雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

坂村真民の言葉(3) 声

2021-10-02 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(3) 声

坂村真民について (坂村真民記念館 プロフィールから抜粋)
  20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
  仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

『声』

 生きていることは
  すばらしいぞ
  そういっている
  石がある
  木がある
  川辺に立つと
  水も
  そういって
  流れていく

           〈生きていることは すばらしいぞ〉と私に語りかける。
   自然の中で黙って生きている、「石」であり「木」の声が私に語りかけてくる。
   〈生きていることは すばらしいぞ〉と。
   さらに耳をすませば、流れていく水さえも〈すばらしいぞ〉と囁きかけてくる。
   
   牧村真民(しんみん)さんに語りかけてくるのは、
   自然に宿る精霊の声なのかもしれない。
   午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活を送る
   真民さんには、森羅万象に宿っていると言われる精霊たちの、
   いのちの声が聞こえるのかもしれない。
   真民さんの言葉を反芻しながら、今を生きる真民さんがたどり着いた
   妥協を許さない孤高の精神修養のことを思った。

             そういえば、十数年前に御世話になっていた若い気功師が言っていた。
             週五日、患者さんと向き合い気功の施術を行うと、心身ともに疲労して
             くる。休診日の日には人気のない森に入り、大樹にしがみついて、
             大樹から「気」もらってくると、心身が癒されると。
             若い気功師はこれを、「大樹と語る」と言っていた。

             もう一人、こちらは高齢の気功師で、ジーパンにTシャツというラフな服装
             で施術にあたる。
             前者の若い気功師が50分5,000円の施術料に対して、後者は5分で5,000円。
             どちらも、人気の気功師だが、前者は撫でるように、もむように施術す
             る。対して後者は、患者の体に手をかざすだけで触れもしない。
             しかも手をかざしながら世間話をする。あるとき私は、高齢の施術師に言
             った。「先生、私は車で一時間以上かけて此処にきています。5分ではなく
             もう少し長く施術(やって)いただけますか」と。先生いわく「私の施術は5分
             間で十分で、それ以上は必要なく、時間をかけても効果は同じなのです」
             その先生が、最近診療をやめた。
             年を重ねるにしたがって、体内から発する「気」の量が薄くなり、患者が
             望む効果が希薄になって来たのが、原因という。

             気功もまた、特定の人間に備わった特殊な能力なのだろう。

  森羅万象、生きとし生けるものすべては、留まることを知らず、
  流れていく。
  「方丈記」の鴨長明は、川面を流れる泡沫を人の世のさだめと考え〈行く河の流れは絶えずし   
  て……ひさしくとどまりたる例なし〉と無常観を表し、
  「平家物語」では、琵琶の音にのせて諸行無常の響き奏で、どんなに権勢をふるい得意の絶頂にあ
  ってもそれは一瞬のことで〈ただ春の夢のごとし……ひとへに風の前の塵におなじ〉と、
  人生の儚さを謳いあげる。 

   だからこそ、真民さんは今の一瞬を精一杯生きろと教えている。
   凡人には難しい生き方かもしれないが……。

                   ックデーター
                      「坂村真民 一日一言 人生の詩、一念の言葉」
                        致知出版社 2006(平成18)年12月刊 第一刷
     (読書案内№181)      (2021.10.01記)

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読書案内「南三陸日記」 ⑦ 新しい命

2021-07-12 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」 ⑦ 新しい命

 前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。

  前回⑥ おなかの子に励まされてのつづき
     新婚一週間目で夫の智〇さんを津波に呑まれたE子さんのお腹には、
    新しい命が宿っていた。「安心して。私絶対この子を産んでみせるから」。
    亡くなった夫への誓いの言葉は、E子さん自身への励ましの言葉でもあったのでしょう。
    「つらくて何度も死のうと考えた」E子さん。
    でもそう思うたびに、おなかの子どもがE子さんのお腹をを蹴って、
    「生きよう、生きよう」と言っているようにE子さんには思えた。
    それはたぶん、まだ見ぬ赤ちゃんのお母さんへのメッセージであると同時に、
    夫の智〇さんからE子さんへの励ましのメッセージでもあったのでしょう。

 ⑦ 新しい命
          
     (希望の光・新しい命の誕生「三陸日記」より引用)

