「君たちはどう生きるか」の主人公「コペル君」の名前の由来は、やはり「コペルニクス」でした。
これから戦時下に入ろうとする直前、緊迫した危機感を抱いていた吉野氏が当時の中学生に伝えたかったことは、「旧弊にとらわれない自由な思考の大事さ」でした。その象徴が「コペルニクスの視座の転換」です。
(p26-27より引用) しかし、自分たちの地球が宇宙の中心だという考えにかじりついていた間、人類には宇宙の本当のことがわからなかったと同様に、自分ばかりを中心にして、物事を判断してゆくと、世の中のことも、ついに知ることが出来ないでしまう。大きな真理は、そういう人の眼には、決してうつらないのだ。もちろん、日常僕たちは太陽がのぼるとか、沈むとかいっている。そして、日常のことには、それで一向さしつかえない。しかし、宇宙の大きな真理を知るためには、その考え方を捨てなければならない。それと同じようなことが、世の中のことについてもあるのだ。
こういった「精神の自由さ」を「コペル君」という主人公の名前に託したのでした。
「精神の自由さ」は、当たり前と思われていることに対面しても立ち止まりません。
(p81より引用) だからねぇ、コペル君、あたりまえのことというのが曲者なんだよ。わかり切ったことのように考え、それで通っていることを、どこまでも追っかけて考えてゆくと、もうわかり切ったことだなんて、言ってられないようなことにぶつかるんだね。こいつは、物理学に限ったことじゃあないけど・・・
みんなが言っていることだからと何でもかんでも鵜呑みにしないで欲しい、「当り前」だと言われていることに疑問を持って欲しい、そして、その疑問を自分の頭で考えてどこまでも突き詰めて欲しい、という願いです。
「物言えば唇寒し」という時代を前にして、「自由な精神の大切さ」を何とかして伝えておきたいという真剣な想いだったのでしょう。
(p183より引用)して見れば、僕たちは、ナポレオンの偉大な活動力に感歎しながらも、なお、こう質問して見ることが出来るわけだ――
ナポレオンは、そのすばらしい活動力で、いったい何をなしとげたのか。
コペル君、なにもナポレオンについてだけでない、こういう風に質問して見ることは、どんな偉人や英雄についても必要なことなのだよ。偉人とか英雄とかいわれる人々は、みんな非凡な人たちだ。・・・僕たちは、一応はその人々に頭を下げた上で、彼らがその非凡な能力を使って、いったい何をなしとげたのか、また、彼らのやった非凡なこととは、いったい何の役に立っているのかと、大胆に質問して見なければいけない。非凡な能力で非凡な悪事をなしとげるということも、あり得ないことではないんだ。
この本は、今月から中学3年生になる娘に、「読んでみたら」と初めて勧めた本になりました。(彼女が読むかどうかは???ですが・・・)