希望 ことの葉散歩道 (№22)
この記事は2016.01.05に掲載したものですが、前回(2017.10.30)の「人生の最期」に関連した内容なので、加筆して再掲しました。
「何がしたかったの」と問い掛けられれば、
自分の歩んできた人生を否定されたような気がします。
辛くなります。
車椅子の生活でも、
後遺症で思うように体を動かせなくても、
その時々に応じて、「したいこと」はあるはずだ。
そういう気持ちを理解し、サポートしていただけたら、
人生は豊かになります。
光が見えてきます。
どんな格差社会に生きようとも、「土に還ってしまえば」すべては、
無常の時間の流れにゆだねることになります。
だからこそ、
多くの人は理想の「人生の最期」を求めるのでしょうね。
(2017.11.04記)
「何がしたいの」って聞かれて、
うれしいと泣く女性がいた。
※ 「それでも やっぱり がんばらない」より
鎌田 實著 集英社
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前途に明かりが見えないような辛い目にあっても、人は希望を捨てない。
どんな些細なことでも、「希望」が生きる支えになり、自分自身の力となってくる。
例えば、車椅子から降りて自分の足で歩きたい。
スプーンではなく箸でご飯を食べたい。
お粥ではなく 白いご飯を食べたい。
まずは生理的欲求を満たしたい。
次に、外的欲求を満たすことに気持ちが動く。
歩きたい、車椅子でもいいから外に出て新鮮な空気を吸いたい。
末期の癌に侵され、たどり着いた病院で「何がしたいの」と聞かれ、うれしいと彼女は泣いたという。
おそらくは余命宣告をされ、気持ちの整理のつかぬまま、
ベッドに横たわる彼女には、なんと優しい励ましの言葉に聞こえたことか。
支えられた人たちに「最期のお別れ」くらいはきちんと伝えたい。
お迎えが来るまでは、笑顔で暮らしたい。
ささやかな願いがやがて生きる希望に繋がってくる。
たった一度の人生なのだから、最期の時ぐらいは穏やかに静かに心許した人に看取られたい。
万人が思う終末期の願いである。
著者の鎌田實はさらに次のように文章を締めくくる。
関東のある町から諏訪中央病院の緩和ケア病棟にやって来た初日、問診で聞かれた言葉。以前の病院で、彼女は「何がしたかったの」と過去形で聞かれた。治らないがんがあったとしても、私は、今、生きているんですって怒った。そうだ、生きている限り、したいことがあるはずなんだ。
出典:「それでも やっぱりがんらない」
集英社 単行本 2005.5刊行
文庫本 2008.2刊行
(2016.01.05記) 再掲