2022年の映画です。
「ジュラシック・ワールド/炎の王国」の続編で、「ジュラシック・ワールド」三部作の第3作目、完結編との位置づけです。
今までの作品に比べて、ストーリーは一本調子でラストも “万人、安心” のHappy endですし、本作のウリである恐竜たちの映像も見慣れてしまってインパクトはありません。
今日のレベルでは、“並”のエンターテインメント作品と言わざるを得ないでしょう。
とはいえ、以前の作品の主要メンバーが数多く登場人物していたり、ところどころに何某か過去の映画の「オマージュ」を想像させるシーンが織り込まれていたりと、昔からのファンに対するサービス精神は大いに感じられますね。
しかし、こうやってシリーズ作品を何本か観続けると、やはり第一作目の「ジュラシック・パーク」の衝撃は絶大だったと改めて感じます。当時としては超絶リアルな恐竜の映像はもちろん、あの蚊から抽出した血液に含まれるDNAをもとに恐竜を復元する発想には驚かされました。
知人のSNSで紹介されていたので気になった本です。
磯崎新さんについては著名な建築家という程度しか知りませんが、昨年(2022年)暮に訃報が流れ、改めてその人となりの一端なりともたどってみようと思いました。
本書は、現都庁建築時のコンペの場を舞台に、磯崎さんの魅力的な人物像と彼を取り巻く様々な人たちとの営みの様を描き出しています。
まずは舞台となった1985年に行われた新宿新都庁舎コンペ(設計競技)についてです。本書で詳述されている鈴木俊一東京都知事(当時)と丹下健三氏との関係を踏まえると、多くの人々は “出来レース” として仕立てられていたのだろうと考えていたようです。
(p356より引用) 丹下健三が鈴木都知事と共に設立した「東京都設計候補者選定委員会」のメンバーが、新都庁舎コンペを組織し、かつ審査員の大半を占める。そして丹下健三本人は応募者の側でコンペに参加する。 こんな構造なのだ。・・・
もし、これを本気でまともなコンペにするつもりがあるのならば、東京都は、丹下健三を応募者ではなく審査委員長に就任させるか、あるいは、丹下がどうしても応募者の側に入りたいということであれば、「東京都設計候補者選定委員会」のメンバー全員を審査員から外したうえで、海外から中立のしかるべき実力と見識を備えた建築家や批評家を招待し、審査員を務めてもらうほかなかっただろう。
そういった完全アウェイの舞台で、磯崎さんは自らの師でもある “巨大な壁” に向かって突進していったのです。磯崎さん自身、こう語っていました。
(p359より引用) 「いや、僕は出来レースじゃないコンペなんて、世界中どこにもないと思ってますよ、経験上ね。ハッハッハ」
こういう環境下で、当の丹下健三氏は着々とコンペ案の作成を進めていきます。「第一・第二本庁舎」のデザインを固め、隣の街区に「広場」と「都議会議場」を配置。庁舎と広場とを「空中回廊」で結びました。
(p398より引用) 表向き、空中歩廊が設置された理由は、議場と本庁舎との行き来の便利を考えたため、ということになっている。
でも、違うのだ。
古市は言う。「・・・せっかく広場をつくっても、そこに面する建物が、京王プラザホテルなり、住友三角ビルじゃ、自分の気に入った広場はできないわけですね。広場には自分の第一本庁舎だけが面するようにしたいんです。早い話がですね、もう新宿NSビルなんか壊したいくらいですよね(笑)」
だが、もちろん他の超高層ビル群を壊すなんてことが許されるはずもない。そこで丹下は考えた、目隠しをしてしまえ、と。
「それで広場を回廊で囲んだんですよね、他が目に入らないように。・・・すると、ここには〝丹下広場” ができるわけです。・・・」
基本の軸線に乗った“自分だけの空間を作りたい”というのが、丹下氏の強い意志でした。
ただ、これは丹下氏の “我欲” の顕れと捉えるべきではないでしょう。彼の卓越した “全体構成力”の発露であり、彼が抱いていた“建築の意味への信念” によるものだったのだと思います。
1986年4月7日、新都庁舎コンペ審査結果が発表されました。審査員の一人が明かした審査過程によれば、審査は「減点消去法」で進められたとのこと。
(p441より引用) 「減点消去法」が成立するためには、審査員があらかじめ100点満点の正解となる新庁舎のおおよそのイメージを審査の前から心得ていることが前提である。すなわち、この審査団が求めたのは、まだ点数化ができないような斬新な提案ではなく、この時代における標準的な超高層デザインの最大公約数だったと言えるだろう。
そして、当然のごとく丹下健三事務所案が一等に選定されました。しかし、それは丹下氏が目指していた“ぶっちぎり”の評価ではなく、予想外に僅差での決着でした。
2005年、丹下健三氏が亡くなった際の追悼文に、磯崎さんはこう記しました。
