この一句:
空杯亦常持
(たまに、酒の楽しみを感じ得たなら)
空の盃をいつまでも持ち続けていくとしよう。
“一杯、一杯また一杯”と盃を重ねるのではなく、“空になった盃を持ち続けて、良い気分をいつまでも愉しむことにしよう”と言う。蘇東坡の「和陶飮酒 其の一」の結びの句です。
陶淵明の“無弦の琴”に通ずるか?
―――――
蘇東坡の「和陶飮酒」では、陶淵明の「飲酒二十首」のすべての詩に対応した二十首が作られている。しかしそれらは陶淵明を“まねた詩”ということではなく、各詩に込められた“陶淵明の精神に賛同する詩”として理解すべきもののようです。
当然ながら「和陶飮酒」は、陶淵明の詩を参照しつつ読む方が理解しやすい。前回に陶淵明「飲酒二十首 其の一」を挙げた所以です。下に蘇東坡の「其の一」を挙げました。
xxxxxxxxx
和陶飮酒 其の一
我不如陶生, 我は陶生(トウセイ)に如(シ)かず,
世事纏綿之。 世事(セジ) 之(コレ)に纏綿(テンメン)す。
云何得一適, 云何(イカン)ぞ 一適(イチテキ)を得(ウ)て,
亦有如生時。 亦(マ)た 生の時の如く有らん。
寸田無荊棘, 寸田(スンデン) 荊棘(ケイキョク)無く,
佳處正在茲。 佳處(カショ)は 正に茲(ココ)に在り。
縱心與事往, 心を縱(ホシイママ)にして 事と與(トモ)に往(ユ)き,
所遇無復疑。 遇う所 復(マ)た疑う無からん。
偶得酒中趣, 偶(タマタ)ま 酒中の趣(オモムキ)を得たれば,
空杯亦常持。 空杯 亦た常に持(ジ)す。
註]
陶生:陶淵明のこと、~生:他人に対する尊称、貴君;本稿では“師”とした。
世事:俗事
纏綿:まつわりついて離れないこと、からみつくこと
云何:いかに、どのようにして
適:気分のよさ
寸田:丹田;人の精気の集まるところ;心
荊棘:イバラ;障碍になるもの
佳處:素晴らしいところ;素晴らしさ
縱:勝手にさせておく;ほしいままに、思うままに
所遇:出会うことがら、運命;所~:他動詞の前に用い、~するところの(もの)
<現代語訳>
陶淵明の「飲酒 其の一」に和す
わたしは陶淵明師には到底及ばない、
世俗の事柄にまつわりつかれているからである。
何とかしてよい気分に達して、
師の時のようになりたいものである。
心に世俗の煩わしい思いがなくなる、
素晴らしさとはまさにそこにあるのだ。
心の赴くままに天命に従って行くとしよう、
巡り来たった機会に疑念を抱くようなことはすまい。
たまに酒がもたらす楽しみを感じ得たなら、
空の盃をいつまでも持ち続けていくとしよう。
xxxxxxxxx
「和陶飮酒 其の一」について、逐一、前回に挙げた陶淵明の「飲酒二十首 其の一」と対比しつつ読んでみたい。
先ず、1・2句:「自分は陶師には到底及ばない」という。出発点です。なぜかと言うと、自分は、政治・官界、すなわち俗界にあって、政争など俗事にまみれているからである と。
秦代の邵師は、東陵侯という身分にあったが、秦の滅亡に因るとは言え、瓜を作る庶民にきっぱりと落ちた。陶師は自ら進んで官僚の世界から身を引いて田園に落ち着いた。自分は、このような決断ができない。この点から見ても、到底陶師には及ばないのだ と。
3・4句:しかしやはり陶師の如く、安寧を得た“心の楽しみ”は得たいものである。どのようにしたらこのような楽しみを得ることができるのであろうか。5・6句:心に“とげ”のない、“無欲”の状態、これこそ求める素晴らしい状態ではないか。
7・8句:陶師は言う、世の中は、定まった状態にあるのではなく、人生に栄枯盛衰、気候に寒暖の交代があって、絶えず巡っているのである。その“理・ことわり”を弁えるなら、巡り来たった機会・状況に疑念を抱くことなく、従容として受け入れることが大事である と。
