雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

児童虐待・被害者が加害者になる

2016-11-04 18:00:00 | ことの葉散歩道

幼児虐待・被害者が加害者になる
                     (ことの葉散歩道 №32)

  子どもに暴力を振るう親に出会ってしまった子どもには、さまざまな問題が生じてきますが、そのひとつが攻撃性の問題です。親の攻撃性に直面しながら育った子どもは、「不安と怒りを調節する能力」の発達が悪くなりますから、当然攻撃的になります。これが「犠牲者が加害者になる道」といわれるものです。
  ※ アダルト・チルドレンと家族 斎藤 学著

欲しいおもちゃは、力ずくで奪う。
まるで、奪うことだけが目的のように、無理やり奪ったおもちゃはすぐに放り出してしまう。
力ずくで解決の糸口を見つけようとする。

 暴力にさらされた幼児は、なかなか信頼関係を築くことができない。
本来最も信頼でき、優しいはずの親に虐待を受けた子供は、
正常な人間関係を築くことができなくなってしまう。
親だけでなく、自分を取り巻く人間すべてに不安や不信感を持ってしまう。

やがてこの不安や不信感は、暴力性へと発展していく。
泣く、暴れる。
なかなか児童指導員や心理士に心を開かない。
あるいは、部屋にこもる、プレイルームの片隅で一人で遊ぶ姿をしばしば見かける。
人と接することそのものに不安を感じているのかもしれない。
自分の世界を作り、そこが一番安全な世界と思うのかもしれない。

攻撃することが、自分の感情表現の一つになってしまう。

の攻撃性は、他者に向かうとは限らず、自分自身に向かう場合もある。

女性の場合、リストカットなどの自傷行為や拒食症、過食症などで自分自身を痛めつけてしまう。
この繰り返しがストレスの原因になり、うつ病を発症し自殺行為にも発展しかねない。

一方男性の場合は他者への暴力行為に発展する。
成人し結婚してできた子供に再び、自分が幼児に体験したような暴力行為をしてしまう。

暴力の連環現象が起きてしまう。

児童虐待に走る親たちの多くが自分の児童期に親から虐待されていた子どもであったことが報告されており、
「被害者が加害者になる」ケースです。

虐待児童に救いの手を差し伸べることはできても、
親をケアすることはなかなか難しいようです。
だから親子分離して、子どもを施設で保護するケースが多いのです。

 親子関係の改善が最善の「ケア」なのです。
 親子が一緒に暮らし、その中から改善の糸口を見つけていく。
 そんな施設があればいいのですが、
 この方法だと人手も、お金も沢山必要になり、
 実現が難しい。

 憲法で第25条で保障されている、最低限の生活とは、
 親子が安心して一緒に生活できる環境を保証するということではないだろうか。

 
                     (2016.11.5記)

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料理 Kの妻が遺したレシピ

2016-08-03 12:27:34 | ことの葉散歩道

料理
       ことの葉散歩道№31

一回目はレシピを見ながら作る。
二回目はわからないところだけ見て作る。
三回目はできるだけレシピを見ないで作る。
四回目は記憶のままに好きなように作る。
 それでその料理はその人のものになる。
※ 朝日新聞小説「春に散る」沢村耕太郎著

 

 

 


 

 Kが妻を亡くしてから3年がたった。
末期の癌が発見され余命3カ月と診断された。
梅雨空の雨を眺めながら
「晴れるといいね。そしたらKさん私を海に連れて行って」。
 細く弱々しい手のひらでKの手を握りしめてKの妻は言った。

 二人の生まれ育った湘南の海が見たいとKの妻はささやいたという。
どんな事情があったのかは知らないが、
人口5万人ほどの小さなこの町に流れて来た二人。

 飲んだくれで、
 意志の弱い、
 それでいてめっぽうお人好しのKに惚れたのだとKの妻は、
 はにかむ様な微笑みを浮かべて言った。

 願いをかなえる前に逝ってしまった妻を前にしてKは号泣した。
二人でやっていた小料理屋をたたみ、
Kは昔の飲んだくれになってしまった。

 3年が過ぎ、Kは立ち直った。
飲んだくれで堕ちていくにはKは年を取りすぎていた。

 ある日、
彼ら二人を支えた常連たちを集め、
長年支えてくれた皆さんにお礼かたがた、
妻の供養をしたいという。

 提供された料理の全てが、
妻が残した料理のレシピを見ながら彼が作ったのだと言う。
目の前に並べられた料理の品々は確かに、
Kの妻が元気だったときにメニューに載せられたものだった。

