雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

どこかで生きている ことの葉散歩道(15)

2015-11-11 15:21:01 | ことの葉散歩道

どこかで生きている (ことの葉散歩道15)

 もしかしたら、死ぬことは終わりではなく、

ほんのちょっと姿が変わっただけで、

どこか別の世界にいるのかもしれない。

 「チェリノブイリの祈り」より 岩波現代文庫

スベトナーラ・アレグシェービッチ著

 本書はチェリノブイリ原発事故から10年を経過した、1996年頃から3年を費やして事故の被害者からインタビューで採取した記録文学です。引用文は、「事故処理作業者の妻の告白」から。

 

 強制退去させられ無人となった村々の電気を切って歩く作業に従事した彼は、

閉鎖された村々を、電柱に登り、家の屋根に上り作業を続けた。

防御服の支給もなく、放射能の知識もなく、もちろん線量計もなかった。

国の無責任が多くの村を無人にし、土で埋められ消滅した村、永久に人間が立ち入れないほどの高線量の放射能。

多くの人が死んだ。彼も死んだ。

 

 死は一つの物体となり、放置すればやがて腐乱していく。

「死」が土に還る。

誰にも訪れる自然の摂理だ。

だが、愛する者を奪い取られた者にとって、「死」は忘れがたい。

楽しかった日々や、愛した者たちとの思い出に包まれ、時間が止まり、

愛しい人の死を容易に受け入れることができない。

 やがて、少しずつ時が悲しみを癒し、喪うことの悲しみから、

居なくなってしまった人との「共生」という感情に変化していく。

 

 人の死は、肉体の終わりであるが、妻との関係が終わったわけではない。

ほんのちょっと姿が変わっただけで、どこか別の世界にいるのかもしれない。

故人の妻は、このように思うことで、故人と共に生きていく術を身に付けていく。

 

 愛しい人を失くし、心に深い傷を残すが、

人間はやがて、死の悲しみを乗り越えて立ち直り、歩いていくことができる。

 

その時、おだやかで静かな人生が開けてくる。

 

 夜明け、私はベッドの上で東の山から登る朝日を眺め、

14歳で逝ってしまった孫の翔太郎のことを思う。

この一瞬に私は孫と話をすることができ、愛しい者の声を聞くことができる。

(2015.11.10記)

 

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最後のお別れ・ご冥福を祈る

2015-11-03 23:25:57 | ことの葉散歩道

最後のお別れ・ご冥福を祈る  ことの葉散歩道(14)

 

 死後の硬直が消えて筋肉がゆるみ、おだやかな顔になってかすかに笑っているようだとさえ言うが、それはあくまでも意志のない死顔で、死のやすらぎの中に静かに置かせてやるべきではないのか。

 「死顔」吉村昭著 短編集所収「二人」より

  高齢の兄の葬儀に参列し、読経が終わると最後のお別れである。

棺のふたが開けられ、嗚咽や忍び泣きの中、親族たちが次々に棺の中の死者に花を添える。

旅たちに備え、遺体を花で覆いつくす。

遺族にとっては新たな悲しみが湧いてくる時でもある。

 

 「お別れを……」葬儀社の若い男が近寄ってきて、私たちをうながした。私は、無言でうなずいたままその場を動かず、妻も私のかたわらに立っていた。

 そうしながら、作中の私は冒頭のようなことを密かに思い、斎場に妻と二人立ちつくすのである。

 

 葬儀場で式を行うようになってから久しいが、

いつごろからこんな習慣ができたのか。

出棺に際し棺のふたを取り、遺体に花を添える。

遺族にとっては、新たに悲しみがこみあげ、辛いひとときである。

しかも、参列者が大勢いるなかでの儀式である。

できれば人前で涙を見せたくない場面だ。

 

 

 遺族にとって悲しみがこみあげて来る場面が三度ある。

通夜に臨み湯かんをし、故人を棺に納める「納棺」のとき、

出棺前に故人に「花を添える」とき、

最後に窯のふたが開き棺が暗くあいた穴の中に入っていく瞬間。

 

 

死のやすらぎの中に静かに置かせてやるべきではないのか。

 

 

 最近の葬儀では、「皆さんもお花をどうぞ」と一般参列者にも呼びかけることが一般的だ。

声がかかれば席を立ち、ぞろぞろと棺に向かい、故人に花を手向ける。

 

 

 私は物言わぬ個人の顔を拝むのが嫌で、

親族の葬儀以外で花を手向けたことはない。

故人と遺族との最後のお別れを一般席から静かに見守り、ご冥福を祈りたい。                

 

                               (2015.11.03記)

 

 

 

 

 

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正直の反対は? ことの葉散歩道(13)

2015-10-07 17:00:00 | ことの葉散歩道

ことの葉散歩道(13)

正直の反対は?

