安禄山の反乱軍は、756年6月には首都・長安を陥れました。そこで楊国忠の進言に従い、蜀に避難することにして、玄宗皇帝以下の官臣は、天子直属の軍隊に守られながら、西へ向けて長安を脱出した。
馬嵬(バカイ)に至って、楊国忠に不満を抱いていた護衛の兵士たちは、反乱の原因は楊国忠にありとして楊国忠を殺害した。更に兵士たちは、玄宗に対して楊貴妃を殺すよう迫ります。玄宗は、「反乱とは無関係だ」と楊貴妃をかばいましたが、兵士たちは納得しない。
やむなく玄宗は同意し、楊貴妃は、玄宗側近の宦官・高力士によって縊死(イシ)させられた と。逃避行とは言え、楊貴妃は、衣裳、髪飾り等々、盛装されていたはずです。その模様は、白楽天の詩をご参照ください。
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<白居易の詩>
長恨歌 (6) 第二段 一
33 九重城闕煙塵生、 九重(キュウチョウ)の城闕(ジョウケツ) 煙塵(エンジン)生じ、
34 千乗万騎西南行。 千乗(センジョウ)万騎(バンキ) 西南に行く。
35 翠華搖搖行復止、 翠華(スイカ) 揺揺として 行きて復た止(トド)まり、
36 西出都門百餘里。 西のかた都門(トモン)を出づること 百余里。
37 六軍不発無奈何、 六軍(リクグン)発せず 奈何(イカン)ともする無く、
38 宛転娥眉馬前死。 宛転(エンテン)たる娥眉 (ガビ) 馬前(バゼン)に死す。
39 花鈿委地無人収、 花鈿(カデン)は地に委(ス)てられて 人の収(オサ)むる無し、
40 翠翹金雀玉掻頭。 翠翹 (スイギョウ) 金雀 (キンジャク) 玉掻頭(ギョクソウトウ)。
41 君王掩眼救不得、 君王 面(オモテ)を掩(オオ)いて 救ひ得ず、
42 迴看涙血相和流。 迴(カエ)り看て 涙血(ルイケツ) 相和(アイワ)して流る。
註] ・城闕:城門にある物見やぐら、また宮城; ・千乘万騎:天子の行幸の隊列、
“乗”は4頭の馬と一台の車を一組とする単位。実際には玄宗はわずかな兵士に
守られて都を離れた; ・翠華:翡翠の羽を飾った天子の旗; ・搖搖:揺れ動く
さま、気持ちの動揺も表す; ・六軍:天子直属の軍隊; ・無奈何:どうする
こともできない; ・宛転:眉が美しい曲線を描くさま; ・花鈿:螺鈿で飾り
つけた花かんざし; ・翠翹:翡翠の尾の羽の形をした髪飾り;・金雀:雀を
かたどった黄金のかんざし; ・掻頭:頭をかく、髪をなでる、かんざし。
<現代語訳>
33 皇帝のおられる宮城も戦火の煙と塵が巻き上がり、
34 皇帝の一行は長安を棄てて、西南の蜀へ落ちのびて行く。
35 皇帝の旗は、ゆらゆらと進んでは止まり、のろのろと行く、
36 長安の城門から西へ百余里に至る。
37 そこで近衛軍は進発を拒み、なすすべもなく、
38 ゆるやかに弧を描く眉の佳人は、帝の馬前で息絶えた。
39 華の髪飾りは地に捨てられ、拾う人もない、
40 翡翠の羽飾りや、黄金の孔雀の形の髪飾りも、玉のかんざしも無残にちらばっている。
41 帝は手で顔を覆うばかりで、妃を救うすべもなく、
42 振り返り見ては、血の涙を流した。
[石川忠久監修 『NHK新漢詩紀行 ガイド 』に拠った]
<簡体字およびピンイン>
33九重城阙烟尘生 Jiǔ chóng chéng què yān chén shēng [下平声八庚]
34千乘万骑西南行 qiān chéng wàn qí xī nán xíng
35翠华摇摇行复止 Cuì huá yáo yáo xíng fù zhǐ [上声四紙]
36西出都门百余里 xī chū dū mén bǎi yú lǐ
37六军不発无奈何 Liù jūn bù fā wú nài hé