    夫の智〇が津波にさらわれた日から、4カ月か過ぎていた。
   7月11日。新しい命の誕生が始動し始まる。
   陣痛。
   夫・智〇の母・江利子さんは息子の遺影を病室に持ち込んだ。
   「智〇、力を貸してね」
   と願う江利子は、きっと遺影に向かって祈りをこめて語りかけたのだろう。
   
    江利子さんにも乗り越えなければならない辛い被災の経験があった。 

 夫とは離婚している。保険会社に勤めながら、石巻市で食堂を営む両親と一緒に、二人の子供を育てた。だから津波で家族四人を同時に失ったとき、暗闇に一人突き飛ばされたような気がした。
「生まれてくる子は、私の最後の希望なんです」 (引用)

  幸せの絶頂にあった息子(智〇)を失い、
 その息子は津波の引いた後の水たまりで、
 近くで見つかった妹を抱くような姿で発見された。
 両親も津波にさらわれた。
 独りぼっちになってしまった江利子さんに残されたたった一つの希望は、
 息子が残したE子のお腹に芽生えた新しい命だった。

 7月12日、午後七時三十二分。産声が響いた。
 新しい命の誕生だ。
 分娩室の扉が開かれ、大きなタオルに包まれ「おばあちゃん」になった江利子さんの前に
 元気な女の赤ちゃんが姿をあらわした。
 みんなが泣いていた。
 助産婦さんまで目を真っ赤に腫らして泣いた。

 「生まれてきてくれて、ありがとう」
  江利子おばあちゃんは泣きながら言った。
 「これから、いっぱい笑おうね」

 最後の一行は次のように結ばれている。 

小さな命はしっかりと目を開いて、応えるように「おばあちゃん」を見た。

                             (つづく)
    次回は「太宰治 情死行」②を掲載します。

 (2021.7.11記)     (読書案内№180)

 

 

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読書案内「南三陸日記」 ⑥ おなかの子に励まされて

2021-06-24 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」 ⑥ おなかの子に励まされて

前書き前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
   

前回 ⑤ 娘よ! 強く生きなさいの続き

     おなかの子に励まされて

  2011年3月11日 新婚一週間たったその日、夫は婚姻届けを出しに新居を構える石巻市に行った。
          午後3時46分 経験したことがないような巨大な地震が起こった。
          多くの命が奪われたのは地震発生の直後ではなく、
          そのおおよそ30分後に東日本太平洋沿岸を襲った巨大な津波によってだった。

          当日、激震の直後にメールが入った。
          「大丈夫?」
          すぐに返信した。
          「大丈夫」
          それが最後のやり取りになった。(引用)
         
  翌日、夫は津波の残した水溜りの中で、還らぬ人となって発見された。
  近くに住む実家の祖父母と妹を助けに行き津波に呑まれたらしい。
  同時に4人の家族を失った母・江利子さんの悲しみは深かった。

  《息子は妹をその腕の中で守っていたかのように手を組んで横たわっていました。
   「おかぁ、俺なりに頑張った」。そう言っているようで》

  
  《受け止め難い現実、やり場のない怒りと悲しみ。
   でも、絶望の中にさす光もありました。息子は私たちに生きる意味を残しました》
   津波が襲ってから丁度1年後の2012年3月11日、東京の国立劇場で開かれた追悼式で
   江利子さんは家族を失った悲しみを、遺族代表の一人として、胸のうちを吐露した。
   涙が頬を伝って流れた。
   家族4人を失い、一人ぼっちになった江利子さんにとつて「生きる意味とは何だったのだろうか」

   新婚一週間で夫を失ったE子さんは「私をこのままお嫁さんにしてくれますか」と
   江利子さんに自分の希望を述べる。
   この時、E子さんのおなかには亡き夫の赤ちゃんが宿っていた。

   「安心して。私、絶対この子を産んで見せるから」
   亡き夫に向けての固い決意を誓う。

   この章の最後は、次のような言葉で終っている。
   「本当は、つらくて何度も死のうと考えました。でも、その度に、おなかの子が
    『生きよう、生きよう』って蹴るんです」

      
      「三陸日記」著者の朝日新聞記者・三浦英之氏は、南三陸駐在記者として、震災直後から1年間を、
  このホテルを拠点として記事を発信した。それが本書「南三陸日記」である。

