雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

千度呼べば 新川和江 ①

2018-07-23 10:01:56 | ことの葉散歩道

千度呼べば  新川和江

   千度呼べば
 
  千度呼べば
  思いが 通じるという
 
  千度呼んで通じなくても
  やめては しまうまい

  神様が うっかり
  かぞえちがえて
  あのひとを振りかえさせてくださるのは
  千一度目かも
  知れませんもの
       新川和江詩集「千度呼べば」より

     千度呼んでも 貴方は振り返らない それでも私はあなたを呼ぶ
    何度読んでも振りかえらない 
    神さまだって間違えることがある
    あなたが振りかえるまで 私はあなたを呼び続ける
    愛しい人? しあわせ? 希望? 安らぎ? ゆめ?

    千度なんて だれがきめたの
    私は 私のやり方で なんどでもよぶわ

    生きるって きっと そういうことだと思う

         (2018.7.23記)   (ことの葉散歩道№41)
    
 

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食前観 食後観 (感謝を忘れずに)

2018-04-30 08:30:00 | ことの葉散歩道

 感謝を忘れずに    (ことの葉散歩道№40)

  食前観 
 吾今(われいま)幸いに、
 仏祖の加護と衆生(しゆじょう)の恩恵によって、
 この清き食を受く、
 つゝしんで食の来由(らいゆ)をたづねて、
 味の濃淡を問わず、
 其の功徳を念じて、
品の多少をえらばじ    
 いただきます
 
 
食後観 
 吾今(われいま)此の清き食を終わりて、
 心ゆたかに力身(ちからみ)に充(み)つ、
 願わくは、
 
此の身心(しんじん)を捧げて、
 (おの)が業(わざ)にいそしみ、
 誓って四恩(しおん)に報い奉らん 
 ごちそうさま

    感謝を忘れずに
         
        坂東十九番札所
                
    大谷観音 

 

 母の教えでもあった。
 感謝。
 特に、食べ物への感謝は厳しく教え込まれた。
 米粒一つと言えどおろそかにしてはいけない。
 
 食べるものがあるから 今日を生きられる
 食べ物に感謝し、
 両手を合わせることによって
 今日一日生きられたことを 感謝する。
 
 全ては食べものへの感謝の気持ちから始まる。

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無駄な努力なんってないんだ

2018-04-28 08:30:00 | ことの葉散歩道

無駄な努力なんってないんだ (ことの葉散歩道№39)
       
       お寺さんを参拝した折にいただいてきました。

 
  努力は
   報われずとも 
  報われぬままに
   
光るものだ

        天台宗栃木教区布教師会

   結果論で片づけてしまえば、「結果の出ない努力は無に等しい」ということになる。
   あまりにも味気ない考え方だ。
   そうではあるけれど、
   競争社会で生きていくためには、結果が伴わない努力は痛々しい。

   でも、救いになるのは

   報われぬ努力や挫折が
   苦労とか
   痛みという感情のスパイスで味付けされ
   人生の深いところで   
   人格というかけがえのないものを育てくれるということだ。

   そうだよ!!
         報われぬままに光るその光が
   いぶし銀のように優しく光る時がきっと訪れるのだ

   その時
   あなたも私も
   人生って素晴らしいと思えるに違いない
            (2018.4.26記)
   

 





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失敗したっていいんだ

2018-04-15 09:20:07 | ことの葉散歩道

 


失敗したっていいんだ (ことの葉散歩道№38)

  天台宗のお寺さんを拝観した。
  入口にさりげなく置いてあったチラシ。

人生は
 つづいて
  いるから


くよくよ
  しないで


あしたは
  きっと
    転機「天気」に
        なるよ

   天台宗栃木教区布教師会

 

  簡単明瞭だ。

  人生は
  
  生きてきた過去を
  消すことはできないが
  やり直しはできる

  明日はきっと
  いいことがあるよと……

  そうだ!!
      失敗したっていいんだ

  そう思うと
  気持ちが楽になり
  仰ぎ見る観音様のお顔が
  なんと優しく見えたことか


      ♪ 奮闘努力の甲斐もなく
        今日も涙の
          陽が落ちる ♪

                     「寅さん」
           明日があるよ
           頑張ろう!!