「正直の反対は嘘をつくことではありません」

  朝日新聞朝刊に連載中の小説

「春に散る」沢木耕太郎著より 

  ボクシングジムへの入門面接のやり取り。

「君は、正直がいいことだと思っていますか」という問いかけについて入門希望者が答える。

「ええ、嘘をつくよりいいと思います」。

これに対して、冒頭の「正直の反対は嘘をつくことではありませんよ」という言葉に繋がってくる。

さらに、面接者の真田(どうやら、ジムのオーナーらしい)は続ける。

 「話と言うのは、省略することができるんです。

省略することは、嘘をつくことではありません。すべてを話すのではなく、必要なことを話せばいいんです」

「相手が聞きたいことは何なのか。大切なのはそれを考えて話すことです」

 相手が何を希望しているのか。

どう答えたらいいのか。

これを見極めるのが大切だ。

その上で、省略すべき点は省略し、要点のみを簡潔に述べることが肝要だ。

とくに、就職試験の面接のように短い限られた時間で自己表現しなければならない時には大切な心構えだ。

しかし、自己表現を前面に押し出しすぎて、我欲が出てしまうと、マイナスとなるから注意が必要だ。

 

 自分を飾ることなく、自己表現することはなかなか難しい。

良く見せたい、良い印象を与えたいなどと、どうしても地の自分に甘いオブラートを掛けてしまいがちである。

そうした傾向は、多少の差こそあれ、誰にでもある傾向だからそれ程悪い事ではない。

ただし、ほどほどにしないと鼻に付いてきて、化けの皮が剥がれ、信用を失うことになる。

 

 同じように、手紙や報告書を書く時も、

「相手が何を要求しているのか、要点は何処にあるのか」をよく理解し、把握することで手紙や報告書の良し悪しが決まってくる。

一番大切なことは、自分が何を言いたいのかをしっかりとらえることである。

その上で、言いたいことの八割を述べることが大切。 

 

 抑制のきいた手紙や文章は、無駄がなく、読後の余韻が心に残る。     (2015.10.6記)

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延命治療の疑問

2015-09-27 08:00:00 | ことの葉散歩道

延命治療の疑問   ことの葉散歩道(12)

延命は誰のために

終末状態になっても次から次へと薬剤が投入されている父を見ているうちに、「もう父にとって医療はいらないのではないか」という考えが突然、わき起こってきた。

※ 「看取りの作法」香山リカ著 祥伝社新書

 著者の父が昏睡状態に落ちり、著者をはじめ母も弟も父の最期が近いことを覚悟した。

おそらくまもなく、敗血症性ショックと呼ばれる状態になり、血圧が低下して……という死の経過をたどることになるのだろう。

 医師である著者は冷静に父の最期を看取ろうとする。父親は、家に帰り、生活の匂いやテレビの声や孫の走り回る声などを聴きながら、「最期」を迎えることができ、心穏やかに臨終を迎えられたのではないかと、著者は記している。

 心電図計が接続され規則的な機械音が聞こえる。人工呼吸器はとても苦しそうです。点滴のチューブが何本も繋がれ、昏睡状態に陥った「最期の時を迎えた人」にとつては、とても残酷で、これが人間の「最期」なのかと思うととてもやりきれない。

 回復の見込みもなく、ただ「最期の時」を待つだけだったら、もっと穏やかな「最期」があってもいいような気がする。

 しかし、医学的な知識もなく、患者に対して医療的ケアを何もできない私たちにとっては、老衰死以外は在宅で「最期」の看取りをすることはできない。

 私は、在宅ケアの延長線上に“在宅死„という選択肢があってもいいのではないかと思う。

 それには現在の病院中心の医療体制を改め、ターミナルケアにも病院と在宅、どちらかの場所を選ぶ選択肢があれば、「人間らしい最期」を迎えることができるのではないか、と思う。