                                                                                 (読書案内№179)

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坂村真民の言葉 (2) いのちの張り

2021-06-18 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(2) いのちの張り


坂村真民について (坂村真民記念館 プロフィールから抜粋)
  20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
  仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

    いのちの張り
   大切なのは
   いのちの張り
   恐ろしいのは
   この喪失
   懸命に
   一途に
   鳴く
   虫たちの
   声声
    真民さんの言葉には時々、擬人化された昆虫や植物が登場する。
              前回①(2021.4.15)「未練」には、『はち』と『蟻』と『こおろぎ』が登場していた。
    
    どんな最期を迎えようとも、「今」を生きつづけたものにとって、
    それは大したことではないと真民さんは詠う。
    覚悟を持って生きたものには、「生」に未練はないと…
              どこかに武士道の精神に通じるものがある。

    働き蜂は、自分の亡骸を蟻に与え
    鳴くだけ鳴いたこおろぎは、
    己を風葬にする 
(「未練」より引用)

     生きることへの毅然とした姿勢がうかがえる言葉だが、
     全体をつつむ無常観がただよっている。

    「いのちの張り」には、「虫」が登場する。
    ここに登場する「虫」たちも一途に鳴いて、精一杯鳴き続けいのちを全うする。
    虫たちの精一杯の生き方が「声声」という言葉にさりげなく詠われている。

    恐ろしいのは、この張を失ってしまうことだ。
    虫たちだって命果てるまで懸命に鳴いているのに、
    「『いのちの張り』を失くしてしまえば、人生そのものが輝きを失ってしまう」
    と真民さんは言っているのか。

    真民さんに生きる力をいただく様な言葉だけれど、
    凡人の私には重い言葉となって、私にせまってくる。
                     ブ
ックデーター
                      「坂村真民 一日一言 人生の詩、一念の言葉」
                        致知出版社 2006(平成18)年12月刊 第一刷

                         (2021.6.17)                                  (読書案内№178)

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読書案内「南三陸日記」 ⑤ 娘よ! 強く生きなさい

2021-06-12 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」⑤ 娘よ! 強く生きなさい

前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
                                                                     (2021.4.24)


   
   (ホテルホームぺジの写真 左の写真は私が宿泊した部屋からのアングルに似ている)

   海を見下ろす高台に建つ「南三陸ホテル観洋」の一室。
 ここが私の仕事場であり、寝泊まりする生活の場だ。
                   (「娘よ! 強く生きなさい」の章 冒頭)   

           「 前書き」で述べた私の3度目の被災地訪問(2020年10月)の時は、偶然にも私はこのホテルに泊まった。
  このホテルは震災当時、津波が一階部分まで押し寄せ、甚大な被害を被ったようである。
  大ホールには当時の避難所として活動した写真が、玄関に続く通路やホールに写真が展示されている。
  震災当時、避難所となったホテルには約600名の被災者が、ここで生活していた。

  残念なことに、宿泊客の多くは観光目的の人が多いのだろう。
  通路やホールの写真を見る人は少なく、ここにも9年の時の流れに、
  震災の悲劇の風化が始まっているような気がして、寂しい思いをした。
  それでも、翌朝のホテル主催の「語り部ツアー」には、
  バス2台に約50人の参加者があったことに、安堵した。

  「三陸日記」著者の朝日新聞記者・三浦英之氏は、南三陸駐在記者として、震災直後から1年間を、
  このホテルを拠点として記事を発信した。それが本書「南三陸日記」である。

  ホテルウーマンとして働くA子さん(58)は、いつも笑顔で約六〇〇人の避難者に接している。
  「すてきな笑顔ですね」
  ある日、私がそう言うと、A子さんは教えてくれた。
  「もうすぐ、娘に子どもが生まれるんです」

   本誌には笑顔のA子さんの写真と本名が記載されているが、
    私のブログではあえて割愛した。

   「出産の予定日は七月上旬です」とA子さんは私に言った。
   「長女に言ったんです。強く生きなさい、あなたは母親なのよって」

  「強く生きなさい」と言う、A子さんの言葉には、震災の重いドラマがあった。
  A子さんの長女E子さん
(二七)は震災の6日前に結婚式を挙げた。
  新郎(二三)が、新居を構えることになっていた石巻市に婚姻届を出しに行った。
  その日、大地が揺れ巨大な津波が街を襲った。
  東日本大震災。
  新郎は近くの祖父母と妹を助けに行き、津波は四人を呑み込んだ。
  翌日、発見された四つの遺体。
  妹を抱きかかえるような姿で発見された。
  四つの遺体を前に、新郎の母(四六)は泣き崩れる。