  だが口に運ぶと微妙に味が違う。
見た目は同じでも、
Kの妻が作った品とは味が違う。
舌に馴染まない。
口に放り込むと、
舌の上をじんわりと広がって行く何とも言えない満足感がないのだ。

  舌鼓を打つという感覚がないから、
酒も舌の上に広がらないでストンと喉を通り越してしまう。

 おそらくこの違いは、
Kがレシピにとらわれ、
自分の味を出せなかったということなのだ。

 冒頭の「一回目はレシピを見ながら作る」の域をKはそのまま踏襲したにすぎなかったのだ。

 Kの妻の思い出と匂いの残るこの店をそっと抜け出し、
私はKが本物の料理人になるまでこの場所に通い続けることになるだろうと思った。

 それが、亡くなったKの妻への供養にもなると、
私は思いながら路地を抜け、長い坂道をゆっくり上った。
                    (2016.08.03記)

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蝉 ボクの子どもの頃は

2016-08-01 20:22:27 | ことの葉散歩道


蝉 ボクの子どもの頃は
              (ことの葉散歩道№30)

 蝉は地上に出て7日で死んでしまうというけれどあの小さな体には7日分の声しか入ってなくて、その声を出しつくしてしまった時死んでしまうんじゃないか

 ※ 世界地図の下書き 朝井リョウ著 集英社

両親を交通事故で突然に失い、
叔母夫婦に世話になるが虐待に遭い児童養護施設で暮らす。
施設に入ったばかりの太輔には勝手がわからなくて不便なことが多い。
小学生の太輔がぼんやり考える場面だ。太輔の寂しさが伝わってくるような描写だ。


 「蝉しぐれ」は、夏の暑さを際立たせる季節の声だ。

 同時に、
真っ黒に日焼けして、
皮がむけるまで戸外で遊んだ夏休みの思い出に繋がってくる。
剥離する皮を指でつまみあげると、実に簡単に皮がむける。
最近の子どもたちには日焼けして皮がむけるなどということはないようだが、
私たちの時代には、熱中症という言葉もなかったし、
肌が焼けてどれだけ皮がむけるかを自慢しながら、競ったものだ。

 夏の終わりは、
夏休みの終わりでもあり、
蜩(ひぐらし)が鳴く頃には、
遊びすぎて終わらない宿題を抱えて、
遊びすぎたことを後悔する。

 クーラーもなければ、
扇風機もない時代に、
唯一の暑さ対策は、
ウチワであおぐことだった。

 母の口癖は「朝の涼しいうちに勉強しなさい」だった。
だが、昆虫取りに熱中しているボクは、
麦わら帽子をかぶり、
麦わらで編んだムシカゴを肩から下げ、
手作りの虫取り網をもって母の目を盗み、家を飛び出す。

 プールなんてどこにもなかったから、
川で泳ぐことになる。
「泳ぐ」とは言わずに「水浴び」と言っていた。
パンツ一枚になって「水浴び」している間に、
いつの間にか泳げるようになる。

こうした遊びの中で子どもたちは、
してはいけないこと、
何が危険で何が危険でないかを身に付けていく。

 「セミは長い間土の中にいて、土から出てくると少ししか生きられないから逃がしなさい」
とお父さんが言っていた…。
若くして父を亡くした母の口癖で、
これを言うときの母の顔は、
微笑んでいて、とても優しく感じられた。

 遠い昔と変わらずに、今日もセミが鳴いている。

コメント (4)
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やさしい人 (ことの葉散歩道№29)

