以前から空海弘法大師には少し関心があり、彼の著書「三教指帰」を読んでみたのですが玉砕しました。
今回読んだのは、司馬遼太郎氏による空海弘法大師をテーマにした小説?です。
司馬遼太郎氏の著作は、小説・エッセイ・対談等、それなりに読んだことはあるのですが、本書は、「司馬文学の記念碑的傑作」との評価もあるそうです。
空海の生涯のなかで、私が「空海らしさ」と感じたところをいくつかご紹介します。
若き日の空海です。
讃岐国で生れた空海は都に出て、大学は行政官僚への道である「明経道」に進みました。儒学の基本を学ぶ道です。
(上p69より引用) 明経のほかに、規定外のことながら音と書を学んだであろうということは、明経の習学に没頭しつつも、閉塞された才質のうずきをそのことで癒すためであったに相違なく、ひるがえっていえばそれほどにこの人物は篤実な官僚学の諸課程をおさめるためには不幸なほどに多量の芸術的才能をもち、しかも持つのみでそれを十分に充たすだけの場がその青春の条件や環境にはなかったことを、われわれは見てやらねばならない。
そして、その後程なくして空界は大学を退学し、仏教的世界へ転身します。
(上p58より引用) かれが仏道に入ったのはいわば学科の転科にすぎず、中世の爛熟期に日本にあらわれてくるひ弱な厭世的情念などはこの精気のあふれた男にはなかった。
空海の視座は、普遍的な高みにありました。
(下p132より引用) 空海はあるいは、言葉に出して、
-朝廷も国家もくだらない。
といったかもしれない。
空海はすでに、人間とか人類というものに共通する原理を知った。・・・
日本の歴史上の人物としての空海の印象の特異さは、このあたりにあるかもしれない。言いかえれば、空海だけが日本の歴史の中で民族社会的な存在でなく、人類的な存在だったということがいえるのではないか。
もうひとつ、「空海の風景」を語るに必須の人物「最澄」について。
本書で語られる空海の最澄に対する思いや姿勢の典型的記述です。
(上p196より引用) 「最澄なる者は、朝威を藉りて偽物にひとしいものを売りつけようとするのか」
とまで思った瞬間が、この若者にあった。すくなくともそれに似た昂りがあったと思われる。
司馬氏の描く空海は、当時の時代や思想の枠を凌駕した異能の人でした。
巻末近く、空海の書について、書家の榊莫山氏のことばとともに司馬氏の空海観が紹介されています。
(下p321より引用) 「さらに、空海というのは最澄とちがい、書くたびに書体も書風も変えていて、どこに不変の空海が在るのか、じつにわかりにくい」・・・
私はふと、不変の空海など-以下はおぼろげな感想ながら-どこにも存在しないのではないか、と思ったりした。
本書は、空海の生涯を描いた文芸作品ですが、内容は、平安期の日本と中国を舞台にした仏教史でもあり、また真言密教の概要書でもあったりします。また、司馬氏一流の歴史エッセイという趣きもあります。
多様な顔をもつ作品ではありますが、私としては、「空海」という異才の人を主人公にした司馬氏による純粋な小説も求めたいと感じました。
「空海」というテーマならば、司馬氏の想像力・想像力・構成力が存分に発揮されたであろうと思うからです。
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