  E子さんは言った。
  「私をこのまま、お嫁さんにしてくれますか」
  石巻市は六月、「婚姻届けは津波で流失した」と判断し、
  三月十一日付での受理を認めた。

  出産の予定日を七月上旬に控えた娘に、母親のA子が言った言葉が
 「強く生きなさい、あなたは母親なのよ」である。
  津波に呑まれた新婚早々の新郎が残して行った、お腹の子ども。
  E子はこれからどんな人生を歩んで行くのか。
     誰にもわからない。
  

  ホテルウーマンとして、笑顔を絶やさず、
  ホテルへ避難している人たちに明るく接するA子さんにも、
  津波がさらった娘の辛く悲しい人生があったことを著者は、さりげなく
  文字に転嫁する。
   
     新しく生まれてくる命を、A子さんたちはどんな笑顔で迎えるのだろう。
  この家族の「風景」をしばらく日記につづっていきたいと思う。
  
     この章結びの言葉である。
           (2021.6.10記)         (読書案内№176)

   



 

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読書案内「南三陸日記」④ 遺体捜索「やるなら、今しかないんだ……」

2021-06-06 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」④ 遺体捜索

          「やるなら、今しかないんだ……」

前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
                                                                     (2021.4.24)

(集英社文庫 2019年2月 第1刷) 著者:朝日新聞記者・三浦英之
  日記に記された内容は、2011年春から2012年春までの、
  震災翌日から現地に入った記者の肌で感じた震災ルポルタージュである。
  震災を経て生きる人々の姿を真摯とらえた眼差しが優しい。

  震災翌日に現地入りした著者は次のように心の内を吐露しています。

 最初の数日はまともに記事が書けなかった。
 目の前の惨状に何がニュースかわからなくなり、
 
気がつくと空ばかり見上げていた。

  著者のこの気持ちはシリーズ②(過去ログ・5月6日)の中で紹介したように「 誰のために記事を書くのか。
 その命題を忘れないよう」という気持ちに反映されている。
 本書の冒頭には、津波が襲った直後の惨状を見つめる記者としての目がある。

    リボンを結んだ小さな頭が泥の中に顔をうずめている。
   細い木の枝を握りしめたままの三十代の男性がいる。
 消防団員が教えてくれた。
 「津波は引くとき、川のようになって同じ場所を流れていく。
  そこに障害物があると、遺体がいくつも引っかかってしまう……

  震災関係の本の中には、遺体の惨状についての報告をときどき見かける。
    想像を絶するような現実に遭遇し、災害の非情さに圧倒される。
 木に引っ掛かった遺体、損傷が激しく目をそむけてしまうような遺体等々。

機動隊員はね、(遺体が)オヤジやオフクロだと思ってやっていますよ。
でなければ、とてもできる仕事ではないんです。
                        (宮城県警の幹部)

 海で見つかった遺体の写真は、着衣はなく、肉体は白いローソクのようにつるんとしていて、
 男女の区別さえつきそうにない。県警幹部のの言葉は、著者に語りかける言葉と同時に、
 自分に
言い聞かせる言葉でもあったのだろう。
   (本文に添えられた写真)
         (南三陸日記・遺体捜索 撮影・西畑志朗氏)
 悲しみと、鼻をつく瓦礫や油の匂いが異臭となって体全体に染みついてくる。
 「出来るだけ早く遺体を発見する」という使命感を持たなければ、続けられる作業ではない。
 県警機動隊員や自衛隊員などプロが覚悟をもって活動しても、
 
過酷な作業に違いない。
 地方公務員の中にも、遺体に関する作業の業務命令で従事する人たちは、
 嘔吐と発熱の中歯を食いしばるようにして過酷な現実を堪えたと聞いて言います。
 一日一日を地を這うような苦しみの中、やはり強い覚悟がなければ続かない作業だ。
 「海が時化(しけ)るたびに連日遺体が打ち上げられてくる」。
 遺体捜索の現場は、精神的にも、肉体的にも過酷だ。
 異臭の中を飛び交う大量のハエは、捜索員の士気を減退させ、体力の消耗を加速させる

