愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題282 陶淵明(8) 飲酒 二十首  序文

2022-10-17 08:52:18 | 漢詩を読む

秋の夜長、閑居のつれづれに毎夕酒を飲み、酔後、気ままに書き連ねたもの。「飲酒」と題するが、必ずしも酒を詠っているわけではなく、むしろ酒に託して自己の心境を告白したもののようである。陶淵明を知るのに格好と思われるので、《飲酒二十首》を選び、読んで行きます。

 

なお、二十首中《其の五》および《其の七》は、ネット上でも多くの解説記事が目に留まり、広く知られていて、筆者の日常に口ずさむレパートリーの一部ともなっています。しかし[陶淵明]の“真面目”を捉えたいという望みから、向後、全二十首を順次、読み解いていくべく、心積もりしています。まず、その“序文”を。

 

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飲酒 二十首 序文

 序文

余閑居寡歓、  余(ワ)れ閑居(カンキョ)して歓び寡(スクナ)く、

兼比夜已長。  兼(カ)ねて比(コノゴロ) 夜 已(スデ)に長し。

偶有銘酒、    偶ゝ(タマタマ) 銘酒有り、

無夕不飲。    夕(ユウベ)として飲まざる無し。

顧影独尽、    影を顧(カエリ)みて独(ヒト)り尽くし、

忽焉復酔。    忽焉(コツエン)として復(マ)た酔う。

既酔之後、    既に酔うの後(ノチ)は、

輒題数句自娯。輒(スナワ)ち数句を題して自(ミズカ)ら娯(タノ)しむ。

紙墨遂多、    紙墨(シボク)遂(ツイ)に多く、

辞無詮次。    辞(ジ)に詮次(センジ)無し。

聊命故人書之、聊(イササ)か故人に命じて之(コ)れを書せしめ、

以為歓笑爾。  以(モッ)て歓笑(カンショウ)と為(ナ)さん爾(ノミ)。

 註] 〇忽焉:すばやいさま; 〇輒:同様の事情や行為があるごとに、結果が繰り返して

  あらわれることを表す。「そのたびに」、「……のときはいつも」; 〇紙墨:紙と墨、

  墨で書いた文書; 〇詮次:順序、次第、順序・配列を決める; 〇聊:いささか、

  ひとまず; 〇歓笑:明るく笑う; 〇爾:助詞、判断を示す文の末に置き、肯定や 

  確認を示し、(…なのである)。

<現代語訳> 

わたしはひっそりと暮らして楽しみも少なく、

しかもこの頃は夜が長くなった。

たまたま銘酒が手に入ったので、

飲まぬ夜とてない。

影法師を相手に独り飲み干して、

飲むと忽ち酔ってしまう。

酔うた後には、

二、三の詩句を書き写してひとり楽しむのが常である。

何時しか書き散らしたものが増えてしまい、

字句は前後の脈絡に欠ける。

ともかく友人に書き写してもらい、

お笑い草にでもと思っている。

   [松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る] 

<簡体字およびピンイン> 

 序文 Xùwén 

余闲居寡欢、 Yú xiánjū guǎ huān, 

兼比夜已长。 jiān bǐ yè yǐ zhǎng. 

偶有铭酒、  Ǒu yǒu míngjiǔ, 

无夕不饮。  wú xī bù yǐn. 

顾影独尽、  Gù yǐng dú jǐn, 

忽焉复醉。  hū yān fù zuì. 

既醉之后、  Jì zuì zhīhòu, 

辄题数句自娯。zhé tí shù jù zì yú.  

纸墨遂多、  Zhǐ mò suì duō, 

辞无诠次。  cí wú quán cì. 

聊命故人书之、Liáo mìng gùrén shū zhī, 

以为欢笑尔。 yǐ wéi huān xiào ěr. 

xxxxxxxxxx

 

《飲酒 二十首》は、“宮仕えか”、“田園生活か”と心が揺れ動いていた陶淵明が、田園への“隠遁”生活へと覚悟を決した初期の頃の作と想像される。詩の制作年については、松枝茂夫・和田武司(注1)によれば、淵明が、彭沢より帰田後の四十歳(405)前後、あるいは帰田後12年を経た53歳頃の作とする2説がある と紹介している。 

 

なお、下定雅弘(注2)は、《飲酒 二十首》全体の詩の内容及び詩中の文言から、母・孟氏が亡くなり(401)、その喪に服して郷里で閑居していた、38歳(402)または39歳(403)の秋から冬の頃の作であろうとしている。

