愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題 182 飛蓬-89 小倉百人一首:(曽禰好忠)由良の戸を

2020-12-08 14:34:27 | 漢詩を読む
46番 由良の戸を 渡る舟人 かぢをたえ 
     行方も知らぬ 恋の道かな 
        曽禰(ソネノ)好忠(ヨシタダ) 『新古今和歌集』恋・1071
<訳> 流れの激しい由良川の河口を漕ぎ渡る舟人が、櫂(カイ)をなくしてどこへ行くのかもわからず流されてしまうように、これからどうなっていくのかわからない不安だらけの私の恋の道だ。(板野博行)

ooooooooooooooooo
激しく波立つ流れの由良の門で櫂を取られて漂流する舟に似て、行く末が不安な恋の道であると、歎いています。技巧を凝らした歌ですが、内容は分かりやすく、誰しもが抱く心情であるように思われて、素直に共感できます。

作者・曽禰好忠は、生前必ずしも好い評価を得た歌人とは言えないようです。後世には再評価され、勅撰和歌集への撰集歌も多く、百人一首にも撰ばれています。“百首歌”の創始者とされ、時代を先取りした、清新な発想の持ち主であったようです。

“思い通りにならぬ恋の闇路”として漢詩にまとめました。

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<漢字原文と読み下し文>   [上声七麌韻]
 不如意情網  不如意(フニョイ)な情網(ジョウモウ) 
洪流洶涌由良户, 洪流(コウリュウ)洶涌(キョウヨウ)す由良(ユラ)の户,
横渡艄公失掉橹。 横渡(オウト)す艄公(ショウコウ) 橹(ロ)を失掉(シツトウ)す。
蕩漾不明漂到地, 蕩漾(トウヨウ)として漂い到る地 明らかならず,
飄飄情網多愁苦。 飄飄(ヒョウヒョウ)として情網(ジョウモウ)に愁苦(シュウク)多し。 
 註]
  不如意:思い通りにならないこと。 情網:恋の闇路。
  洪流:洪水の流れ。        洶涌:逆巻く、すさまじい。
  由良:丹後国(現京都府宮津市)を流れる由良川の河口。
  戸:瀬戸や海峡。“水門(ミナト)”の意で、川と海が出会う潮目で、 
   潮の流れが激しい場所。     横渡:流れを横切る。
  艄公:かじを取る人、船頭。    失掉:なくする。 
  蕩漾:揺れただようさま。     飄飄:風の吹くまま。
  愁苦:心配、憂いで苦しむこと。

<現代語訳> 
 思い通りにならぬ恋の闇路 
激流逆巻く由良の瀬戸を、
渡ろうとした舟人は激流に櫂を取られる。
流れの波に揺れながら、漂い辿り着くところもわからずに、
風の吹くままに先行き心配事の多い恋の闇路である。

<簡体字およびピンイン> 
 不如意情网 Bù rúyì qíngwǎng
洪流汹涌由良户,Hóngliú xiōngyǒng Yóuliáng ,
横渡艄公失掉橹。héngdù shāogōng shīdiào lǔ.
荡漾不明漂到地,Dàngyàng bù míng piāo dào dì,
飘飘情网多愁苦。piāo piāo qíngwǎng duō chóu. 
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曽禰好忠は、生没年不詳で、平安中期、65代花山天皇(在位984~986)のころ活躍した。通常昇殿を許されない六位の官人で、長く地方官・丹後掾(ジョウ)を務めていて、名と官職とから曽丹後または曽丹とあだ名されていた。

歌は情景歌に優れ、歌風は自由奔放、題材・用語・表現すべてにわたって自由清新な革新歌人で、同時代の歌人からは異端視されていて、その評価は好いものではなかった。しかし後世に大きな影響を与え、その歌風は源俊頼(百人一首-74)や藤原俊成(同-83、閑話休題-155)に継承されていった と。