 最近は、「延命治療」を望まない人が増えている。

また、病院生活で疲れ、家に帰りたい、と望む患者さんも多いようである。

 クスリ漬け、機械漬けの病院中心の医療の在り方を変えていかなければ、

「尊厳ある人間の死」は望めないように思う。

(2015.9.26記)

 

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愛する人を失う

2015-09-18 11:58:44 | ことの葉散歩道

 愛する人を失う   ことの葉散歩道(11)

「俺は……あいつに救ってもらったんだ」助けてもらった、ではなく、救ってもらった、と星は言った。

 ※ 新聞小説「春に散る」沢木耕太郎著

 

朝日新聞朝刊に連載中の小説より引用。

 元ボクサーの星が、つい最近亡くなった妻の遺影を前にして、40年ぶりに訪ねてきた広岡に言う台詞だ。

落ちぶれて、輝いていた昔の痕跡は何もない。

愛する人を失った悲しみがあまりに大きく、星にとって彼女がいかに大きな存在だったか想像できる。

 

 狭いアパートの一室。

まだ設(しつら)えたばかりの形ばかりの祭壇に彼女の位牌と遺影が飾られ、

その状況が愛するものを亡くした星の失意の胸中を十分推察できる。

そして、星の述懐は続く。

「あいつと出会わなかったら、俺は今頃どうなっていたかわからない」

作者はこうした星の状況を次のように述べる。

 

 ある意味でそう言える女性に出会えた星は幸せだったのだろう。

だが同時に、その幸せは失うことでさらに深い悲しみを生むものでもあったのだ。

こんなことになるのだったら、出会わなかったほうが良かった。

悲しみが深い分だけ、思い出も深く、「どうして」「なぜ」と自問自答する星の姿が目に浮かぶ。

失う悲しみを味わわないためには、最初から関わりを持たなければいい。だが、果たして、それでいいのだろうか。よかったのだろうか……。星を訪ねてきた広岡が心の内で考える場面だ。

 

 ボクシングから遠のき、生活が乱れ、女から女へ渡り歩くような自堕落な生活を続ける星は、

彼女に救われ、中年を過ぎて初めて優しさに触れ、生きる糧を見つけることができた。

 

 過ぎた過去は取り戻すことも、修正することもできない。

失ったものの大きさを思い、途方に暮れる星だが、

「救われた女」に報いるためには、辛い現実を克服し、現実を修正していく以外に道はない。

星が立ち直るための辛い道ではあるが、

彼女が最後に残した試練だと思う気力があれば、

星は必ずこの現実を克服することができる。

 

 星よ、輝いていた青春を思い起こせ!!

 

(2015.9.18記)

  

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自分を追い込む

2015-09-13 15:30:00 | ことの葉散歩道

ことの葉散歩道(10)    (2015.9.13)

繊細な心

 自分をどれほど追い込んでもよい。しかし、他人を追い込んではならない。

※ 連載小説 「春に散る」沢木耕太郎著

 朝日新聞朝刊に連載中の小説(9月8日付)から引用。

ボクシングジムで将来を嘱望された広岡が、チャンピオンを夢見た仲間たちを40年後に訪ね歩く場面。

ジムの会長が練習生たちに言っていた言葉を広岡は思い出す。さらに、記述は次のように続く。

「それが共同生活をしていく上での鉄則だ。深追いはするな。他人を深追いしていいのはリングの上だけだ」

 苦しい立場に追い込まれるほど、越えなければならない壁が厚いほど、

それを跳ね返し、再び立ち上がる強靭なバネ持った人がいる。

じっと耐えながら起死回生の立ち上がる時をうかがう。

それはまさに、リングの上で戦い、コーナーに追い詰められ、

ダウンを奪われそれでも立ち上がり対戦者に向かっていく強い意志を持った人だ。

 

 だが、こういう強さを他人に求めてはいけない。

にはそれぞれ両親から受け継いだDNAがあり、育った環境がある。

(くじ)けやすい人がいても「ダメ」な人と評価することはやめたい

 

 自分の生き方を他人に押し付けてはいけない。

人それぞれに、生きたいように生きればいいのだから。

 

 自分流の生き方を自信を持って貫いて生きればいい。

だから、他人の人生に深く入り込んではいけないのだ。

深追いはやがてお互いの人間関係にひずみを生じさせる原因になる。

 

