本書の半ばの章の多くでは、吉野氏が活躍していた1960年代から70年代初ごろの世相を反映した政治的・思想的な主張もみられますが、そういった中で、「思い出すこと」という章に日本人論としてとても興味深い考察が紹介されていました。
吉野氏の知人のフランス人の言葉なのですが、覚えに書き留めておきます。
(p146より引用) そのフランス人によると、日本の芸術や武道に接して、いかにも日本人らしいなと感じ、また感心する点をふりかえってみると、たいてい、精神がある一点や、ある瞬間に「集中し切った」というふうなものだという。・・・それは、たしかにすばらしい。しかし、その反面に、いくつかの問題を精神に同時に受けとめて、これを抱えこんでゆくというようなことは、日本人には不得意なようだ。こういう可能性もあれば、ああゆう可能性もある、というふうに多くの可能性を併立させ、複雑なものを複雑に考えてゆくことは、日本人には得手でないようだ。・・・「白地に唯一つ赤い丸を印した日本の国旗は、実によく日本人の特徴をあらわしている。」
確かに、なるほどという指摘だと思います。こういう日本人の精神・文化的特性は、その行為の面においても一つの傾向を示します。
(p147より引用) 純粋なもの、いさぎよいものを好むという傾向は、人間の行為に関しては動機の純不純だけを問題にして、その行為の客観的な責任を不問に附するということになりやすい。
この精神主義・主観主義的な国民性が、戦前・戦中期には大きな不幸を招いたのでした。
さて、本書の後半部分は、総合雑誌「世界」の編集者としての吉野氏の述懐が中心になります。
「世界」創刊前から当時に至るまでの数多くのエピソードが紹介されていますが、その中で、吉野氏は「世界」の使命についてこう語っています。
(p286より引用) 『世界』がいろいろな論文や報道を読者に紹介する場合にも、現実についてそういう問題を心の奥にもっている読者の自主的な判断に資するためという形で、その立場から提供することが必要なのであって、われわれとしては、それ以上特定な政治的主張にまで踏み出すことはできません。そこに政党の機関誌ではない私たちの雑誌の限界があるわけです。・・・
私には、この限界を自覚してやっていくことによって、民主的社会の言論・報道機関として『世界』のような雑誌も、かえってその使命を果たすことができるのだと思われます。
ここには、政治的判断は、一人ひとりの国民の自主的・主体的行為でなくてならないというポリシーがあります。言論・報道機関は、その国民一人ひとりの判断の助けとして、前提となる事実・参考となる意見を提示するのが役割だとの考えです。
1970年代あたりまでは、こういう形でメディアと国民とによる民主主義の思想的基盤が築かれていたのです。
翻って今日、この「世界」のような役割を果たしているのは何なのか。それが、メディア著名人のブログや一部政治家・評論家のつぶやく140文字のtwitterだというのであれば、あまりに狭窄であり貧弱でしょう。さらにいえば、こういった断片的情報であっても、それを咀嚼し自らの頭で考えて判断する「人」が存在するのであればまだ良いのですが、而して現実はどうでしょう。
私自身、そういう主体的判断を貫徹していると到底自信をもっていえるものではありません。自分の頭で考えるという鍛錬が、以前の人びとに比して圧倒的に劣化しているとの自覚と慙愧があります。
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