あちこちで煙が巻き上がっていた。警察の機動隊員たちは打ち寄せられた流木を燃やし、
炎と煙で大量のハエを追い払っている。
「煙たいが、ハエよりはましだ」
強烈な日差しとむせ返るような煙が、無言の男たちを苦しめる。

日が経てば遺体の損傷は一層進んでしまう。
 人間の尊厳の為にも、遺族の為にも誰かが従事しなければならない過酷な作業だ。
 海岸に流れつく遺体は時間の経過とともに、減少する。同様に瓦礫に飲み込まれた遺体も減少する。
 後は、海底に沈んだ遺体だ。
 「海底を網でさらうかどうかー
」だ。
 反対意見もある。

いくら亡くなっているとはいえ、身内が網に掛けられて引き上げられることを、
家族はどう思うだろうか
                                (宮城県警幹部)

  逡巡する機動隊員。
  夏が迫ってくれば、遺体の損傷は激しくなる。
  「なにも遮るもののない海岸で、機動隊員を長時間働かせることは不可能だ」
  責任者として部下への配慮は当然のことだ。
  配慮や優しさがあれば、部下は過酷な作業にも従事する強さを維持することができるのだ。
  「遺体捜索」の章は次の3行を記して終わる。 

「やるなら、今しかないんだ……」
南三陸町の行方不明者は約600人。
今もこの美しい海のどこかに眠っている。

    日記の具体的な日付がないので、何時の頃のルポルタージュなのか不明だが、
   記載内容からして、震災間もない頃と思われる。
   海底の遺体捜索に漁網を使用したという報道は、耳にしたことはないが、
   潜水夫を導入した報道を耳にしたことはある。
   文面から推測するに、
   漁網(底引き網のようなもの)を導入しての「遺体捜索」に踏み切ったように思える。
   このことが報道されなかったとすれば、
   社会的な規範の維持と遺族への配慮があったからなのだろう。

 2020年秋、私は10メートルもかさ上げされた防潮堤の上を走る道路に立った。
 震災からもうすぐ10年を迎える。
 かさ上げされた道路の下には、かって民家が点在し、松林が海岸線を走っていたはずだ。
 瓦礫は取り除かれ、新しい道路や海岸線の工事で走り回るダンプを除けば、
 静かな三陸の海が、あの日のことを忘れたように優しい風を送ってくる。

 山を削り、造成された高台に民家は移住した。
 海岸線は遠く、南三陸町に昔日の面影を残す景色はない。
 復旧・復興のスローガンに裏打ちされ、新しい町ができた。
 できつつある……。
 
 津波の来たあの日、町は失われたけれど、
 祖父や父や母から受け継いだ
 三陸に住む人々の穏やかな笑顔がふる里の象徴として、
 大切な心の遺産として残っていくことを願いながら、
 海岸線を走る道路に戻った。
                       (つづく) 

 (2021.6.5記)                                                                 (読書案内№175)

 

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読書案内「南三陸日記」 ③ 防災対策庁舎、もう一人の人

2021-05-19 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」 ③ 防災対策庁舎、もう一人の人                  

前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
  
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
                                                                     (2021.4.24)

      前回……誰のために記事を書くのか。
     その命題を忘れないよう、毎朝通う場所がある。( 冒頭2行を引用)
           その場所が、南三陸町の防災対策庁舎だ。

     

 あの日、2011.3.11 午後2時46分。
 地震が起こった時刻。 
 その日の宮城県南三陸町防災対策庁舎広報係・遠藤未希に焦点を合わせて綴りました。
    このことに関する当時の報道も似たような内容でした。
   結婚を控えていたにもかかわらず 命を賭けて、避難を呼びかけた未希さんの行為は、
 美談としてメディアが取り上げた。
 多くのメディアはこの報道に隠されたもう一人の人のことを、
 取材で掘り起こすことができなかった。
 これを書いている私自身、震災から10年も経つというのに
 「もう一人の人」のことを全く知らなかった。
 そのことを知ったきっかけは朝日新聞記者・三浦英之氏の「南三陸日記」を
 読んでからだった。