自分も巡り来った機会に疑念を抱くことなく、心の赴くままに天命にしたがって往くことにしよう。
9・10句:陶師は、“お酒の趣・楽しみの境地”に至ると、“無弦の琴”を弾きならしていたという。たまたま“お酒の楽しみ”という心境に至ることができたなら、自分は、空の盃を持ち続けて、かかる心境にいつまでも浸ることにしよう。
7・8句は、まさに陶淵明が希求した精神・心情、老荘の思想に基づいた“無為・自然、有るがままに生きる”という姿と言えるでしょう。陶淵明は、“田園に身を置くことで”、行動でも実践して見せた。
蘇東坡は、官界に身を置きつつも、陶淵明の精神に憧れを抱き、‘如何にして陶淵明の境地を得ることができるか’と悩み、葛藤しています。しかし彼が得た答えは、“官界に身を置くことも含めて、有るがままに、心の赴くままに、天命に従おう”と。
蘇東坡の達観である。この達観した精神こそ、左遷された先で貧窮生活を送りながら、現地(黄州)の安価な豚肉を、今日“東坡肉トンポーロー”として知られる高級な中華料理に育て上げた(閑話休題45、2017-7-25投稿)基であろう と思われます。
蘇東坡のお酒は、“量”ではなく、“たしなむ”もので、“お酒の趣”に至れば、後は“空の盃”を手に持ち続けて快い境地を楽しむという。陶淵明の“無弦の琴”を楽しむ(閑話休題68、2018-3-4投稿)ということに通じているように思えて、陶淵明への傾倒ぶりが伺えます。
[註]
本ブログの“ブログ タイトル”を「試してみよう!!....」から「楽しむ漢詩」(仮題)に変更しようと考えております。その場合、「閑話休題」の居座り具合が悪そうで、思案中です。
空杯亦常持
(たまに、酒の楽しみを感じ得たなら)
空の盃をいつまでも持ち続けていくとしよう。
“一杯、一杯また一杯”と盃を重ねるのではなく、“空になった盃を持ち続けて、良い気分をいつまでも愉しむことにしよう”と言う。蘇東坡の「和陶飮酒 其の一」の結びの句です。
陶淵明の“無弦の琴”に通ずるか?
―――――
蘇東坡の「和陶飮酒」では、陶淵明の「飲酒二十首」のすべての詩に対応した二十首が作られている。しかしそれらは陶淵明を“まねた詩”ということではなく、各詩に込められた“陶淵明の精神に賛同する詩”として理解すべきもののようです。
当然ながら「和陶飮酒」は、陶淵明の詩を参照しつつ読む方が理解しやすい。前回に陶淵明「飲酒二十首 其の一」を挙げた所以です。下に蘇東坡の「其の一」を挙げました。
xxxxxxxxx
和陶飮酒 其の一
我不如陶生, 我は陶生(トウセイ)に如(シ)かず,
世事纏綿之。 世事(セジ) 之(コレ)に纏綿(テンメン)す。
云何得一適, 云何(イカン)ぞ 一適(イチテキ)を得(ウ)て,
亦有如生時。 亦(マ)た 生の時の如く有らん。
寸田無荊棘, 寸田(スンデン) 荊棘(ケイキョク)無く,
佳處正在茲。 佳處(カショ)は 正に茲(ココ)に在り。
縱心與事往, 心を縱(ホシイママ)にして 事と與(トモ)に往(ユ)き,
所遇無復疑。 遇う所 復(マ)た疑う無からん。
偶得酒中趣, 偶(タマタ)ま 酒中の趣(オモムキ)を得たれば,
空杯亦常持。 空杯 亦た常に持(ジ)す。
註]
陶生:陶淵明のこと、~生:他人に対する尊称、貴君;本稿では“師”とした。
世事:俗事
纏綿:まつわりついて離れないこと、からみつくこと
云何:いかに、どのようにして
適:気分のよさ
寸田:丹田;人の精気の集まるところ;心
荊棘:イバラ;障碍になるもの
佳處:素晴らしいところ;素晴らしさ
