この前、エンゲルスの「空想より科学へ―社会主義の発展」を読んだかと思うと、今度は石原慎太郎。いかに私の読書が濫読かということを端的に表していますね。我ながら節操のなさにあきれます。
石原慎太郎氏は、私情では共感できるところの少ない政治家ですが、とはいえ氏の著作は真っ向から読んだことがありませんでした。本書も「食わず嫌いを無くす」との心がけの一環として手にとってみました。
まず、石原氏は「一章 平和の毒」において、氏が感じている現今の日本人の劣化(堕落)をいくつもの憂いの実例を挙げて指摘していきます。
(p38より引用) 坂口安吾がかつて、当時の世相の変化を踏まえて書いた「堕落論」には、「世相が変わったので人間が変わったのではない」とあったが、今の日本の変化にそれが当てはまるものではとてもない。敗戦から六十五年の歳月を経て、この国では人間そのものの変質が露呈してきています。これは恐らく他の先進国にも途上国にも見られぬ現象に違いない。
石原氏はこの「日本人の本質の堕落」の要因について、以下のように続けます。
(p46より引用) 要するに戦勝国アメリカの統治下、あてがい扶持の憲法に表象されたいたずらな権利の主張と国防を含めた責任の放棄という悪しき傾向が、教育の歪みに加速され国民の自我を野放図に育てて弱劣化し、その自我が肉親といえども人間相互の関わりを損ない孤絶化した結果に他なるまい。
このあたりになると、憲法・国防・教育といった政治色・思想色の強いう要素が列挙されており、石原氏の主義・思想・価値観が色濃く反映された論旨に移っていきます。
本章で石原氏が採り上げた主題のひとつは「国防」でありその手段たる「核武装」です。
石原氏は、米国依存の国防意識に大きな危惧と不満を抱いています。
日米安全保障条約に基づき、有事の際には米国が日本を守ってくれると信じている国民は必ずしも多数派ではないでしょう。むしろ問題設定は、その現実を踏まえ日本として独立不羈の途を歩むとした時、核武装・再軍備で対処しようとするのが、非核・非軍事的アクションに拠ろうとするのかという点にあると思います。本文中、軍備増強・核保有等を主張するときの石原氏の口調には自己陶酔しているかの印象を抱きます。
(p99より引用) 日本の核保有に関してはさまざまな論が噴出しましょう。しかし核に関する道義論は別にして、あくまで毀損されつつある国益の損得、国益を墨守する視点から改めて考えてみるべきです。
こういった議論の際しばしばこの手の論者が使う「国益」という言葉が叫ばれるたびに、著作「人間と国家」にて、その実体は何なのかと「国益のフィクション性」を指摘した坂本義和氏の主張を思い起こし対比・熟考せざるを得ません。
さて、本書を通読して、後半の良心とか良識といった「人としてのあり方」に関するくだりには共感するところがあるものの、私自身、石原氏の政治的思想に関する主張に対しては基本的に与するものではありません。しかしながら、石原氏に、今の政界・経済界そして社会的な「空気」に欠けている一種のパワーを感じるのも事実です。
石原氏の言動・主張に対する諸々の好悪やその当否はともかく「自らの信念」を持ち、それをどんな相手であろうと「堂々と主張」し、言行一致で「実行」するという姿勢は、普遍的に正しいものでしょう。
ただ、重要なのは、その「内容」です。その内容を誤ると、日本も含めかつていくつかの国々で現出した悲劇に再び陥ることになってしまいます。
(p218より引用) 我欲を堪えて抑制することで初めて、個々人の人生はしなやかでしたたかなものになっていくし、それが国家を支えるよすがにもなるのです。
この巻末の言葉に垣間見ることのできる、人は国家を支えるもの、すなわち、人は国家存続の手段であるかのような国家至上思想には、私は断固反対です。
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