どこかで生きている (ことの葉散歩道15)
もしかしたら、死ぬことは終わりではなく、 ほんのちょっと姿が変わっただけで、 どこか別の世界にいるのかもしれない。 「チェリノブイリの祈り」より 岩波現代文庫 スベトナーラ・アレグシェービッチ著 |
本書はチェリノブイリ原発事故から10年を経過した、1996年頃から3年を費やして事故の被害者からインタビューで採取した記録文学です。引用文は、「事故処理作業者の妻の告白」から。
強制退去させられ無人となった村々の電気を切って歩く作業に従事した彼は、
閉鎖された村々を、電柱に登り、家の屋根に上り作業を続けた。
防御服の支給もなく、放射能の知識もなく、もちろん線量計もなかった。
国の無責任が多くの村を無人にし、土で埋められ消滅した村、永久に人間が立ち入れないほどの高線量の放射能。
多くの人が死んだ。彼も死んだ。
死は一つの物体となり、放置すればやがて腐乱していく。
「死」が土に還る。
誰にも訪れる自然の摂理だ。
だが、愛する者を奪い取られた者にとって、「死」は忘れがたい。
楽しかった日々や、愛した者たちとの思い出に包まれ、時間が止まり、
愛しい人の死を容易に受け入れることができない。
やがて、少しずつ時が悲しみを癒し、喪うことの悲しみから、
居なくなってしまった人との「共生」という感情に変化していく。
人の死は、肉体の終わりであるが、妻との関係が終わったわけではない。
ほんのちょっと姿が変わっただけで、どこか別の世界にいるのかもしれない。
故人の妻は、このように思うことで、故人と共に生きていく術を身に付けていく。
愛しい人を失くし、心に深い傷を残すが、
人間はやがて、死の悲しみを乗り越えて立ち直り、歩いていくことができる。
その時、おだやかで静かな人生が開けてくる。
夜明け、私はベッドの上で東の山から登る朝日を眺め、
14歳で逝ってしまった孫の翔太郎のことを思う。
この一瞬に私は孫と話をすることができ、愛しい者の声を聞くことができる。
(2015.11.10記)