 「他人の人生にどこまで介入すればいいのか」とても難しい課題なのだが、

 当事者同士にはこの介入の度合いが見えなくなってしまうときがある。

 

私たちの日常生活は、リングの上の戦いとは異なり、

優しさと柔軟性を持っていなければ、豊かな人生を築いていくことはできない。

他者の生き方を認めることが、ひるがえって自分の人生を容認してもらうことになるのだ。

 人それぞれの生き方を認める繊細な心があれば、人生はもっと彩り豊かに楽しいものになっていく。

いろいろの人がいて、その数だけいろいろの人生があることを忘れてはいけない。

 

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老いの覚悟

2015-08-15 11:30:00 | ことの葉散歩道

老いの覚悟

  老いをどのように生きたらいいのか。

つまり、どのように死んだらいいのか

    「春に散る」沢木耕太郎著 朝日新聞連載中 小説より

  連載128回目から選んだ文節なので、今後どんな展開になるのかわからないが、これまでのあらすじを紹介。

壮年を過ぎ、老いの影が忍び寄り始めたボクサー達の物語。

将来を嘱望され、誰がチャンピオンになっても不思議ではないと思われた同期のボクサーたち。    

 だが、結果は4人のボクサーの誰も栄光のベルトを手にすることはできず、ボクシング界からも消えてしまう。

彼らにとって、青春を生き、命を燃焼するほどのボクシングとは一体何だったのだろう。

最も有望だった広岡は、突然日本を離れ、アメリカへ行ってしまう。

それは、失踪ともえる突然の消え方だった。

 以来40年、突然に広岡は日本に帰ってくる。

同期の仲間を訪ねる旅が始まった。

そこに見えてきたものは、自分を含めた4人の誰もが、幸せとは言えない生活の中で、

落ちぶれた老いを無残に晒している現実だった。

このような状況の中で、広岡が独白する場面の文節を取り上げた。 次に、以下の文章が続く。

 

 それは、たとえ金があっても問題の質は変わらない。

心臓発作という突発事に見舞われなかったとしたら、

いずれ自分にもゆっくりとではあっても訪れてきた問題なのかもしれない。

 

 「老いを生きる」ということは、それ相当の、自覚と覚悟が必要なのだ。

記憶力低下、身体機能低下、やがて、社会的に得るものよりも、失うものの方が多くなってくる。

親を亡くし、伴侶を亡くし、兄弟を亡くし、友人、知人を失う。

 若い世帯と同居をしても、話題についていけない、食べ物の好みが違う。

賑やかな食卓の雰囲気も、老いた者を素通りして進んでいく。

好むと好まざるとにかかわらず、孤独の波はひしひしと老いの岸辺に押し寄せてくる。

しかし、恐れることはない。

老いの全てを認めたうえで、残された時間を自由に生きればよい。

そのための、「自覚」と「覚悟」なのだ。

             (2015.8.15記)

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嫉妬について

2015-07-04 18:00:00 | ことの葉散歩道

 嫉妬について含蓄のある言葉があるので紹介します。(朝日新聞6月27日コラム「折々の言葉」から)

 嫉妬を生むものは、自他のあいだの大きな不均衡ではなく、

むしろ近似である。「人間本性論」から (デイヴィッド・ヒューム 哲学者)

  以下、コラム執筆者・鷲田清一氏の説明文を引用。

 能力や財産に関して、途方もなく差がある人に、人は嫉妬しない。人が嫉妬する相手はむしろ、境遇が近い人、優劣や運不運など、その人との比較がいちいち気になって仕方がない人である。その意味で、嫉妬の相手は、実はもっとも気がかりな自分が写っている鏡なのである。

 「自分の写っている鏡」を見て、他人をうらやむ卑しい自分を発見し、そのことでまた相手を嫉妬してしまう。人間はある瞬間、普段は見えない自分自身の姿を見てしまったとき、そういう情けない自分に嫌悪してしまうのかもしれない。「情けない自分」が近似の他人に嫉妬するのは、嫉妬することによって、自分の「卑しい」立ち位置まで、相手を引きずりおろして無意識のうちに、自分の優位性を感じたい心の有り様なのかもしれない。これは、一種の自己防衛ですね。嘘も、言い訳も、屁理屈も、その根っこの部分で防衛本能が作用しているのかもしれません。