2016-07-02 17:00:00 | ことの葉散歩道

やさしい人
          (ことの葉散歩道№29)

いつもそうだ、はじめはいつもやさしい。やさしいのははじめだけで、いつから、叩いてくるようになるかわからない。

 どうしてこの人はこんなにやさしいんだろう。やさしい人はすぐにうらぎる。

       ※ 世界地図の下書き 朝井リョウ著

 交通事故で両親に死なれ、
伯父夫婦に引き取られたがなじめず、
児童養護施設で生活する小学生の少年の胸のうちだ。

「やさしいのも最初のうち」。

 やさしさに下心があり、
不純な動機があれば、
たちまち化けの皮が剥がれてくる。

  やさしさの効果が思うように得られなければ、
人は豹変し、
たちまちにしてその正体をあらわにする。

  昨日までの笑顔が消え、
出てくる言葉も棘を含んでくる。

 少年は自分の周りにいる大人たちの「うわべだけのやさしさ」を敏感に見抜く。
「憐憫」や「同情」に包まれた「やさしさ」がそれだ。

  「 情けを掛ければ、人は心を開き、互いに理解し合うことができる」という錯覚。

 人の感情や心はそんな単純ではない。
こちらが意図したように心を開かない。
反抗的である。
やさしさで他者に接するが、結果が出ない。
逆に相手が優しさに甘えて、どんどん依存してくる。
そのことがやがて重荷になってその人を避けるようになる。
メールの返信もしない、
手紙の返事も書かない、
電話にも出ない。

 「やさしさの豹変」だ。
なぜ急にあの人は私を避けるようになってしまったのか。
中途半端なやさしさが、
人間関係を壊してしまう。
こんなことなら、
最初から関わりを持たなければいい。

 だが人間関係は予測不可能なことが多い。
その時々で対応を考えるしかない。


 「やさしい人はすぐにうらぎる」と小学生の少年は思う。
そういう人間のいやらしい面を見てしまった少年は、ある意味で不幸である。

 相手に対していつも「誠実さ」を失わずに接することが肝要だと思われる。
「誠実さ」は人を傷つけないし、うらぎらない。 
                 (2016.7.1記)

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通じ合える相手

2016-06-15 17:00:00 | ことの葉散歩道

通じ合える相手
       ことの葉散歩道(28)

 あの頃と口に出して、何も補うことなく通じ合う相手がいるのは幸せなことだ

 ※ 朝日新聞小説 沢木耕太郎著「春に散る」278回より

 あの頃、長い間連れ添ってきた妻との生活。
貧しくても夢や希望があった。
子育てに追われていたあの頃。
故郷の山野を駆け巡った幼友達とのあの頃。
大病を患い、長い入院生活の続いたあの頃。

楽しいことも、悲しいことも、苦しいことも、「あの頃」と言えば、
説明ぬきに通じ合うことができる人がいるということは幸せなことだ。

 ボクシングの練習生として過ごしたジムの合宿所で、
チャンピオン目指して練習に明け暮れたあの頃のことを懐かしく思い出す4人の男たち。
同じ記憶を持った相手がまだいるということ。
確かに、それは、その過ぎ去った時間をいつでも取り戻すことができるということかもしれない。
と主人公の平岡は思う。

 長い年月を生きてきて、
「あの頃」と言って通じ合える人が
たくさんいる人は、幸せだ。

 何年たっても、過去の時間を共有でき、
酒を飲みながら、或いは食事をしながら「あの頃」と相手に語りかければ、
時間は一気にさかのぼり、お互いが共有した時間に立ち返ることができる。
説明ぬきに「あの頃」を再現し、はるか昔に共有した時間が立ちどころに目の前にあらわれる。

 一方、共有する「あの頃」を語るべき人がいなくても、
自分自身の記憶に語りかけ、「あの頃」を引き出すことはできる。

「あの頃」を共有した人がいなかったわけではないが、
何らかの事情があり、今は「通じ合える人」がいない。

 少しばかり、さみしい環境だが、
今は存在しない人とのかつて共有した「あの頃」を懐かしく思い出すのも人生だ。

 いずれにしろ、老いとともに、
「あの頃」を共有した「通じ合える人」が、
少しずつ失われていくのは仕方のないことだが、
これは、生きる者の定めとして受容して生きるほかないのだ。
 