 

作時期については諸説あるようですが、本序文に触れているように、少なくとも一気に書いたものではなく、恐らくは酒下に雑念から解放された状態(?)で、折に触れて書き留めていったものを、ある時期一連の繋がりとして纏めて、本序文を添えて完成したもののようである。

 

向後、《飲酒 二十首》を読んで行くに当たって、その道標となると思われるので、下定雅弘の著作(注2)から、以下、参考となる部分を丸ごと転記させて頂きます。

 

<陶淵明の文学は、官界への未練と死への恐れを、克服すべき二つの大きな課題としつつ、終生、揺れと葛藤を示しながらも、農耕生活を基盤として、飲酒・琴・読書・家族愛・田園の風景など、さまざまな人として生きる喜びと味わいを歌い続けるものである。これを淵明的世界とすれば、この淵明的世界の入り口に位置しているのが《飲酒 二十首》である>。

 

追記]

先に、梁・武帝の長子、蕭統の『陶淵明伝』(注1)を基に、淵明の生涯を振り返ってきましたが、記載する機会がなく、この期に及んだ。淵明を知る上で貴重と思えるので、『陶淵明伝』の書き遺した分をここに追記しておきます。

 

<陶淵明は楽器はひけなかった。にもかかわらず弦(イト)のない琴を一面持っていて、酔ってよい機嫌になると、その琴を撫でさすりして自分の気持ちを表すのであった。身分の上下にかかわらず、誰でも自分の許に来た人には、酒があると一席設けた。

 

しかし陶淵がもし先に酔った場合には、あっさり客に告げるのであった。“わたしは酔って眠くなった。どうかお引き取りくださらんでしょうか”。その飾り気のない率直さはこの通りであった。>

 

<かれの妻の翟(テキ)氏もよく貧苦の生活に安んじ、彼と志を同じうした。かれは曽祖が晋代の宰相であったから、今さら次の宋朝に身を屈して仕えることを恥じ、宋の高祖(劉裕)以来、天下は次第に安定してきたが、もはや再び出仕する気はなかった。

 

元嘉四(427)年、またお召の勅命がくだろうとするとき、たまたま逝去した。時に年六十三。世に靖節(セイセツ)先生と号す。>

 

<参考文献>

注1:松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫 2015

注2:下定雅弘 『陶淵明「飲酒 二十首」をどう読むか? ―その主題と制作時期―』 

 中国文史論叢 岡山:中国文史研究会 (4) 2008

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閑話休題281 陶淵明(7) 園田の居に帰る 五首  其の五

2022-10-10 09:16:46 | 漢詩を読む

“俗世間”との交わりを断ち田園生活を始めるに際して詠われた《園田の居に帰る》、細切れにして読んできました。その最終章:其の五に至りました。農作業を終え、谷川の清らかな水で足を洗い、帰宅。新熟の濁酒に鶏料理を用意して、隣人に声を掛けて寛いでいます。

 