源順(閑話休題-139)、大中臣能宣(同-49)、源重行(同-48、閑話休題-181)、恵慶法師(同-47、閑話休題-168)など、当時の有力歌人と親交があり、歌人としての優れた力量は認められていた。その歌風から当時の貴族歌壇からは排斥されていたようで、社会的には不遇であった。

次のような逸話が語られている。985年、円融上皇(64代、在位969~984)が催した御幸の歌会で、招かれたわけでもないのに、「……自分のような名歌人が招かれぬはずがない」と豪語して、粗末な格好で出席して、席から追い出された と。

この逸話からわかるように、好忠は、自尊心が強くやや偏狭な性格であったようで社会的には孤立した存在であったようだ。格差社会にあって、低い官位であったが故に出世もままならず、歌才が優れていただけに憤懣やるかたない思いもあったのではなかろうか。

曽禰好忠といえば、960年ごろ彼によって創始された“百首歌”は特筆に値しよう。967年に源重行(閑話休題-181)によって定型化された形で当時の皇太子(のちの63代冷泉天皇)に献上されて以後、“百首歌”の作法は多くの歌人の共感を得たようである。

三十一文字ではわが身の不遇や嘆きの想いを存分に訴えるには限りがあることの克服に、歌作の修練の方法として、または勅撰和歌集編纂の資料として等々、多義にわたって活用されていった。後年天皇や上皇の求めに応じて詠われた“応制百首歌”の編纂も進められていった。

好忠は、中古三十六歌仙の一人、『拾遺和歌集』(9首)以下の勅撰和歌集に89首入集されている。家集に『曽丹集』があり、その序に「本来宮仕えを望んでいたが、思い叶わず、不遇の寂しさから歌を詠み、後世に残そうとした」とある と。

源俊頼(1055~1129)は、好忠を尊敬していたといい、上掲の「由良の戸を」本歌として“本歌取り”の歌(下記)を詠い、好忠に対して敬意を表している。

与謝の浦の 島がくれ行く 釣り舟の 
   行方もしらぬ 恋をするかな 
  [与謝の浦の島に隠れていく釣り舟のように わたしもゆくあてのない
  恋をしていることだ](小倉山荘氏)
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閑話休題 181 飛蓬-88 小倉百人一首:(源重之)風をいたみ

2020-12-02 09:28:13 | 漢詩を読む
48番 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ  
砕けてものを 思ふころかな
源重之『詞花和歌集』恋上・211

<訳> 風が激しいので、岩にぶつかる波が砕けるように、私だけが千々に思い乱れて恋の物思いをするこの頃だなあ(板野博行)

oooooooooooooooo
想い人に胸の内を訴えたのだが、微動だにしない岩盤にぶつかったが如く、身も心も打ち砕かれて…、恋の悩みに沈んでいます と詠う男性。引き籠りに陥りそうで心配ではある。気丈に立ち直るよう、励ましてやりたい気にさせる歌である。

作者・源重之(?~1000?)は、56代清和天皇(在位858~876)のひ孫に当たる。三十六歌仙の一人で、特に63代冷泉天皇(在位967~969)の皇太子の折、皇太子に百首歌を献上しており、これは後世盛んに行われる“百首和歌”の祖とされている。

漢詩では、肘鉄に遭い、 恋煩いで“引き籠り”寸前に至るほど、打ち萎れている姿を描いた。下記ご参照ください。

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<漢詩原文および読み下し文>  [上声四紙韻]
 碰釘子 釘子(クギ)に碰(ブツ)かる 
因雨暴風波浪起, 暴風雨に因(ヨッ)て波浪(ハロウ)起り,
碰堅定岩砸自己。 堅定(ケンテイ)な岩に碰(ブツカ)り 自己(ミズカ)ら砸(クダ)ける。
摧残這身何所像, 摧残(フミニジ)られし這(コ)の身 何に像(ニ)たる所ぞ,
日夜担憂孤房里。 日夜 担憂(タンユウ)して孤(ヒトリ)房内にあり。
 註] 
  碰釘子:肘鉄を食らう。    碰:ぶつかる。
  堅定:動揺しない。      砸:砕ける。 
  摧残:踏みにじる。      担憂:憂える。 