  

 

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映像のもたらす仮想現実

2018-03-15 09:31:19 | ことの葉散歩道

映像のもたらす仮想現実
   ドキュメント番組や報道番組

  ドキュメント番組で戦争が出る。命がけで映した戦争の現場、或いは飢餓の場面が出る。それを、エア・コンのきいた部屋で、サンドイッチを食べ、コカ・コラを飲みながら見られるわけだ。
 ※開高 健 (昭和50年エッセイ「テレビを語る」より)

 ドラマや映画と異なり、ドキュメンタリー番組には現実感がある。
逃げ惑う難民、砲弾で破壊され瓦礫となった街に暮らす人々。
不安と飢餓と非衛生的な生活環境が映し出される。
だが、ここまでだ。
開高 健ではないが暖かい部屋でぬくぬくと見ている。
「ひどいなぁー」と思う反面どこかに他人事いう思いが漂っていて、
今見たテレビの画面はすぐに忘却の彼方に沈んでしまう。

 なにも解っちゃいないのに、
映像を見ただけで戦争の悲惨さを理解したような気になってしまう。
錯覚である。
誤解である。

リモコンのボタンを押せば、すぐに映像が飛び込んでくる。
だがこれは現実ではない。
遠く離れた平和な日本で寝ころびながら眺める映像は、
無意識なうちにどこか他人事として処理してしまう。

かつて3.11の映像をテレビで眺めたときも、
圧倒的な自然の驚異の前になすすべを亡くした被災者の姿を見て、
息を呑んだことがあったが、ここまでだ。
あの時、
遠く関東の地にあって、轟音とともに地面が揺れ動き地面に這いつくばった恐怖。
屋根のぐし瓦が崩れ落ちたのを見たときの被害者意識の方が、現実的な不安や恐怖だった。

視覚に訴える映像が、
他人事に感じられるのは、
現場の緊張感や恐怖が臨場感を伴って語感を刺激しないからだろう。

仮想現実なのだ。

映像で見た津波の恐怖よりも、
数か月後に現地を訪れたときの現実感の方が遙かに大きかった。
現場の空気が肌に突き刺さり、瓦礫の匂いが鼻孔を刺激する。
被災した人々の悲しみが空気を通じて漂ってくる。
これが現実だ。

「(テレビの映像を見て)一番悪いのは、それだけでその国の戦争がわかったような気になってしまうことだ。
何もわかっちゃいないのに、わかったという気を起こさせるのが、テレビは他のどんな媒体より激しい。」

ジャーナリストとして、身体を張って戦場を駆け巡った開高 健の重い言葉である。
  (2018.3.14記)     (ことの葉散歩道№37)

 

 

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捉えきれない自分 次世代に何を誇ればいいのか(ことの葉散歩道№36)

2018-01-07 09:05:15 | ことの葉散歩道

捉えきれない自分 (ことの葉散歩道№36)
  私たちは次世代に何を誇ればいいのか


 「自分の弱さと向き合うのはとても苦しいことだから、でしょうね」
              香山リカ(精神科医)

 診察室を訪れる若者が、少しずつ変化している。
「どうしたのですか?」と訪ねても、明確な答えが返ってこない。
「つらいんです」
「どのように辛いのですか?」
問診の過程で、患者の意思表示が曖昧で、医師は患者の症状を捉えることが難しくなってきている。

 言葉が肉声となって響いてこない。
言葉が感覚的になり、「うざい」「やばい」「きもい」「えぐい」などという若者言葉は、
1980~2000年代(昭和55年代~平成10年頃)に流行った。

 意志や思いを伝える言葉が本来の意味を失い、上滑りしていく。
流行語大賞に選ばれた「インスタ映え」。
言葉や中身はどうあれ、
「インスタ映えする」と言う使い方が、「おいしそう」、「楽しそう」など、
……のように見えるというように使われ、ものの本質を確かめずに、言葉が一人歩きしていく。

