この一対の句:
菊を采(ト)る東籬(トウリ)の下(モト),
悠然(ユウゼン)として南山を見る。
「山氣 日夕(ニッセキ)に佳(ヨ)く,飛鳥 相(ア)い與(トモ)に還(カエ)る。」と続きます。“南山”とは、廬山のことです。何気ない情景ですが、この中にこそ人生の真の意味があるのだ、と。なお、採った菊の花びらは、きっと“忘憂のもの”に浮かべているに違いありません。
言葉は、意味を伝える道具でしかない、意味が解ったら言葉は忘れてしまうものだ。「真の人生とはなにか?」それが知りたければ、百言を弄するよりも、私と同じ暮らしをしてみたらどうですか!と結論している詩のようです。
コンクリに囲まれて日々を送っている我々にとっては、覗き見るにしてもハードルが高い世界です。でも胸のどっかに潜んでいる桃源郷でもあるように思われます。下記をご参照ください。
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飮酒二十首 其五
結廬在人境,而無車馬喧。
問君何能爾,心遠地自偏。
采菊東籬下,悠然見南山。
山氣日夕佳,飛鳥相與還。
此中有真意,欲弁已忘言。
<読み下し文>
廬(イオリ)を結んで人境(ジンキョウ)に在り,而(シカ)も車馬の喧(カマビス)しき無し。
君に問う何ぞ能(ヨ)く爾(シカ)るやと,心遠ければ地(チ)自(オノズカ)ら偏(ヘン)なり。
菊を采(ト)る東籬(トウリ)の下(モト),悠然(ユウゼン)として南山を見る。
山氣 日夕(ニッセキ)に佳(ヨ)く,飛鳥 相(ア)い與(トモ)に還(カエ)る。
此の中(ウチ)に真意(シンイ)有り,弁ぜんと欲すれば已(スデ)に言(ゲン)を忘る。
註]
人境:(山中でなく、)人の住む領域。
車馬:世人、貴人たちの訪問。
問君:“君”は作者自身、自問自答。
偏:偏る、巷(チマタ)から離れる。
悠然:ゆったりしたさま、またはるかなさま。淵明の気持ちであるとともに、はるか南方の廬山がゆったりと横たわっているさまをいう。
南山:廬山を指している。
山氣:山のけはい、景色。
此中:五~八句に示した世界。
真意:人生のまことの意味。
<現代語訳>
--人里に庵をかまえているが、役人どもの車馬の音に煩わされることはない。
--「どうしてそんな事が有り得るのか?」とお尋ねかもしれないが、心が世俗から遠くはなれていると、此処もおのずと僻遠の地に変わってしまうのだ。
--東側の垣根のもとに咲いている菊の花を手折り、ゆったりとした思いで見上げると、南方はるかに廬山のゆったりした姿が目に入る。
--山にただよう気は夕方が特に素晴らしく、鳥たちは連れ立ってねぐらに帰っていく。
--この自然の中にこそ、人間のあり得べき真の姿があるように思われる。だがそれを説明しようとしたとたん、言葉を忘れてしまっていた。
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廬山の真の姿は、自分が山の中にいてはわからないよ と蘇軾が詠っていたことは、前々回にも触れました。陶淵明が彼の住まいから“悠然と見た南山”は、正にその真の姿を現しているように想像されます。
この“旅シリーズ”で廬山を取り上げる際、“陶淵明”がまず念頭にあったのですが、陶淵明が直接廬山を評した作品は見当たりません。二,三の作品中に“南山”・“南阜(ナンフ)”という表現で現れているだけです。
これも想像ですが、陶淵明が職を辞し、貧窮の中で田園生活を送っていくに当たって、遥かに望む廬山の姿は常に視野の中に入っていて、心の拠り所となっていたのではないでしょうか。
ただ、「斜川(シャセン)に遊ぶ」という詩の“序”の中で「……あの南阜(廬山)は古来有名であって、いまさら感嘆の声をあげるまでのない……」と述べています。“弁ぜんと欲して已に言を忘る。”を体現しているかのようです。
