(p228より引用) 日本は島国で、周囲から孤立した閉鎖的な社会であり、それだけに一面では他からの影響をあまりうけることなく独特な文化を育てることができた。・・・そしてその文化を支えているのは、水田を中心とした農業であり、日本の社会は、弥生文化が日本列島に入ってからは、江戸時代まで基本的に農業社会であり、産業社会になるのは明治以後、さらに本格的には、高度成長期以後である。
この本では、上記のような日本史の常識と考えられている姿が本当に正しいのかを真摯に問い質しています。
日本が少なくとも江戸時代まで「農業社会」だったということは、一般的な日本史の教科書にも記述されひろく多くの人の常識となっていますが、このひとつの根拠は江戸時代の「身分別構成比」によるとのことです。
この史料には「農民76.4%」とありこれを論拠にしているのですが、元史料では、その項目名は「百姓」となっています。ここに「百姓=農民」という「常識」が翻訳者として登場し、大きな誤解の元をつくってしまったのです。
この本では、多くの史料から「百姓」は「農民」と同義ではなく「農業以外の正業を営む人々」を含むことを証明しています。これにより、日本の中世・近世は、単一的な農業社会ではなく、林業・漁業といった第一次産業のみならず、製造業・流通業・金融業等多様な産業が興隆した多面的な社会としてとらえられるようになるのです。
(p255より引用) これまでの歴史研究者は百姓を農民と思いこんで史料を読んでいましたので、歴史家が世の中に提供していた歴史像が、非常にゆがんだものになってしまっていたことは、疑いありません。
また、さらには、別の「思い込み」です。
(p269より引用) 従来の見方では、(日本は)・・・海によって周囲から隔てられた島々の中で、自給自足の生活を営む孤立した社会であった、と考えられてきたと思います。しかしこの常識的な見方はじつはまったく偏っており、こうした日本列島の社会像は誤った虚像であるといわなければなりません。
網野氏の考え方によれば、海は確かに人と人とを隔てる障壁にもなりますが、それは海の一面でしかありません。別の見方をすれば、海は逆に人と人とを結ぶ柔軟な交通路としての役割も果たしていたということになります。
事実、日本社会は以前より四方の海を通じて周辺の地域・国々との交流はありましたし、国内においても海・川・湖沼を使った水上交通路が発達しておりかなり広範囲で経済的・文化的な交流があったことが実証されているのです。
網野氏は、従来からの日本史の常識に対峙するにあたって、当時の実際の社会生活をリアルに思い描きながらこれらの常識の誤謬を明らかにしていったように思います。
現存の記録が、なぜ記録として生き残ったのかという公的史料の背景にも考えを巡らし、「襖下張り文書」に代表される公式文書の影に埋もれた層の多くの史料を丹念に紡ぎ出し、生活実態としての中世・近世社会を再演させているのです。
この本のあとがきには、こう記されています。
(p408より引用) もしもこの書を読んで、あらためて日本の社会のあり方について、「常識」に安易に従うのでなく、自分の頭で考え直してみようとする若い人が一人でもふえれば、まことに幸せである。