 若者たちが使用する言葉によって、仲間意識が生まれ、一見彼らは繋がっていると錯覚を起こす。

 再び香山リカさんの話に戻そう。
単調なやり取りが増え、
「この感じが取れる薬ください」と、
カウンセリングより手っ取り早い薬物療法を望む人も目に付くようになった。
自分の内面を掘り下げ言葉で表現する力が落ちているように思う。

 感覚的な言葉や流行言葉は、
自分を掘り下げ、じっくり見つめるにはそぐわない。
こうした言葉の反乱の中で成長した人の中には、
時々とんでもなく人間の道を踏み外してしまう人が発生する。
短絡的、激情型の人間が時々現れ、社会を震撼させる。

 貧困、経済格差、地域からの孤立等社会の構造的歪みの中で叫ぶこともできず、
奈落の底へ落ちてしまう人。
自分を見つめ直すのではなく、
社会のせいや他人のせいにして責任転嫁してしまう。
こうした異端者を異物として排除することはやさしいが、それでは何も変わらない。
異端者を生み出すのは、病んだ社会なのだ。
排除するのではなく、社会そのものを立て直していかなければ解決にはならない。

 もうすぐ平成の時代が終わり、新しい時代がスタートする。
戦中に生まれ、終戦とともに昨日までの価値観が崩れ、
新しい価値観の構築と共に経済大国を成し遂げた昭和の時代。
築いた平和の時代に、平成の30年間で私たちは何を築いてきたのだろう。

 自国第一主義が台頭する中で、再び私たちの社会は「戦争」の危機にさらされている。

次世代を担う若者に私たちは自信を持って手渡すものがあるのだろうか。

  (2018.01.06記)

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希望 ことの葉散歩道 (№22)

2017-11-04 18:00:00 | ことの葉散歩道

希望   ことの葉散歩道 (№22)

この記事は2016.01.05に掲載したものですが、前回(2017.10.30)の「人生の最期」に関連した内容なので、加筆して再掲しました。

 「何がしたかったの」と問い掛けられれば、
自分の歩んできた人生を否定されたような気がします。
辛くなります。
車椅子の生活でも、
後遺症で思うように体を動かせなくても、
その時々に応じて、「したいこと」はあるはずだ。
そういう気持ちを理解し、サポートしていただけたら、
人生は豊かになります。
光が見えてきます。
どんな格差社会に生きようとも、「土に還ってしまえば」すべては、
無常の時間の流れにゆだねることになります。
 だからこそ、
多くの人は理想の「人生の最期」を求めるのでしょうね。
                   (2017.11.04記)
 

「何がしたいの」って聞かれて、

うれしいと泣く女性がいた。

※ 「それでも やっぱり がんばらない」より 

鎌田 實著 集英社

 前途に明かりが見えないような辛い目にあっても、人は希望を捨てない。

どんな些細なことでも、「希望」が生きる支えになり、自分自身の力となってくる。

 例えば、車椅子から降りて自分の足で歩きたい。

スプーンではなく箸でご飯を食べたい。

お粥ではなく 白いご飯を食べたい。

 

 まずは生理的欲求を満たしたい。

次に、外的欲求を満たすことに気持ちが動く。

歩きたい、車椅子でもいいから外に出て新鮮な空気を吸いたい。

 

 末期の癌に侵され、たどり着いた病院で「何がしたいの」と聞かれ、うれしいと彼女は泣いたという。

おそらくは余命宣告をされ、気持ちの整理のつかぬまま、

ベッドに横たわる彼女には、なんと優しい励ましの言葉に聞こえたことか。

 

 支えられた人たちに「最期のお別れ」くらいはきちんと伝えたい。

お迎えが来るまでは、笑顔で暮らしたい。

 

 ささやかな願いがやがて生きる希望に繋がってくる。

たった一度の人生なのだから、最期の時ぐらいは穏やかに静かに心許した人に看取られたい。

万人が思う終末期の願いである。

 

 著者の鎌田實はさらに次のように文章を締めくくる。

関東のある町から諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやって来た初日、問診で聞かれた言葉。以前の病院で、彼女は「何がしたかったの」と過去形で聞かれた。治らないがんがあったとしても、私は、今、生きているんですって怒った。そうだ、生きている限り、したいことがあるはずなんだ。

