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流行のからくり

2006-07-29 15:42:36 | 本と雑誌

Inko

(明治大正史(世相篇)(柳田 國男))

 よく言われていることですが、柳田氏流に、日本民族の特徴としての「集団志向性」を以下のように記しています。

(下p178より引用) 附和雷同は普通は生活の最も無害なる部分から始まっている。しかしいわゆるお附き合いはもうすでにかなりの不便を忍ばせ、次に、お義理となるとそこに時としては苦しいほどの曲従があるが、そういう程度の共同生活をしてでも、なお孤立の淋しさと不安とから免れたいというところに、島国の仲のよい民族の特徴もうかがわれるのである。

 明治大正期においても、この「集団志向」を活用した購買の動機付けが行われていたようです。非常に原始的な方法ですが、そのころの日本人マーケットには非常に有効だったようです。

(下p179より引用) 買い物の興味を普遍ならしめるがために、都市はあらゆる力を傾けて地方と個人との趣味を塗り潰した。その大きな武器はまた、他でも多数の人がこれを喜んでいるという風説であった。こういう点にかけてはもとはわれわれは気の毒なほど従順であった。

 こういう世間の趨勢を利用して「うまくやってやろう」と画策する輩は、いつの世にもいるものです。明治大正期の具体例として柳田氏があげたのは「ペット」の話でした。

(下p180より引用) 近年の西洋小鳥の流行などは、最初極めて目に立つ方法をもって、五度か七度法外な高値の取引をして見せるだけのことで、それから以上は世間で評判を作り、わずかな間にありうべからざる相場ができ、かねて用意している者を儲けさせてくれる。

 さて、日本人は、柳田氏がいうように、こういう「集団志向性」、別の言い方をすると「無主体性」を脱することができているでしょうか?

(下p181より引用) 無邪気で人の言うことをよく理解する幸福なる気質がわれわれを累わしている。人の多数の加担するような事業に、損を与えるような原因は潜んでおるまいという推測、もしくはいま一段と気軽に判断を他人に任せて、自分はこのいったんの群の快楽に、我を忘れて遊ぼうという念慮は、社会の今日までになる間に、ぜひ通って来なければならぬ必要な一過程であった。

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