<現代語訳> 
 肘鉄を食らう
激しい暴風雨に惹き起こされた波浪、
びくともしない岩にぶつかり、自ら砕け散っている。
(想い人に)打ち砕かれたこの身は 一体何に似ているといえようか、
日夜憂いを懐いて 一人部屋に閉じこもっている。

<簡体字およびピンイン> 
 碰钉子 Pèng dīngzi 
因雨暴风波浪起, Yīn yǔ bàofēng bōlàng ,
碰坚定岩砸自己。 pèng jiāndìng yán zá zì.
摧残这身何所像, Cuīcán zhè shēn hé suǒ xiàng,
日夜担忧孤房里。 rìyè dānyōu gū fáng.
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源重行は、清和天皇の3子、貞元親王の孫・兼信の子、清和天皇のひ孫に当たる。父・兼信が陸奥安達郡に土着したことから、叔父の参議・兼忠の養子となる。官位は従五位下・筑前守に至った。清和源氏に属する。

冷泉天皇の時代に活躍し、天皇の皇太子時代、帯刀先生(タチハキノセンジョウ)を務め、天皇即位後は近衛将監となり、従五位下に叙爵する。次64代円融天皇(在位969~984)朝の半ば以降、相模権守(976)を皮切りに、信濃守・日向守・肥後守・筑前守など地方官を歴任した。

藤原氏を中心とする華やかな宮廷からは外れた存在で、河原左大臣(源融)、恵慶法師、平兼盛、清原元輔、大中臣能宜等々、源融の東六条河原院に集まった専門歌人グループの一人として歌を詠みかわしていた(閑話休題-132, -139, -167&-168)。

また三蹟の一人、藤原佐理(スケマサ)とも親交があり、991年以後に大宰大弐・佐理を頼って筑紫に向かっており、その折佐理の求めに応じて、書の手本となる歌を送っている。佐理の書には手本として、数多く重之の歌が用いられている と。

995年以後は陸奥守・藤原実方(百人一首 51番)に随行して陸奥国に赴いており、1000年の頃、当地で没したという。享年60余歳。

このように後半生は必ずしも順風とは言えず、不遇を嘆く歌、また陸奥における子息の死を悼む歌など遺されている。一方、経歴から見られるように、旅での生活を基に旅の歌を得意とし、地方の名所を詠んだ歌も多く、歌枕が頻出し、旅の歌人とも評されている。

62代村上朝(在位946~967)の頃、皇太子・憲平親王(のちの冷泉天皇)に百首歌『重之百首』を献上しており、これは後世盛んに行われる“百首和歌”の祖とされている。なお、上掲の歌はこの百首歌中、恋の部の歌である。

“百首(和)歌”とは、私的にまたは天皇や上皇の求めに応じて、一人または複数人で詠まれた百首の歌集をいう。『重之百首』は、重之一人で詠まれたもので、春(20)、夏(20)、秋(20)、冬(20)、恋(10)、雑(10)の計100首と、様式が整った最古のものとされ、後世の同集の祖とされている所以である。

重之は三十六歌仙の一人に撰ばれていて、『拾遺和歌集』(13首)以下の勅撰和歌集に66首入集されている。家集に『重之集』があり、『重之百首』はこの家集中に含まれている。

旅の歌人・重之の旅での歌(下記)を一首紹介します。旅にあって、恋しく思われるのはやはり都なのだ と満たされない気持ちが伝わって来るように思われます。

松がえに すみてとしふる しら鶴も 
  こひしきものは 雲井なりけり (『重之集』) 
 [松の枝に何年も住み着き齢を重ねている白鶴も 俗世間から超絶している 
 ように見えるが、恋しく思っているのは大空(雲居)なのだ] 

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