       出典:「それでも やっぱりがんらない」

          集英社 単行本 2005.5刊行 

              文庫本 2008.2刊行

                                            (2016.01.05記) 再掲

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ことの葉散歩道 人間は負けない

2017-09-16 08:30:00 | ことの葉散歩道

 ことの葉散歩道 人間は負けない
 私たちはこの世の中に一定の秩序と連続性を見出そうとしています。
 こうしたものがないと、とても安心しては暮らせない。
 今日は昨日のようであった。
 明日も今日のようであるだろう。
 明日の景色も今日の景色のようであり、
 今日良いこととされていることは、明日もまた良いことであるはずだ。
          ※ 「アダルト・チルドレンと家族」より 斉藤 学 学陽文庫1998年刊
 
日常性の連続
 今日一日が無事であったように、おそらく明日も似たような日が訪れるだろう。
 昨日・今日・明日と連続した日常の中で、私たちは年を取っていく。
 今日、無事に生きられたから、予測のつかない明日であるけれど、
 おそらくは今日とさほど違わない明日を迎えることを予測する。
 だから私たちは安心して今日を生きられるし、明日を迎えることができる。
 だが、ときとして、
 事故や自然災害、脳梗塞やくも膜下出血などに遭遇し、
 日常の連続性が遮断されてしまう時があります。

 「予測のつかない出来事」が起きた時、
 私たちの思考は混乱し、
 行動そのものも活動を停止してしまうこともあります。
 いわゆる「茫然自失」という状況に置かれてしまうと、
 何をしていいかわからなくなってしまう。
 表現を変えれば、何もできなくなってしまう。

 つまり、今日が明日へとつながっていかなくなってしまう。
 「トラウマ」という現象が起こってきます。
 現実に起こったことを理解できない、あるいは認めようとしない。
 自分に降りかかった非日常のできごとから立ち直ることができず、
 PTSD(心的外傷後ストレス障害)となって、
 心に傷を負ったまま回復するには長い時間が必要とされます。


人間は負けない

 東日本大災害では、地震と津波に加えて、原発事故による目に見えない不安に、
 多くの人が襲われ、故郷 を追われました。
 そして、6年半が過ぎました。故郷に戻った人、故郷を捨てた人。
 生きる糧を新しい土地に築こうと努力している人。
 今もどうしていいか選択肢を見つけられないで、
 あの日の災難から立ち直ることができない人。
 百人いれば百様に手段も考え方も違うけれど、
 確実にいえることは、
 人間はどんな災難に出逢っても立ち直る力を持っているということだ。
 ヘミングウェイの小説「老人と海」の主人公のように、
 捕らえた獲物に襲いかかる鮫の群れに戦いを挑み、
 「人間は負けるようにはできていない」と自分を奮い立たせる勇気が人間にはあります。
 だから、永い永い時間をかけて人間は生物の頂点に立つことができたのだ。

 人と人とのつながりや、共通する支え合う力が、明日を作ろうとする力になる。
 その時、試練の時を乗り越えて、
 人間は新たな明日を築くスタートラインに立つことができるのだ。
           
                    (2017.9.14記)        (ことの葉散歩道№35)
(メモ書き№26)
               






 

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老いるということ

2017-05-14 12:40:48 | ことの葉散歩道

老いるということ
     (ことの葉散歩道№34)

「年をとっていいことはあるかい」
「細かいことを気にしなくなる」
「じゃあ最悪なことは」
「若い頃のことをおぼえていることだ」

   デビット・リンチ監督 
       「ストレイト・ストーリー」より

 いいこと言うね。
おそらく若い時のことを全部忘れてしまったら、
記憶力の衰えも、
肉体の衰えも意識せずに、
「今が最高!!」なんて言いながら、
豊かな老いを生きることができるのかもしれない。

 しかし、よく考えてみるとそれでも人生味気ないかな。
やっぱり山あり谷あり喜怒哀楽があって人生に味が出てくるのでしょう。
人間は、記憶があってそれを追体験することにより学習し、
より豊かな人生を歩むことができる。
記憶がトラウマとなり、苦しい立場に立たされる時もある。