                            (2016.6.15記)

 

 

 

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人生の流れ 山あり谷ありそして喜怒哀楽

2016-05-12 18:00:00 | ことの葉散歩道

人生の流れ ことの葉散歩道(27) 
    山あり谷ありそして喜怒哀楽 

 人生はいったい、何なんだろうなあ、と時々思う。人はついその時その時のできごとで、喜んだりガッカリしたりしてしまうけれど、おそらく、人それぞれの流れがあるんじゃないかと思うんだよ
        ※ 酒井雄哉著 「一日一生」より

 

 天台宗大阿闍梨・酒井雄哉は、
約7年かけて4万キロを歩く荒行「千日回峰行」を80年、87年の2度満行を成し遂げた。

 大阿闍梨と言われる所以である。

 酒井雄哉は言う。「人生は一日一生だ」と。
つまり、一つひとつの完結した輪が繋ぎ合わさって1本の鎖となるように、
人生も一日一日が完結し、次の(明日の)人生へと繋がっていく。
一本の輪が切れてしまえば、鎖は切れてしまう。

人生も連続したつながりで、続いていく。

 

 簡単に言ってしまえば、
「一日一日を悔いの無いように生きる」ということなのだろう。
凡人にはなかなかそういった覚悟ができないから、
どうしてもその日暮らしになってしまう。

悔いを残し、後悔し、悲しみ、苦しみ、煩悩から逃れることはできない。

 

 人生には、年齢にあったステージがあり、
そのステージに立って精いっぱい生きていければいいのではないかと思う。
これが酒井雄哉氏の言う「人それぞれの流れ」ということになるのでしょう。
「勉学に励む時期」、「結婚」、「家庭の維持」、「仕事」、「退職」、「年金暮らし」。

 それぞれにふさわしいライフ・ステージを誠実に生きること。
これが「一日一生」という生き方に繋がる生き方なのでしょう。

 

 「論語」では「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と説いている。
朝に人がどう生きるかを悟ることができれば、夕方には死んでしまっても悔いはない。

 生きる覚悟と潔さを説いて有名である。

 一生幸せな人もいないし、一生不幸せの人もいない。

 人生の流れ(ステージ)に立って、自分にどれだけ誠実に生きられるかが、
幸不幸の分かれ道なのかもしれない。 
 
                (2016.5.12記)

 

 

 

 

 

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哀しくも優しい物語

2016-03-28 21:28:31 | ことの葉散歩道

 哀しくも優しい物語
                ことの葉散歩道№26

 雁風呂 (雁供養)

       ※ 伝承 伝説

 津軽半島の東側、
陸奥湾に沿って海岸線を南北に伸びる道路がある。
280号線・松前街道だ。
陸奥湾に沿って走る松前街道付近は今でも辺鄙なところだ。
蟹田川が流れ込む辺りを外ヶ浜という。
この海岸沿いの外ヶ浜地方に哀しい物語が伝えられている。


 青森県津軽の外ヶ浜地方に秋になると渡り鳥の「雁」が飛んできます。
丁度、秋分の日、早めの秋がこの地方を訪れるころ
北の国から海を早めの秋がこの地方を訪れる頃
北の国から海を渡って「雁」が飛んで来ます。
彼らは長い海上の旅を、
疲れた羽を休めるために木片を咥えて飛行します。
たゆたう波の上に木片を浮かべてひと時の休憩をする。
命を賭けた旅なのだ。
そして、海岸に着くと木片を落としていきます。

 次の年の春が訪れるころ、
丁度、春彼岸の春分の日のころ、
彼らは生まれ故郷の北の国に帰っていきます。
鳥たちの北帰行の始まりです。

 その時彼らは咥えてきた木片を再び咥えて飛び立ちます。

 彼らが飛び立った後、
例年のことながらいくつかの木片が残されています。
日本にいる間に、捕らえられたり、病気になったりして、
死んでしまって帰れなくなってしまった雁の数だけ、
木片が残されていると考えられています。

