愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題323 飛蓬-176  塔を組み 堂をつくるも 三代将軍 源実朝

2023-03-13 09:29:40 | 漢詩を読む

高々と幾重もの塔を建て、煌びやかな社を造ったとて、功徳にはなりませんよ と。外形・見栄えよりは、心が大切です ということでしょうか。かなり厳しい内容の歌に思える。実朝の率直・純真な想いであろうと推察します。

 

漢詩化に当たって、五言にせよ、七言にせよ、絶句の形には整えることができませんでした。思い切って 自由詩としました。

 

ooooooooo 

 懺悔歌 

塔を組み 堂をつくるも 人なげき

  懺悔にまさる 功徳やはある  (金槐集 雑・616) 

 (大意) 立派な塔を組み 絢爛たる社を築くのは、人の難儀の元となる、懺悔

  にまさる功徳があろうか。

  註] 〇人なげき:人の難儀となる; 〇懺悔:神仏の前で罪悪を告白し悔

    い改めること。 

xxxxxxxxxx 

<漢詩> 

 懺悔歌     懺悔(ザンゲ)の歌  

建嶄嶄塔,   嶄嶄(ザンザン)たる塔を建て, 

築煌煌堂。   煌煌(コウコウ)たる堂を築く。 

此自因麻煩,  此れ自ずから麻煩(メイワク)の因(モト), 

孰能終担負。  孰(タレ)か能(ヨ)く 終(ツイ)には担負(タンフ)せんか。 

応知宿心行功德,応(マサ)に知るべし 功德を行(ナ)さんとの宿心(シュクシン),  

不比懺悔任何事。懺悔に比(ヒ)するものなし 任何事(ナニゴト)にせよ。 

 註] ○嶄嶄:高く、威儀の立派なさま; 〇煌煌:キラキラと輝くさま; 

    〇麻煩:難儀なこと; 〇孰:誰か; 〇担負:負担する; 〇宿心:兼

    ねがね胸に抱いていた思い; 〇任何:いかなる、どんな。 

<現代語訳>

 懺悔の歌 

立派な高塔を建て、

煌びやかな堂を築く。

これは 迷惑なことであり、

終には誰かが難儀を背負うことになる。 

初心の功徳を施そうと思うなら、

懺悔に勝るものはない、何事を為そうとも。

<簡体字およびピンイン> 

 忏悔歌     Chànhuǐ gē 

建崭崭塔,      Jiàn zhǎn zhǎn tǎ,

筑煌煌堂。      zhú huáng huáng táng.

此自因麻烦,    Cǐ zì yīn máfan,

孰能终担负。    shú néng zhōng dānfù.

应知宿心行功德,Yīng zhī sù xīn xíng gōngdé, 

不比忏悔任何事。bù bǐ chànhuǐ rènhé shì. 

xxxxxxxxxxx 

 

上掲の歌がいつ頃詠われたか定かではないが、実朝は“こころ”、“こころ”……と、頑なに唱えて実践していたわけではない。後年、大慈寺(大倉新御堂)の建立、その総門に安置するための金剛力士像の建造、途絶えていた二所詣での復活等々、信心深い面の活動が実践されています。

 

大慈寺は、後鳥羽上皇への恩、父・頼朝の徳を称えるために発起、建立されたもので、その供養は、禅僧・栄西の導師で盛大に執り行われている (1214年7月27日)。七堂伽藍を備えた壮大な寺院であったようである。江戸時代に廃寺された。

 

二所詣は、頼朝により始められ、その没後途絶えていたが、実朝が復活させた。その復活に当たって、実朝の心情を端的に示すエピソードが語られている。征夷大将軍に任じられた翌年、1204年1月18日の出来事である。

 

初度の二所詣である。実朝が年少であったため、実朝の代行として鶴岡八幡宮別当阿闍梨・尊暁、奉幣使に義時が当たり、代参することになった。その出発の際、尊暁は、従者を門外に待機させ、御所の南庭に控えていた。

 

実朝は、南の階段から庭に下り、伊豆、箱根、三島の方向に向って、それぞれ、7回づつ計21回、拝礼を行った と。実朝の純な心を想像させる事象であると思われる。尊暁、義時らの一行は、その後に出立した。

 

歌人・実朝の誕生 (17) 

 

歌人・実朝の総仕上げの師と言えよう、藤原定家との巡りあわせである。実朝と定家(または京都)との繋がりについて、『吾妻鏡』から点描しておきます。

 

1205(元久二)年(14歳)、「将軍家が十二首の和歌を詠んだ。」(4月12日)とある。内容は不明であるが、歌作りの端緒に着いた頃でしょう。内藤兵衛尉知親が、京都から下着して『新古今和歌集』を届けた(9月2日)。

 

知親は、在京の実朝近臣で、定家の門弟でもあり、以後も実朝-定家の連絡の役目を果たしている。なお、届けられた『新古今和歌集』は、上皇奉覧されたばかりで、未公開のものであった。

 

1209(承元三)年(18歳)、知親を使者として、実朝は、「夢の導きに従って、20首を住吉社に奉納」した。ついでに、これまでに詠んだ歌30首を定家に届けた(7月5日)。その折、実朝は、定家に歌に関する疑問点を何点か提示していた模様である。

 

同年8月13日、知親が京都から帰参。その折、実朝の歌に対する評価と詩歌の口伝書一巻を持ち帰った。この口伝書は、実朝のために書かれた詩歌の理論書で、今日『近代秀歌』として知られている。

 

1213(建歴三)年(22歳)、定家は、飛鳥井雅経を介して和歌の書物などを献上(8月17日)、また、やはり雅経を介して、相伝の私本『万葉集』を献上した(11月23日)。これに対して実朝は、「何物にも優る重宝である」と喜ばれた と。この頃には、雅経が、京都-鎌倉間の連絡役となっている。

 

同年8月17日、定家から雅経を介して「和歌文書」が届けられている。その内容は不明である。この頃までに定家に届けられた歌が纏められて、奥書に「建暦三年十二月十八日」とある『金塊和歌集』が編纂されている。

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