 認知症が哀しいのは、
遠い過去のことは覚えていても、
直近の現実を忘れてしまうからだ。
だから自分を忘れ、
夫の事を忘れてしまう。


 ひどい腰痛を患う頑固な老人の言葉は、豪快で気持ちがいい。
老いなど吹き飛ばすほどの力強さを感じさせられる。

「細かいことを気にせず」に、
「若い頃のこと」は懐かしい思い出とし、
人生の肥やしとして保持していければ、
人生捨てたものではないですね。

 映画のあらすじ

  1994年にNYタイムズに掲載された実話を基に、「エレファントマン」のデヴィッド・リンチ監督がユーモアとペーソス溢れるタッチで描いた映画。
 アルヴィン・ストレイトは娘のローズと暮らす73歳の老人。
腰が悪く、家で倒れても人の力を借りなければ立ち上がることもままならない。
長年会っていなかった兄が倒れたという知らせが届く。
兄が住む家までの距離は350マイル(約560km)。
アルヴィンは時速8㌔のトラクターに乗り一人で無謀とも思える旅に出た。
出会う人々は彼を奇妙に思いながらも、
ある者は助けを惜しまず、
ある者は示唆に富んだ老人の言葉を得る。ロード・ムービー。

 冒頭に紹介した会話文は、
 老人が妊娠5か月の家出少女との出会いの中で交わされる会話。
 実は、この映画私は未見のため、映画案内で調べてみました。
 是非見たい映画の一つになりました。
 作家・北方謙三氏がインタビューの中で、「感動した会話」として紹介していました。

 ブログ「ポケットに映画を入れて」のyasutuさん、見ていたら映画の感想聴けたら嬉しいです。
 

 

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どうにもならないこと

2017-05-05 17:30:18 | ことの葉散歩道

どうにもならないこと
                     
 (ことの葉散歩道 33)

 

 

 

 人生には、
自分の努力ではどうにもならない過酷なことがある

                                             友がみな我よりえらく見える日は 
                                                     上原隆著より 

 

 このルポルタージュに登場する人物は、人生の道を踏み外してしまった人々だ。
酔ってアパートの5階から墜落し、失明し生きる意欲を亡くしてしまった47歳の男。
自分の容貌に極端な劣等感を持ち、世間から隠れるようにしか生きられない46歳の女。
ホームレスに身を落とし、日銭を稼いでその日その日を凌ぐ生活も悪くはないと思う元サラリーマンの初老の男。
客に身の上話をするタクシーの女運転手。
女優に慣れなかった女。

 自分にとって不本意な人生がさまざまな形で描かれている。

 順風満帆とまでいかなくても、そこそこの人生を歩み、人並みの小さな幸せは手に入れたいと人は思う。
幸せを望まない人はいない。
しかし、予想もしなかったような陥穽に落ちて、身動きが取れなくなってしまう人たちも多い。
希望を失い、生きていくことにも疲れてしまう。
自分を取りまく人の一人ひとりが、自分よりはましな生き方をしていると思い込んでしまう。
劣等感は、自分を取りまく家族や友人や知人との間に壁を作り、やがて交流を断ち切ってしまう。
待っているのは孤独地獄だ。

 あの時、意地を張らなかったら…。
     友人の言うことを聞いていたら…。
     事業に失敗しなかったら…。
     交通事故に遭わなかったら…。
     病気にならなかったら……。

 

 過去を思い起こし、……したら、……だったら、と思うこと自体無意味なことのように思える。

 失敗や挫折を望む人はいない。
だが、人間の持って生まれた性格や気質は百人百様。
精一杯努力し頑張ったと自分が思っても、他者から見れば、努力が足りない、
踏ん張りがきかないという評価だってされてしまう。

器用に生きられる人もいれば、不器用にしか生きられない人だっている。

 

一度きりの人生を失意と喪失が占めてしまっては、とても辛い。

せめて、
他者との比較の中の自分ではなく、
自分にできる努力や頑張りで、
自分流の生き方を選択していくしかないのだろう。

 過酷な現実に立ち向かう気力も必要だが、
置かれた状況の中で、
意地を張らずに自分が生きられる場所を探すように努力するのも人生だ。
                              (2017.5.4記)


  

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