2・3年前に買っていた本です。
1冊の本としては、本当に久しぶりに手にとる柳田邦男氏の著作です。
柳田氏の著作を集中的に読んだのは学生時代ですから、もう30年以上前になります。「事実の時代に」に始まる一連のシリーズのころで、柳田氏の「事実」に対する真摯な態度とそれを追及する執着心には大いに刺激を受けた記憶があります。
(p16より引用) 70年代以降、・・・「事実」というキーワードを冠したノンフィクション論のエッセイ評論集を、自分の存在証明を賭けるほどの意識をもって、何冊も発表してきた。それは、50年代の学生時代に味わった、実存する人間の現実を無視したイデオロギー優先の政治論に対するアンチテーゼの意味をこめての表現活動だった。
本書は2000年から2001年ごろに書かれた小文を再録したものなので、当時の柳田氏の考え方における「事実」を扱う姿勢やそれを伝える「ノンフィクション」という手法に対する捉え方には、現時点では、少なからぬ変化が見られます。
(p17より引用) しかし、ここにきて、私はノンフィクションという表現活動に行き詰まり感を抱くようになった。・・・その限界あるいは危険性を感じるようになったということだ。
とくに問題なのは、事実主義が蔓延するようになったことだ。事実であれば、あるいは面白ければ、プライバシーでも何でも書いてしまう当世のジャーナリズム。・・・
もちろん「事実」であるからといって、無条件に、他者を踏みにじることが許される治外法権的権利が与えられるものではありません。
(p17より引用) 私がイデオロギー優先へのアンチテーゼとして、「事実」というキーワードを提起した時、戦争や災害や事件の被害者の悲しみや心の傷みに対する豊かな想像力に支えられた配慮という要素は、言わずもがなの前提条件だった。しかし当世は、そういう前提条件はすっぽ抜けて、カラカラに乾いた事実主義が闊歩している。
柳田氏は、こういう「事実至上主義」を否定します。そして、「ノンフィクション的表現形式」には、そういった傾向を助長する惧れが内包されていると考えはじめたようです。
事実の「正確」な開陳ではなく、事実の取捨選択とそれらの再構成という文脈化による「物語性」に新たな意義を認めたのです。
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