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老いてゆく

2015-05-26 15:46:03 | ことの葉散歩道

ことの葉散歩道(9)        (2015.5.13)

老いてゆく

            超高齢社会でみんな歳を重ねておとろえていく。

           加齢はすべての人が中途障害者になっていくようなもの。

           どんな力のあった人もいずれ老いさらばえ、

           ボケて人の世話になりながら死んでいく姿をさらす。

           …略…要介護になっても、ボケても、

           安心できる社会になればいいんです。

                       社会学者 上野千鶴子 

  朝日新聞(5月8日夕刊)「わたしの半生」の連載インタビューの中で、単純明快に歯に衣着せぬ論を展開する。

「中途障害者」なんて例えが良くないが、この人らしい表現である。

現実には年老いて、体力、知力とも徐々に減退し、人の助けなしには生きていけない状況が訪れる。

そうは理解していても、できることなら人間らしく生を全うしたいという思いは、万人が望む生き方だろう。

「要介護になっても、ボケても、安心できる社会になればいい」と、社会学者の上野氏は言う。

 

 避けては通れない老いの坂道を下っていく不安は誰にでもある。

果たして、「安心できる社会」は実現できるのだろうか。

 

 介護保険料はわずかではあるが、年々増加し、それでも自治体では資金不足で十分な介護を展開できない。

賃金の安い介護職に就く専門員も不足している。

介護施設の数も、急激な高齢化のスピードに追い付けず、入所待ちの時間は先が見えなほどど遠い。

 一般的風潮として、「介護が必要になったら施設へ」という考え方がある。

確かに在宅介護は介護者に多大の負担を強いる。

そのことがわかっているから、「施設入所」という選択肢を安易に選択してしまう。

 

 生まれて、育ち、子どもや孫がいる家で歳をとり、やがて親しい人たちに見守られて人生を全うする。

半世紀以上も前に崩壊してしまった家族の在り方だ。

経済的に満たされても、心に隙間風が吹くような社会は、「安心できる社会」ではなく、「貧しい社会」なのではないか。

豊かさの裏側で人間同士のつながりが少しずつ希薄になっていく「寂しい社会」でもある。

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膨大な時間を生きる

2015-05-14 20:00:00 | ことの葉散歩道

ことの葉散歩道(8)     

   膨大な時間を生きる

 人生はつづいていく。暦には昨日と今日と明日に線が引かれているが人生には過去と現在と未来の分け隔てはない。誰もが、たった一人で抱えきれないほど膨大な時間を抱えて、生きて、死ぬ……。

※   出典不明

 出典をメモすることを忘れてしまった。

反故にしがたい内容だ。

誰がどこで言った言葉なのか。

あるいはどんな小説のどんな場面で書かれた言葉なのか、今となっては解らない。

しかし、ずっと心の内に沈んで気になっていた。

 

 

 明治36年「人生不可解なり」という遺書を残して日光・華厳の滝から身を投げた藤村操は16歳の旧制一高生だった。遺書「厳頭ノ感」は今に伝わる。多感な少年時代を苦悩し、死ぬことによって結論を出した藤村の人生も、「たった一人で抱えきれないほど膨大な時間を抱えて、生きて、死ぬ……」ということだったのか。

 

 私たちは「過去」を切り離して、あるいは「過去」と無関係に生きていくことはできない。

「過去」はその人の生きた証であり、今を生きる自分に何らかの形で影響を与えている。

背中に張り付いた見えない「過去」に、時によっては背中を押され、或いは逃げ腰になったりしながら、現在を生きる

 

 人生道に橋があるなら、私たちは過去から現在に架かる橋を渡り、

現在を生きることによって、未来への架け橋を渡っていくことになる。

生きている限り未来へ到達することはできないし、やがて見えてくるのは終着点の「死」だ。

 

 

 何歳で人生を終わろうと、人は自分の生きた「膨大な時間」を、時の列車に乗って粛々と生きていくほかない。

悪人であろうと善人であろうと、死は等しく訪れる。

 

 

 生後10日で津波にさらわれ、3日後に遺体となって帰ってきた赤ちゃん。

仏教に「天命」という言葉があるが、遺された遺族はなかなか認めがたく、悲しい死もある。

 

 無常の風にじっと耐えなければならない時もある。生きて天命を待つ。

 

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