縱:勝手にさせておく;ほしいままに、思うままに
所遇:出会うことがら、運命;所~:他動詞の前に用い、~するところの(もの)
<現代語訳>
陶淵明の「飲酒 其の一」に和す
わたしは陶淵明師には到底及ばない、
世俗の事柄にまつわりつかれているからである。
何とかしてよい気分に達して、
師の時のようになりたいものである。
心に世俗の煩わしい思いがなくなる、
素晴らしさとはまさにそこにあるのだ。
心の赴くままに天命に従って行くとしよう、
巡り来たった機会に疑念を抱くようなことはすまい。
たまに酒がもたらす楽しみを感じ得たなら、
空の盃をいつまでも持ち続けていくとしよう。
xxxxxxxxx
「和陶飮酒 其の一」について、逐一、前回に挙げた陶淵明の「飲酒二十首 其の一」と対比しつつ読んでみたい。
先ず、1・2句:「自分は陶師には到底及ばない」という。出発点です。なぜかと言うと、自分は、政治・官界、すなわち俗界にあって、政争など俗事にまみれているからである と。
秦代の邵師は、東陵侯という身分にあったが、秦の滅亡に因るとは言え、瓜を作る庶民にきっぱりと落ちた。陶師は自ら進んで官僚の世界から身を引いて田園に落ち着いた。自分は、このような決断ができない。この点から見ても、到底陶師には及ばないのだ と。
3・4句:しかしやはり陶師の如く、安寧を得た“心の楽しみ”は得たいものである。どのようにしたらこのような楽しみを得ることができるのであろうか。5・6句:心に“とげ”のない、“無欲”の状態、これこそ求める素晴らしい状態ではないか。
7・8句:陶師は言う、世の中は、定まった状態にあるのではなく、人生に栄枯盛衰、気候に寒暖の交代があって、絶えず巡っているのである。その“理・ことわり”を弁えるなら、巡り来たった機会・状況に疑念を抱くことなく、従容として受け入れることが大事である と。
自分も巡り来った機会に疑念を抱くことなく、心の赴くままに天命にしたがって往くことにしよう。
9・10句:陶師は、“お酒の趣・楽しみの境地”に至ると、“無弦の琴”を弾きならしていたという。たまたま“お酒の楽しみ”という心境に至ることができたなら、自分は、空の盃を持ち続けて、かかる心境にいつまでも浸ることにしよう。
7・8句は、まさに陶淵明が希求した精神・心情、老荘の思想に基づいた“無為・自然、有るがままに生きる”という姿と言えるでしょう。陶淵明は、“田園に身を置くことで”、行動でも実践して見せた。
蘇東坡は、官界に身を置きつつも、陶淵明の精神に憧れを抱き、‘如何にして陶淵明の境地を得ることができるか’と悩み、葛藤しています。しかし彼が得た答えは、“官界に身を置くことも含めて、有るがままに、心の赴くままに、天命に従おう”と。
蘇東坡の達観である。この達観した精神こそ、左遷された先で貧窮生活を送りながら、現地(黄州)の安価な豚肉を、今日“東坡肉トンポーロー”として知られる高級な中華料理に育て上げた(閑話休題45、2017-7-25投稿)基であろう と思われます。
蘇東坡のお酒は、“量”ではなく、“たしなむ”もので、“お酒の趣”に至れば、後は“空の盃”を手に持ち続けて快い境地を楽しむという。陶淵明の“無弦の琴”を楽しむ(閑話休題68、2018-3-4投稿)ということに通じているように思えて、陶淵明への傾倒ぶりが伺えます。
[註]
本ブログの“ブログ タイトル”を「試してみよう!!....」から「楽しむ漢詩」(仮題)に変更しようと考えております。その場合、「閑話休題」の居座り具合が悪そうで、思案中です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます