柳田氏は、高校時代に中原中也の詩集を手に取りました。そして、その一篇に綴られた「月夜の晩に拾ったボタン」という言葉が、「自分だけが大切に思うものを象徴するキーフレーズ」になったと語っています。
この言葉を抱き続けて年月を経るうちに、この「大事なもの」というボタンの意味には、さらに「生を支える」大事なものという意味が加わり膨らんでいきました。
(p54より引用) 胸に刻んだ言葉というものは、人生の歩数とともに、内実の変容をも加えて、成長し、膨らみ、成熟していく。
自らの精神経験の深まりによって、「言葉」に潜在化していた意味を掘り出し、それを磨き上げていくといったことは確かにありますね。
さて、本書の中盤は、人の生死に向き合った方々の日記やエッセイを取り上げて、「命」「生き方」に関わる様々な柳田氏の考えを披露しています。
たとえば、少年時代の「悲しみ」の経験の大切さについて。
(p143より引用) 悲しみの感情や涙は、実は心を耕し、他者への理解を深め、すがすがしく明日を生きるエネルギー源になるものなのだと、私は様々な出会いのなかで感じる。
悲しみを受容し、その中で人生の「肯定的な意味」を自らのものにしていく、精神的な成長は、「強さ」「明るさ」の発揮やそれらのみを是とする教えだけでは深まらないのです。
そして、本書後半では、柳田氏は、「マスコミ」「行政」等にかかる時事問題を材料に、それらを観る視点・視座等について綴っています。そこでのキーコンセプトは「2.5人称の視点」です。
ひとつの説明材料は「少年法」。
この法は、加害者たる少年の保護・更生を目的とした刑事訴訟法の特則的性質の法律ですが、悲惨な状況に追い込まれた被害者の救済については、その法律の視野には全く入っていません。被害者の両親が加害者(少年)の審理を傍聴することすら却下できるのです。
(p232より引用) 一般人の考えから見るならば、重要な当事者である被害者の親がどのような人物に如何なる理由で大事なわが子を殺されたのか、その真実を知るために、審理に同席して審理の内容を傍聴し、自らの心情についても語りたいと願うのは、当然の権利だと思うだろう。
しかし、不思議なことに、裁判官という法律の専門家は、そういうことは「無駄だ」と考えるのだ。
こういう「専門家」の乾ききった目に潤いを与えるものとして、柳田氏は「2.5人称の視点」を掲げています。二人称の立場に寄り添いつつも、第三者的な客観的視点も失わない立ち位置です。
こういう多層的な人間的な関わりにも重きを置いた「成熟したものの見方」は、バーチャルなコミュニケーションが増しつつある現代において、ますます欠くことのできない大切な姿勢になるのだと思います。
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