38宛転娥眉马前死 wǎn zhuǎn é méi mǎ qián sǐ
39花钿委地无人收 Huā diàn wěi dì wú rén shōu [下平声十一尤]
40翠翘金雀玉掻头 cuì qiáo jīn què yù sāo tóu
41君王掩眼救不得 Jūn wáng yǎn yǎn jiù bù dé
42回看涙血相和流 huí kàn lèi xuè xiāng hé liú
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玄宗皇帝(李隆基)について振り返ってみます。李隆基は、睿宗の第3子で、睿宗の兄・李弘の養子となっており、本来、帝位には距離のある存在であった。しかし隆基の気骨ぶりに祖母・則天武后が気に入って、遠ざけられることはなく、後に中宗を毒殺した后・韋皇后と安楽公主を排斥し、父・睿宗の復位に功績を上げた。
そこで隆起は皇太子となり、張説(チョウエツ)が侍読を務めた。復位した睿宗は政治には興味がなく、張説の提案を受けて、隆起に譲位した(712)、玄宗皇帝の誕生である。しかし政治の実権は睿宗の妹・太平公主が握っていた。太平公主は則天武后の秘書とも言われるほど有能な人物であった。玄宗にとっては脅威の存在で、憂慮の種であった。
重臣のほとんどが太平公主の側にあり、また数少ない味方の一人張説(チョウエツ)は洛陽に配置換えされていた。張説は、ひそかに玄宗に使者を送り、佩刀を献上した。クーデターの勧めである。玄宗は、713年、太平公主派の宰相を誅殺、政治権力の奪取を果たし、開元の世となる。
先に則天武后は、科挙試験の門戸を貴族に限らず、庶民、いわゆる“寒門”にも開くという画期的な制度を定めていた。「上品に寒門なく下品に勢族なし」と言われるように、少数の貴族が政治を支配してきたが、その潮の流れを変えたのである。
張説は、則天武后の治世下に22歳で科挙に首席で合格し、武后に重用された“寒門”出身の逸物である。玄宗の治世にあっても宰相として活躍し、“開元の治”と讃えられる一時代を築いた役者の一人である。また“寒門”出身の張九齢も則天武后の治世下、702年に進士に及第、後に宰相の張説にひきたてられ、玄宗の信任を得た。
“開元の治”(713~741)にあっては、2代大宗の“貞観の治”(627~649)に倣いながら、時代に即した諸社会制度を改・構築して、唐を泰平の富国へと導いた。門閥貴族vs. “寒門”出とせめぎ合いながらも、多くの優れた宰相・賢臣が活躍した時代と言える。
開元の最盛時、韓休という硬骨の宰相がいて、玄宗の些細な過ちにも諫言を呈していた。当時、玄宗は傍目にも痩せが目立ち、周囲が気遣い、「あの頑固おやじをやめさせては…」と進言した。玄宗は「わしがやせても、天下が肥えればそれでよい…」と、答えた と。玄宗は、泰平の世を築くという“志”に燃えて、政治と向き合っていたのである。
“開元の治”の華の時代に活躍した宰相の一人に長九齢がいる。長九齢は、安禄山の「狼子野心」を見抜き、玄宗に「誅を下して後患を断つ」よう諫言したことがある と。開元24年、玄宗の誕生日祝いに群臣は皆、宝の鏡を献上したが、張九齢は、前代の盛衰興亡について研究した『千秋金鑑録(キンカンロク)』を献上し、諫官(カンカン)の誠意を示した。
玄宗は、開元末頃になると下臣の諫言に耳を傾けることなく、張九齢も、ただわずらわしい存在になっていたようである。長九齢は、李林甫の謀略に遭い、荊州に左遷され、続く李林甫・楊国忠宰相と時代は転換し、安史の乱(755)を迎えることになった。張九齢は、「開元最後の賢相」として名声が高い。
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