 外ヶ浜地方の人々は、
残された木片を集めて、
命を落とした雁を哀れんで、
風呂を焚き入浴しながら失われた雁の命を愛おしむ。
雁風呂と言ういわれだ。
雁供養ともいう。

外ヶ浜に住む人々の優しい心遣いが伝わる伝承だ。

 だが、雁の渡航には、こうした習性はないということです。

雁風呂や海あるる日はたかぬなり  高浜虚子

雁風呂やほの暮れ方を浪さはぐ   豊長(とよなが)みのる

 エネルギー革命は、
石油、電気と進化し、
風呂の水くみも、薪をくべて風呂を焚くこともなくなり、
スイッチ一つで事足りるようになった。
「雁風呂」の話を聞くと、失われてしまった風習が懐かしく思い出されます。
                              (2016.3.28記)

コメント (2)
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それぞれの人生から生まれた言葉(2)

2016-03-12 08:00:00 | ことの葉散歩道

それぞれの人生から生まれた言葉(2)          ことの葉散歩道№25

若きもの名もなき者 ただひたすら駆けのぼる ここに青春ありき 人よんで無銘坂

※ 仲代達也の「無名塾」

 青春 生きてるあかし

 坂はしばしば人生にたとえて、表現される。

「苦労坂」「なみだ坂」「別れ坂」等々、又実在する坂にもいい名前の付いた坂がある。

「暗闇坂、柘榴坂(東京)」、「あかり坂(金沢)」、「月見坂(中尊寺境内)」「ささやき坂、ゆうれい坂、忍び坂(長崎)」等。

 俳優の主宰仲代達矢さんの稽古場・無名塾に掲げられた額には直筆の

「若きもの名もなき者……」が掛けられている。

 東大に入学するよりも難しいと言われる「無名塾」の坂を上り、

若き俳優の卵たちが、真剣勝負の俳優修業を繰り広げる。

 明日の俳優を夢見る卵たちを静かに見守る40年の歴史が、

俳優業を続ける限り人生そのものが修行だと語りかける。

青春が火花を散らし、燃えている無銘坂である。

人が作ったものはいつか必ず、ぼっ壊れんだ、自然の力にかなうわけねえんだって、おやじが言ってた通りになったんだから。して、5年もたって、まだだれも責任とってねえんだから

          ※ 農業 樽川和也

東京電力福島第一原発事故から約2週間後の朝、父久志さんは自ら命を絶った。

その日は、国から野菜の出荷停止の連絡が届いた翌朝だった。

遺書はない。

土を慈しみ、撫でるように土を作り、誰にも負けないと自負できる自慢の野菜を作ってきた。

そのおやじが死んで、「8代目の俺の代で、田んぼを荒らすわけにはいがねがら続けてんだ」。

農作物への賠償は、人と人の話し合いで解決の糸口を見つけることができる。

しかし、失われたものはあまりに大きく、取り返すことができない。

汚染された農地、家族の絆、コミュニティーの崩壊は地域の過疎化に拍車をかける。

 被災者への責任ばかりではなく、

原子力発電を国策として推進し、「安全神話」を作り上げた責任を

国や電力会社はうやむやにしてしまうのか。

 

「5年もたって、まだだれも責任を取ってねえ」と、楢川和也は叫ぶ。

       (2016.03.09記)

 

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それぞれの人生から生まれた言葉

2016-03-10 08:00:00 | ことの葉散歩道

それぞれの人生から生まれた言葉

ことの葉散歩道№24

(片隅に一輪咲くすみれが)どんなやまのなかでも、たにまでも、ちからいっぱいにさきつづけて、それから わたし かれたいの。それだけがわたしのいきているつとめです。

       ※ 北条民雄著 童話「すみれ」より

 命のかがやき

 小説家・北条民雄は、ハンセン病となり、当時の国の政策で隔離生活を余儀なくされた。

「いのちの初夜」は文学界賞を受賞。

1934(昭和12)年、23歳で早逝する。

 一輪のすみれに托して、人生を前向きに一生懸命生きる姿が感動的です。

命の儚さを知り、だからこそ一生懸命生きて、終わりたい。

それだけが私が生きている務めなのだと、

欲もなく、命への未練も持たず、ひたすら生きつづけたいと

隔離施設の高い壁の中で民雄は命の灯を燃やし続けたのだろう。

親や兄弟たちからも絶縁され、

ともすれば希望を失いそうな環境の中で、

北条は、命を見つめ、まっすぐに生きようとした。

 