陶淵明が廬山で遊ぶ姿は、遥か後の北宋時代(960~1127)に陳舜愈(チンシュンユ)が著した『廬山記』(1072)の中で伝記として語られているようです。今日、その姿は四字成句 “虎渓三笑”の形で知ることができます。
『廬山記』は、陳舜愈が実際に廬山を歩き、得た見聞を記した地誌で、名跡や廬山に関係の深い人々の伝記を記したものである と。その中で、ある時、陶淵明と道士の陸修静(リクシュウセイ)が東林寺の慧遠(エオン)を訪ねますが、その折の逸話として語られています。
慧遠は、前々回にちょっと触れました。同名の僧が3名ほどいるようですが、ここで話題の僧は、陶淵明と同時代の“廬山の慧遠(334~416)”である。浄土教の始祖とされており、東林寺を開いて念仏の道場とした。
修行法として阿弥陀仏像の前で念仏を唱える方法を始めた。その堂前に白蓮が植えてあったので、その宗派を白蓮教、またその結社は白蓮社とも言われるようになった。解りやすい教えが、大衆的な支持を得て、後の世(元末や清末)にはその力を反権力の方向に向けたこともある。
東林寺の前には、断崖絶壁の間を渓流が流れていて“虎渓”と呼ばれているところがある。俗世に下るには、石伝いに“虎渓”を渡らねばならない。慧遠は、入山後二度と“虎渓”を渡るまいと誓いをたてていた。
慧遠と、彼を訪ねた陶淵明と陸修静のお三方は、「道」について語り合った。話は尽きず、二人の帰りを見送る間も夢中に話し込み、慧遠は、不覚にも“虎渓”を超えてしまった。虎の吠える声でやっとそれに気づき、三人は大笑いした と。
「虎渓三笑」の故事である。「虎渓三笑」は、日中ともに東洋画の画題とされ、わが国では雪舟や狩野山楽らの画が楽しめる。なお「ある事に夢中になると、他の事は忘れてしまう」という譬えでもある。
菊を采(ト)る東籬(トウリ)の下(モト),
悠然(ユウゼン)として南山を見る。
「山氣 日夕(ニッセキ)に佳(ヨ)く,飛鳥 相(ア)い與(トモ)に還(カエ)る。」と続きます。“南山”とは、廬山のことです。何気ない情景ですが、この中にこそ人生の真の意味があるのだ、と。なお、採った菊の花びらは、きっと“忘憂のもの”に浮かべているに違いありません。
言葉は、意味を伝える道具でしかない、意味が解ったら言葉は忘れてしまうものだ。「真の人生とはなにか?」それが知りたければ、百言を弄するよりも、私と同じ暮らしをしてみたらどうですか!と結論している詩のようです。
コンクリに囲まれて日々を送っている我々にとっては、覗き見るにしてもハードルが高い世界です。でも胸のどっかに潜んでいる桃源郷でもあるように思われます。下記をご参照ください。
xxxxxxxxxxx
飮酒二十首 其五
結廬在人境,而無車馬喧。
問君何能爾,心遠地自偏。
采菊東籬下,悠然見南山。
山氣日夕佳,飛鳥相與還。
此中有真意,欲弁已忘言。
<読み下し文>
廬(イオリ)を結んで人境(ジンキョウ)に在り,而(シカ)も車馬の喧(カマビス)しき無し。
君に問う何ぞ能(ヨ)く爾(シカ)るやと,心遠ければ地(チ)自(オノズカ)ら偏(ヘン)なり。
菊を采(ト)る東籬(トウリ)の下(モト),悠然(ユウゼン)として南山を見る。
山氣 日夕(ニッセキ)に佳(ヨ)く,飛鳥 相(ア)い與(トモ)に還(カエ)る。
此の中(ウチ)に真意(シンイ)有り,弁ぜんと欲すれば已(スデ)に言(ゲン)を忘る。
註]
人境:(山中でなく、)人の住む領域。
車馬:世人、貴人たちの訪問。
問君:“君”は作者自身、自問自答。
偏:偏る、巷(チマタ)から離れる。
悠然:ゆったりしたさま、またはるかなさま。淵明の気持ちであるとともに、はるか南方の廬山がゆったりと横たわっているさまをいう。
