愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題322 飛蓬-175   世の中は 鑑にうつる 三代将軍 源実朝

2023-03-06 09:28:26 | 漢詩を読む

日常、鏡に向かい自らの像(影)と対面しているのであるが、なんら不思議なことが起こっているわけではない。物理学的に満足な説明ができる現象なのである。しかしこの歌に対すると、一歩も、2歩も後退りすることを覚える。

 

表面的には難しい用語があるわけではなく、読むのに苦労する歌ではない。しかしその歌の真意は、仏教に触れる内容であり、非常に難しい歌である。漢詩では、“詞書”にある“中道観”について詠みこんだ。

 

ooooooooo 

  詞書] 大乗作中道観歌  

世の中は 鑑にうつる 影にあれや 

  あるにもあらず なきにもあらず (金槐集 雑・614) 

 (大意) 世の中は 鏡に映る、実体の無い像のようなものなのであろうか、

  “有る”のでもなく、かと言って、“無い”のでもない。  

xxxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 中道観歌     中道観(ガン)の歌   [上平声七虞韻]

仏説中道途、 仏教 中道観の途を説く、

中與仮空殊。 中道観は仮(ケ)観や空観とは殊(コト)なる と。

世是鏡中影、 世は是(コ)れ鏡中の影ならんか、

非有亦非無。 有(アル)にも非(アラ゙)ず 亦(マタ) 無(ナキ)にも非ず。

 註] 〇仏:仏教; 〇中道:一方に偏らない考え方・やり方、中道観; 

  ○途:考え方; 〇仮空:“仮”は仮の姿(仮観)、“空”は実体はなく“空”で 

  あること(空観); 〇世:この世の中。  

<現代語訳> 

 中道観の歌 

仏教では、普遍で中正の道、中道観を説く、

中道観とは、仮の姿と すべて存在しない空と異なり 三観の一つ。

この世の中は、鏡に映った像であると言えようか、

実態があるわけでもなく、かと言って無いわけでもない。

<簡体字およびピンイン> 

 中道观歌       Zhōng dào guān gē

仏説中道途、 Fó shuō zhōng dào

中与仮空殊。 zhōng yǔ fǎn kōng shū

世是镜中影、 Shì shì jìng zhōng yǐng, 

非有亦非無。 fēi yǒu yì fēi

ooooooooo 

 

中道観とは、 「大乗の教えの中に三観がある。そのうち、“有”にも偏せず、“空”にも偏せぬ中道を観ずるのを中道観という。この歌はその中道観を説いたのである。」『山家集・金槐和歌集』 (日本古典文学大系 岩波書店 1971)の頭注の記載である。

 

驚かされるのは、掲歌を含めて、実朝が、宗教的内容、あるいは慈悲心の歌を少なからず詠っていることである。その面について、実朝の宗教、中でも仏教との関りを『吾妻鑑』から拾い、点描してみます。

実朝は、1203(建仁三)年9月15日、12歳、征夷大将軍の宣旨を受け、10月24日右兵衛佐に叙任された。翌25日、御所に荘厳房行勇を招き、法華経の講義を受け、12月1日には“法華八講”に参加している。法華八講とは、法華経8巻を一巻づつ最初から8回に分けて講義して称える法会である と。

 

1204年1月8日には、御所で真智房法橋を導師として、心経会(シンギョウエ)に臨んだ。心経会とは、禍を防ぎ福を招くため “般若心経”を読み、講義を聞くことである。

 

一方、儒教で重視される『孝経』について、源仲章(ナカアキラ)の指導で、“御読書始め”が行われたのは、1204年1月12日である。“御読書始め”とは、禁中、将軍家、公家などで、幼少の者がはじめて読書を行なう儀式で、書物は『御注孝経』が多く用いられた。

 

また和歌の学習に必要な『蒙求和歌』や『百詠和歌』が源光行によって用意されたのが、それぞれ、1204年7月及び10月である。すなわち、宗教行事への参加は、他の学問や和歌の学習に先立って行われていたのである。

 

庶民への眼差し、弱者への慈悲心を表す歌が少なからず作られている事実は、いわゆる政治的な意図を持つ“撫民”策としてではなく、上記の如き教育実践の結果によるものと思われ、実朝の純真さに根差していると言えようか。

 

歌人・実朝の誕生 (16) 

 

前回、『李嶠百二十詠』と『百詠和歌』の関係について述べました。以下、“嘉樹”のひとつ“桂”について、両著書の内容を例示します。下は、“桂”についての五言律詩である。読み下し文及び韻名は、参考までに筆者が付した。

 

これらの『李嶠百二十詠』の句は、庾信『周書』、王嘉『拾遺記』、屈原『楚辞』、作者?『世本』等に拠ったもののようである。律詩中、第4及び6句を対象にして詠まれた和歌は、『百詠和歌』に示した。

  

<『李嶠百二十詠』>   [下平声十一尤韻] 

桂 未植銀宮裏、 銀宮の裏(ウチ)に未だ植えられてなく、 

  寧移玉殿幽。 寧(ヤスラカ)に玉殿の幽(ユウ)に移す。 

  枝生無限月、 枝を生ず無限の月、 

  花満自然秋。 花 満(ミ)つる自然の秋。 

  侠客条為馬、 侠客(キョウキャク)は条(エダ)を馬と為(ナ)し、 

  仙人葉作舟。 仙人は葉を舟と作(ナ)す。 

  願君期道術、 願わくは 君 道術を期して、 

  攀折可淹留。 攀折(ヒキオ)り淹留(エンリュウ)す可し。 

 

<『百詠和歌』>  

“桂”:

花満自然秋 泰山の上に桂の林あり 秋を向かう事ごとに 花白く盛んなり。

 風かほる 春のにほいを みつる哉

   かつらの里の 秋の木ずえに  

仙人葉作舟 仙人かつらの葉の船にのれり。黄帝見浮葉。乃為船也。

 かつら河 木の葉の舟に さほ指して 

   波をわたるは 山おろしの風 

 

参考文献:栃尾武 偏『百詠和歌 注』(汲古書院)1993.04.01 

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