(p457より引用) 「あの意欲的に世界の歴史に残る作品を次々に制作していた頃に弟子として学び、助手として仕事をした私には、国家とすれ違っていった後からの丹下氏は本来の姿とは違ってみえる。あらゆる無理を覚悟で骨太の軸線を引きつづけた、あの時代の姿こそが、建築家丹下健三だったと今も思う。列島改造に引き出されて後は、もう余生だったのだ。」
さて、本書を読み通しての感想です。
磯崎さんが“建築家”として脚光を浴び始めた1960年代と、都庁コンペがひらかれた1980年代を往還しながら数々のエピソードが語られていきます。その時代感の相違や人間関係・師弟関係の妙がとても面白く、密度の濃いとても刺激に満ちた著作でしたね。
いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いた本です。
タイトルをひと目見て予約したのですが、長大な時間軸の中からどんなエピソードをピックアップするのかとても興味が湧きますね。
紹介されている多彩なトピックや解説の中から、特に私の関心を惹いたところをひとつ書き留めておきます。
(p266より引用) 今後数千年のあいだに、ホモ・サピエンスは消滅するだろう。・・・人類の生息域は地球全体だが、人類は積極的に生息に都合の悪い環境をつくってきた。
人類絶滅の最大の理由は、人口の移り変わりがうまくいかないことだ。人類の人口は今世紀 中にピークを迎え、その後減少へと転じる。・・・
先史時代、太古のむかしの出来事により、遺伝的な多様性が足りないこと、現在の生息地の喪失による絶滅負債、人間の行動や環境の変化による少子化、より局所的な、小さな集団が直面する、ほかの集団から孤立する問題などが組み合わさり、人類は絶滅するのだ。
科学的な推論の結果です。想像できる未来ですが、なかなかこう明確に結論づけている論考は珍しいように思います。
さて、本書ですが、地球誕生から今に至るまでに登場した様々な生物を数多く紹介してくれています。
ウェイト的にはやはり “動物” がかなりを占めますが、よく見られる本のように大人気の「恐竜中心」に止まっていません。広く原初の生命から海綿動物・脊椎動物・その中で、両生類・爬虫類・哺乳類等々についても、今までに聞いたこともないような種族が大量に登場します。
スマホで画像検索しながら辿っていったのですが、よく化石だけからここまでの形態や生態を推測できるものだと大いに驚きました。
生命38億年、その激動の歴史の中では、本当に様々な「命」が生まれていたんですね。
ちなみに、本書での地球形成の歴史を辿った解説を理解するにあたっては、先に読んだ鎌田浩毅さんの「知っておきたい地球科学」、最後の方のホモ・サピエンスに至る解説については、篠田謙一さんの「人類の起源」がいい予習になりましたね。
いつも利用している図書館の新着本リストで目に付いた本です。
沢木耕太郎さんと言って思い浮かべる代表作は「深夜特急」ですが、本書は、日本国内の旅でのエピソードを綴ったエッセイです。肩ひじ張らずにページをめくってみようと読み始めました。
沢木さんの “旅の原点” は、16歳の時の東北一周の一人旅とのこと。「上野駅のホーム」を久しぶりに訪れた沢木さんはこう記しています。
(p37より引用) 上野駅のエスカレーターを降り、中央改札を出て、あらためて構内を眺めた。
たぶん、天井も壁も私が十六歳の頃とはさまざまに違っていることだろう。
しかし、海外を含めたその後の私の旅のすべては、この駅の、この改札口を入ったところにある、北に向かう列車が停まっているプラットホームから始まったのだ。
私も行き止まりのホームには思い出があります。
私の初めての一人旅は高校2年生のときですから、沢木さんと同じ16歳ごろですね。行先は九州一周。沢木さんは、夜行列車と駅と国民宿舎が宿だったそうですが、私の場合の宿は夜行列車とユースホステルでした。 夜行列車の始発駅と到着駅は行き止まり。門司港を出て長崎までが振り出しでした。次の日は、また門司港まで戻って、今度は西鹿児島へ。
その後の北海道旅行のときは、上野発、青森。行き止まりのホームを降りて、そのまま桟橋へ。そして青函連絡船で函館。青函トンネルが開通した今となっては、もうこのルートは辿れませんね。
このエッセイの舞台は「旅」です。
この国内小旅行でも、目的地は定めても細かな予定は立てず、事前の情報収集もしないのが “沢木流”。なので、旅先で行先を変えたり寄り道をしたりするのは日常茶飯事です。
(p181より引用) さて、どうしよう。行こうか、行くまいか。
迷った末に、やはり行くことにした。・・・
行くか、行くまいか、迷ったときは行くにかぎる。なぜなら、すべては移動によって始まるから、だ。
そうですね、新たな発見は行かなくては得られません。行ってみて何もなくても、期待外れでも。それもまた“旅の思い出”です。