南山:廬山を指している。
山氣:山のけはい、景色。
此中:五~八句に示した世界。
真意:人生のまことの意味。
<現代語訳>
--人里に庵をかまえているが、役人どもの車馬の音に煩わされることはない。
--「どうしてそんな事が有り得るのか?」とお尋ねかもしれないが、心が世俗から遠くはなれていると、此処もおのずと僻遠の地に変わってしまうのだ。
--東側の垣根のもとに咲いている菊の花を手折り、ゆったりとした思いで見上げると、南方はるかに廬山のゆったりした姿が目に入る。
--山にただよう気は夕方が特に素晴らしく、鳥たちは連れ立ってねぐらに帰っていく。
--この自然の中にこそ、人間のあり得べき真の姿があるように思われる。だがそれを説明しようとしたとたん、言葉を忘れてしまっていた。
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廬山の真の姿は、自分が山の中にいてはわからないよ と蘇軾が詠っていたことは、前々回にも触れました。陶淵明が彼の住まいから“悠然と見た南山”は、正にその真の姿を現しているように想像されます。
この“旅シリーズ”で廬山を取り上げる際、“陶淵明”がまず念頭にあったのですが、陶淵明が直接廬山を評した作品は見当たりません。二,三の作品中に“南山”・“南阜(ナンフ)”という表現で現れているだけです。
これも想像ですが、陶淵明が職を辞し、貧窮の中で田園生活を送っていくに当たって、遥かに望む廬山の姿は常に視野の中に入っていて、心の拠り所となっていたのではないでしょうか。
ただ、「斜川(シャセン)に遊ぶ」という詩の“序”の中で「……あの南阜(廬山)は古来有名であって、いまさら感嘆の声をあげるまでのない……」と述べています。“弁ぜんと欲して已に言を忘る。”を体現しているかのようです。
陶淵明が廬山で遊ぶ姿は、遥か後の北宋時代(960~1127)に陳舜愈(チンシュンユ)が著した『廬山記』(1072)の中で伝記として語られているようです。今日、その姿は四字成句 “虎渓三笑”の形で知ることができます。
『廬山記』は、陳舜愈が実際に廬山を歩き、得た見聞を記した地誌で、名跡や廬山に関係の深い人々の伝記を記したものである と。その中で、ある時、陶淵明と道士の陸修静(リクシュウセイ)が東林寺の慧遠(エオン)を訪ねますが、その折の逸話として語られています。
慧遠は、前々回にちょっと触れました。同名の僧が3名ほどいるようですが、ここで話題の僧は、陶淵明と同時代の“廬山の慧遠(334~416)”である。浄土教の始祖とされており、東林寺を開いて念仏の道場とした。
修行法として阿弥陀仏像の前で念仏を唱える方法を始めた。その堂前に白蓮が植えてあったので、その宗派を白蓮教、またその結社は白蓮社とも言われるようになった。解りやすい教えが、大衆的な支持を得て、後の世(元末や清末)にはその力を反権力の方向に向けたこともある。
東林寺の前には、断崖絶壁の間を渓流が流れていて“虎渓”と呼ばれているところがある。俗世に下るには、石伝いに“虎渓”を渡らねばならない。慧遠は、入山後二度と“虎渓”を渡るまいと誓いをたてていた。
慧遠と、彼を訪ねた陶淵明と陸修静のお三方は、「道」について語り合った。話は尽きず、二人の帰りを見送る間も夢中に話し込み、慧遠は、不覚にも“虎渓”を超えてしまった。虎の吠える声でやっとそれに気づき、三人は大笑いした と。
「虎渓三笑」の故事である。「虎渓三笑」は、日中ともに東洋画の画題とされ、わが国では雪舟や狩野山楽らの画が楽しめる。なお「ある事に夢中になると、他の事は忘れてしまう」という譬えでもある。
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