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 帰園田居 其の五  

悵恨独策還、 悵恨(チョウコン)して独り策(ツエ)つきて還(カエ)り、 

崎嶇歴榛曲。 崎嶇(キク)として榛曲(シンキョク)を歴(ヘ)たり。 

山澗清且浅、 山澗(サンカン) 清く且(カ)つ浅く、 

可以濯吾足。 以(モッ)て吾が足を濯(アラ)う可(ベ)し。 

漉我新熟酒、 我が新熟の酒を漉(コ)し、 

隻鶏招近局。 隻鶏(セキケイ)もて近局(キンキョク)を招く。 

日入室中闇、 日ヒ)入りて室中(シツチュウ)闇く、 

荊薪代明燭。 荊薪(ケイシン)もて明燭(メイショク)に代(カ)ゆ。 

歓来苦夕短、 歓(ヨロコ)び来(キタ)って夕べの短きに苦しみ、 

已復至天旭。 已(スデ)に復(マ)た天旭(テンキョク)に至る。 

 註] 〇悵恨:いたみ恨む。前詩(其四)を承けて、死没した昔人を悼み、幻化の如き

  人生を恨む意; 〇崎嶇:起伏するさま; 〇榛曲:叢木地区; 〇濯吾足:屈原の

  『漁父辞』に「滄浪の水清ければ以て吾が纓(エイ)を濯ぐ可く、滄浪の水濁らば以て 

  吾が足を濯ぐ可し」。“纓”は役人の冠についた紐のことで、官途に就く意味。一方、

  足を濯ぐとは、官途を去ること; 〇近局:近曲に同じ、近隣; 〇歓来:“来”は 

  語助詞; 〇天旭:夜の明けること。  

<現代語訳> 

心穏やかではいられないまま杖をつきながら帰路につき、

灌木の生い茂る起伏の激しい山道を通りかかった。

谷間の水は清らかで底が浅く見える、

その清らかな水で足をすすげば少しは気持ちをさっぱりとさせられよう。

家に帰ったあと 出来立ての自家製の酒を漉し、

鶏を一羽つぶして隣人を招いた。

日は沈んで室内は暗く、

薪を燃やして灯りの代わりとする。

話がはずんでようやく愉快な気持ちになったが 夏の夜の短いのが恨めしい、

早やもう夜が明けようとしている。

          [松枝茂夫・和田武司 訳註 『陶淵明全集(上)』岩波文庫に拠る]

<簡体字およびピンイン> 

 帰园田居 其の五  Guī yuántián jū  qí wǔ  [入声二沃韻] 

怅恨独策还、 Chàng hèn dú cè hái,  

崎岖歴榛曲。 qíqū lì zhēn .         

山涧清且浅、 Shān jiàn qīng qiě qiǎn, 

可以濯吾足。 kě yǐ zhuó wú .  

漉我新熟酒、 Lù wǒ xīn shú jiǔ,  

只鶏招近局。 zhī jī zhāo jìn .  

日入室中暗、 Rì rù shì zhōng àn,  

荆薪代明烛。 jīng xīn dài míng zhú.  

歓来苦夕短、 Huān lái kǔ xī duǎn,  

已复至天旭。 yǐ fù zhì tiān . 

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陶淵明は、意を決して田園に帰り、詩作に没頭し、後に“隠逸詩人”、“田園詩人”あるいは“酒の詩人”と称されるに至りました。そのスタートの詩・《園田の居に帰る》を締めるに当たって、ここで“隠逸”について、歴史的流れを含めて、概観しておきたいと思います。

 

まず、“隠逸(インイツ)”に関わる用語は、“隠遁(イントン)”、“退隠”、“帰隠”、“隠”、“遁” 等々ほぼ同義語で、さらに“隠者”や“逸民”などが文献上目に止まる。ところで、“隠遁”の意味合いは、「誰が、何故に、何処から何処に“隠遁”する」のか、日本と中国で、さらに中国では時代によってかなり考え方に違いがあるようである。

 

日本においては、“隠遁”とは、この世の中を“汚らわしいもの、儚きもので厭うべきところ”と見て、世俗から脱して別の世界を目指して逃避すること、“世捨て人” を意味しているようである。すなわち、“日常生活を営む社会、一般社会、世俗”からの逃避を意味しており、その行為は、身分を問わず行い得る“あこがれ”の対象とされていたように思われる。

 

一方、中国においては、当初、基本的に逃避する“世俗”とは、“君に出仕することを目標とする官僚社会”を意味しており、“隠遁”とは、“自己の主義を守り通すために、出仕する場・宮仕え“からの逃避、またはこの“世俗”を無視すること” を意味していたようである。

 

したがって、“隠遁”とは処世術の一つであり、それを行使するのは、知識階級(士大夫階級)の宮仕えを目標とする官僚であり、“世俗”と、自分の考えが合わず、自分の行為が全うできず、自分の意に沿わない時、 “官僚社会から「隠れる」こと”である。一般庶民とは全く関係のない行為なのである。以下、中国における“隠遁”の流れを概観します。

 

歴史的には、“隠遁”は ●不満からの逃避、●自由への憧れ、●山水を愉しむ など、時代によりその目的・趣きを異にしている。“隠遁”最初の例は、周代、孤竹国(コチクコク)の王子・伯夷(ハクイ)・叔斉(シュクセイ)兄弟の故事で、司馬遷の「史記列伝」で一番目に挙げられている と。

 

両王子は、周の武王が殷王朝を倒そうとする行為を、“仁”に悖ると 諫めたが聞き入れられないばかりか、武王の家臣が兄弟の無礼に怒り、二人を殺害しようとしたので、首陽山に隠れて隠棲します。孔子は、両人を聖人とし、その行為を褒め称えた と。 

 

