回二所詣を行っており、掲題の歌は、その最後の詣での折(1213)であると、考証されています。

 

伊豆・箱根権現に何を“願掛け”し、眼前に広がる伊勢の大海原、そこに浮かぶ沖の小島を眼にして、何を思っていたのでしょう? 

 

実朝年譜によれば、1213年には、藤原定家より『万葉集』や種々の歌会、歌絵巻などの文書が贈られている。また12月には実朝の歌集・『金塊和歌集』が成立している。一方、5月に和田合戦があり、和田義盛が戦死するという未だ定まらぬ世でした。

 

目下、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送中で、最近は、実朝の動向が注目される展開である。

 

[参考]

 注1:『心の詩(うた) 漢詩で詠む百人一首』& 閑話休題154 (’20. 07. 10) 

 注2:閑話休題268 (‘22. 06. 27) 

 

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