野球はピンチになれば代打やリリーフがあるけど、人生にはそれがない。

           ※ 桑田真澄

 ピンチは自分で乗り越える

 元プロ野球の清原和博容疑者が覚せい剤で逮捕され、

旧友の桑田真澄が求められて言った。

さらに桑田は、「彼はそれがわかっていると思う」と続ける。

つまり、桑田が言いたかったのは、

人生に代打はないぞ、自分で歩いていく以外に解決の道は開けないのだと。

野球人生を共に歩いてきた、桑田にして言える励ましの一言だ。

名声におぼれ、こんなわけではなかったと振り返る自分自身の後ろ姿に、

清原は愕然とする。

栄光のざわめきも、スポットライトに映し出された輝かしい未来もない。

 清原よ!!

覚醒剤の呪縛から逃れるためには、

一生かけての辛い戦いが待っているのだ。

それを克服した時、

桑田の言葉がどんなに真実を語り、

温かさに満ちていたかを知るだろう。

    (それぞれの言葉は、朝日新聞天声人語2016.02.29より引用。)

                                                            (2016.03.08記)

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幸せの指標 ことのは散歩道(№23)

2016-02-04 10:30:00 | ことの葉散歩道

ことの葉散歩道 (23)

幸せの指標

明日やることがある人が

一番幸せ

 ※ 落語家 三遊亭好楽

 次のように言葉は続く。 

「喫茶店に行くと、たまにモーニングコーヒーを昼までかけて飲んでいるお年寄りがいますよ。

急いで飲んだってやることがないんでしょうね、時々ぼーっと天井見たりなんかして。

それに比べたら、借金返さなきゃなんないし、晩の買い物もあるし、もう何だか忙しくって、

なんて言ってる人の方がよっぽと幸せですよ」と。

 

 数年前のバラエティー番組「所さんのダーツの旅」で、

日向ぼっこしている老人に「何をなさっているんですか?」と問いかけた。

「することなんかなぁーんにもねえさ、ただ死ぬの待っているだけだ」と。

老人の言葉は明快だ。

ここには負のイメージが全く感じられない。

老いていく自分と、年々社会的役割から遠ざかっている老人の姿が見える。

だが老人はそんな自分の姿を笑い飛ばしている。

生きることの意味と老いていくことの意味を理解した老人の言葉には、

「明日もまた天気が良ければ、日向ぼっこをして一日を過ごすさ」。

これが俺に許された仕事だと老人は言いたかったのだろう。

 

 朝目が覚めて、「さて長い長い今日一日をどうして過ごそうか」と思うのは、少しばかり寂しい生き方だ。

挙句の果てに「早くお迎えが来てくれないかな」思う自分がいることに気づき愕然とする。

幸せの意味は人それぞれに異なるだろう。

お金が欲しい、名誉や地位も欲しい。

家族にも恵まれたい。

病気で苦しんだ人は健康であることを、「幸せ」と感じる人もいるのでしょう。

「平凡に暮らせること」を幸せと感じる人も多い。

平凡に感謝し、明日も今日と同じような日が訪れることを願う人は多い。

だが、平凡を支える一人一人の努力がなければ、

健康も、家族のだんらんも縁のないものとして遠ざかってしまう。

 

 「今日できることは、今日やる」という生き方があって、

「明日もまた昨日に続く日」を迎えることができれば、人生は粋に感じることができる。

その上で「明日できることは、今日やらない」という生き方を実践できれば、

心豊かに生きることができる。

(2016.2.3記)

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