前漢の頃、王莽(前45~後23)は、幼少の皇帝を立てて実権を握り,ついには“新”朝を創建(在位9~23)したが、天下は大乱となる。官僚たちは安穏の日々を送ることが出来ず、生命の危険さえ感じていた。そこで官命の届かない安全な場所・山野に“身を隠す”ことになった。

 

三国~晋代になると、生命の危険がなくとも“隠遁”する風潮が生まれる。後漢滅亡後、儒教思想は知識人の支持を失い、老荘思想が脚光を浴びるようになった。すなわち、「無為自然」、人間本来あるがまゝの姿を尊重する、自由を求める風潮が醸成されてきた。阮籍(ゲンセキ)・稽康(ケイコウ)など「竹林の七賢」とされる人々が現れます。

 

此の頃になると、政治に対して積極的に抵抗し、むしろ官界を“俗”とし、自由を求めるようになる。一方、荒涼とした“山野”を“山水”と美しいイメージで捉えるようになり、“山水”などの風物を「自然」と呼び、人間より卓越した世界と見るようになる。今日に生きている「自然 nature」の概念の誕生と言えよう。

 

晋代末から劉宋のころに世に出た陶淵明は、老荘思想、時の隠遁思想の洗礼を受け、特に注目すべきは、自然界の風物、すべての“自然”の中に“真理”があると見抜いたことであろう。この考え方を基礎として、田園に身を置いて詩作に専念するのである。“隠逸詩人”、“田園詩人”とされる所以であり、さらに“酒の詩人”の称号が加わる。

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閑話休題 280 飛蓬-156 井中の蛙大海を知らず

2022-10-03 17:16:04 | 漢詩を読む

この9月半ば、小倉百人一首の全百首を漢詩に翻訳した『こころの詩(うた) 漢詩で詠む百人一首』(文芸社)の出版に漕ぎつけた。その最後の原稿を仕上げ、ホッとした折に、思い浮かんだ“心象風景”を詠んだのが下記の漢詩である。

 

同書の表紙は、藤原定家が百人一首を撰したとされる庵迹が遺る、京都嵯峨野・小倉山の麓にある古刹・二尊院庭園の盛秋の一風景です。「紅葉の馬場」とも呼ばれる名所の一場面で、非常に印象的な一葉です。書店にお越しの折には、是非手に取って見てください。

 

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 井中瘦蛙   井中の瘦蛙    [上平声十二文韻] 

古池漲暁氛, 古池 漲(ミナギ)る暁氛(ギョウフン), 

面静映孤雲。 水面 静かにして孤雲を映ず。 

奇声蛙跳入, 奇声を残して 蛙 池に跳び入り, 

井蛙想波紋。 井中の蛙 波紋を想う。 

 註] 〇井中:池の水中; 〇瘦蛙:痩せた蛙; 〇暁氛:暁に感じる清気;

  〇波紋:池などに、物が落ちたとき、水面に幾重にも輪を描いて広がる波の模様。 

<現代語訳> 

 井中の瘦せガエル 

森の中にある古い池、暁の清気が漲っており、 

水面は平らかにして、青空に浮く孤雲を映している。

ピョトンと妙な音を残して、一匹の蛙が池に飛び込んでいった、 

池に潜った蛙は水面に広がる波紋を思っている。 

<簡体字およびピンイン> 

  井中瘦蛙     Jǐng zhōng shòu wā 

古池涨晓氛, Gǔ chí zhǎng xiǎo fēn

面静映孤云。 miàn jìng yìng gū yún

奇声蛙跳入, Qí shēng wā tiào rù,   

井蛙想波纹。 jǐng wā xiǎng bō wén.   

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先ず頭を過ぎったのは、芭蕉翁の「古池や……」の俳句でした。それに尾鰭が付いて、出来たのは次の歌であり、この翻訳が上掲の漢詩である。

 

古池や 蛙(カワズ)飛び込む 水の音

   水の環(ワ)思う 井中(イナカ)の蛙 

   (大意) 瘦せ蛙が 古池にピョトンと飛び込んで 水中で、水面の環の広がりは 

     ドナイナモンヤロカ と思いを巡らしている。

 ] 〇上の句:松尾芭蕉の俳句; 〇瘦せ蛙:小林一茶の俳句、「瘦(ヤ)せガエル 

  負けるな一茶 是にあり」から; 〇井蛙:井の中の蛙大海を知らず、 

  『荘子・秋水』:「井蛙(セイア)には以て海を語るべからざるは、虚に拘(カカ)わればなり」

  (意::井戸の中の蛙には、海のことを話してもわからない。それは蛙が 

  狭い環境にとらわれているからである。) 

 

『こころの詩(うた) 漢詩で詠む百人一首』として、世に出すことができましたが、紙幅の関係で同書では十分に触れることが出来なかった点、読者の参考に資すべく、此処で2,3付記しておきたいと思います。ここでは、以下 “和歌は”、“歌”と略記します。

 

百人一首を漢詩に、という発想は、かねて両者に対し親しみを感じていたことから、自らの漢詩表現能力を高めるための一方策として取り組んだのである。しかし生易しい仕事ではないことに気づき、何度か放棄を考えた。“意地”で進めた面が強い。

 

最も大きな難題は、600年の長いスパンにおける歌風の変遷にある。実感を率直に詠う万葉調から、幽玄・有心等を説く俊成・定家の歌風、その変遷を漢詩に反映させ得るか?後者の歌を、所謂、“直訳”したのでは味気なく、まさに「非拠達磨歌(ヨリドコロノナイダルマウタ)」の類の詩となるであろう。

 

これと関連して、『万葉集』の元歌が『新古今集』で採録された時点で、新歌風の歌に替わっており、それへの対処は如何?これらの課題についての考え方などは、その道の熟達者の方向付けを俟ちたい。

 

さて、中国文学の泰斗吉川幸次郎氏は、

  •  中国文学のメインテーマは『詩経』から魯迅まで政治、
  •  日本文学は『万葉集』から谷崎潤一郎までラブロマンス  

との見解を述べられた旨、ある記事で読んだことがある。残念ながら、筆者は未だその原著には当っていない。

 

詠う主題・内容ばかりでなく、表現技法等々を含め、漢詩は“固い、hard”、対して和歌は“柔らか、soft”との印象を持っていたが、吉川幸次郎氏の見解に照らして納得できるように思われる。歌の漢詩化とは、“soft”な歌を“hard”な漢詩に表現することに他ならず、その難問に直面して進める作業であった。

 

勿論、晩唐・李商隠に見るように、艶のある“soft”な漢詩はあります。但し豊富な語彙、表現技能ともに優れた詩人なればこその作品に違いない。常人のなせる業ではなく、ここでは思考停止の上、回り道して、先に進むことにした。

 

一つの対処策の回り道として、「歌作者の思い」を片言で表現できると思える、現代に通用されている熟語や成語をも敢えて活用することとした。‘掟破り’の方策であるが。結果、「候う文」と「です・ます調文」の混在する句となったことは否めないであろう。拙書の漢詩を鑑賞する際、是非心に留めて頂きたい一点である。

 

古典の歌について、翻訳上、今ひとつ直面した課題に、序詞(ジョコトバ)、掛詞(カケコトバ)、枕詞(マクラコトバ)などの技法の存在がある。これらの詞を用いた歌は、必ずしも多くはないが、歌を成り立たせる重要な表現技法であり、拙書では漢詩表現の中に、次の様な形で活かすよう心掛けた。

 

序詞については、絶句の話題提示部である起・承句として活かすようにした。掛詞は、例えば、「松/待つ」の場合、それぞれの語意を含む、二つの“物語”を語る詩として読み込むよう心掛けた。枕詞については、枕詞本来の語意あるいは生まれた経緯を活かし、且つ詩の雰囲気に合うと思える語を選んだ。

 

技法はさておき、翻訳に当たって最も意を注いだ点は、歌の作者の想い、“歌のこころ”を汲み取り漢詩に反映させるという点にあった。書名を『こころの詩……』と銘打った所以であるが、如何ほど達成できたかは心もとない限りではある。

 

拙書では、歌の翻訳漢詩と言うばかりでなく、万葉~鎌倉時代に至るほゝ600年に及ぶ歌及び歌を育んだ時代背景や環境、特に、皇族や藤原摂関体制の推移にも紙幅を割いた。歴史の流れの中で、百人一首を通読、鑑賞した時、新たな発見があるように思える。

 

古より綿綿として読まれてきた本邦の古典、“文化の華”と言える百人一首の“歌”を外語に翻訳し、日本文化を海外に紹介する一助となれば という大それた、“秘かな思い”は、趣味の域を遥かに超えた課題ではある。切にその道の達人の研究進展に俟つ所以である。上掲の詩の結句、“井蛙想波纹”の真意はそこにあります。

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