 当時の河北新報の記事から、拾ってみよう。
  2011.3.12 震災翌日の記事
       住民救った「高台に避難してください」 宮城・南三陸町職員24歳
       防災無線声の主姿なく
  2011.5.2 
遠藤さんは3月11日午後2時46分から約30分間、防災対策庁舎2階にある放送室から防災

        無線で「高台に避難してください」「異常な潮の引き方です。逃げてください」などと呼び掛け
        続けた。津波が庁舎に迫ったため放送室を出た後、行方が分からなくなっていた。
        あの日から43日が経っていた。
        記事のタイトルは『最後まで避難を呼びかけ 不明の職員遺体発見
  2011.6.10 天国へ ウエディングソング  
        挙式控え犠牲、防災無線の職員追悼(笑顔の未希さんの写真)
        遺族、悲しみ癒えぬまま「庁舎見るのがつらい」
   2012.1.27 避難呼びかけ犠牲 宮城・南三陸町職員・遠藤さん教材に
       埼玉県の公立学校で4月から使われる道徳の教材に載ることが26日、分かった。
                       埼玉県教育局によると、教材は東日本大震災を受けて同県が独自に作成。
                          公立の小中高約1250校で使われる。

  河北新報の遠藤未希さん関係の記事を拾ってみたが、「もう一人の人」の記事は
  何処にも発見できなかった。
  遠藤未希さんの記事を追いかけるなら、
  その過程の中で「もう一人の人」のことを掘り起こしてほしかった。

  大きな出来事の陰で、メディアに取り上げられず埋もれていってしまう
  事実が存在することを私たちは認識しなければならない。

  さて、「南三陸日記」に話を戻そう。
   
   
    誰のために記事を書くのか。記者の三浦英之さんは、その命題を忘れないために、
 毎朝通う場所がある。記者が拠点としている南三陸ホテルから車で10分そこそこのところにある
 南三陸町役場の防災対策庁舎(写真)だ。

 震災前、この地域は南三陸町の中でも、最も繁華かな場所だった。
 防災対策庁舎の脇には町役場もあったのだが津波に飲み込まれ、
 現在は写真のような防災対策庁舎が宮城県預かりのまま、震災遺構として残すべきかどうか
 町民の審判を待っている。
 私が訪れた昨年秋には、この一帯は「防災祈念公園」として、一般に開放されていた。
    何度も顔を合わせる人がいる。
    三浦ひろみさん(51)。危機管理課の課長補佐として、
    遠藤さんと一緒にマイクを握っていた夫の毅さん(51)は、
    今も行方が分かっていない。
   
  ……あの日、公務員の次男(20)は車の中で防災無線を聞いた。
    「非難しろ」と必死に叫ぶ父の声にうながされ、
    高台に逃げて助かった。
    声は、「ガガガ」という雑音にかき消された。

  未希さんの直接の上司危機管理課の三浦毅さんが一緒にマイクを握っていたのだ。
  震災後10年にして初めて知る三浦毅さんの存在だった。 
 
    日本経済新聞2011.3.28付記事(抜粋)

  東日本大震災で高さ十数メートルの津波に襲われた宮城県南三陸町で、最後まで住民の避難を呼びかけ続けた男性がいる。巨大な波が近づく中、町役場の放送室に一人とどまり、防災無線を通じて約1万7千人の町民に避難を促した。同町では約9千人が避難できたが、男性の行方はいまもわかっていない。男性の妻は最愛の人の手がかりを求めて避難所などを捜し歩いている。

 「6メートルの津波が予想されます。早く逃げてください」。地震直後、同町危機管理課課長補佐の三浦毅さん(51)は後輩に変わって防災無線のマイクに向かい、声を張り上げた。

 「もう逃げろ」と同僚が袖を引っ張ったが、毅さんは「あと1回だけ」と放送室を離れず、その後見えなくなった。無事だった同僚からこの話を聞いた時、妻のひろみさんは(51)は「自分より周囲の人のことを考えるお父さんらしいな」と感じたという。

 毅さんの防災無線を通した呼びかけは大勢の町民だけでなく、同県気仙沼市で暮らす次男(20)も救った。次男はたまたま同町で仕事があり、同市まで車まで引き返す途中、毅さんの声に気づいた。海岸沿いの道から慌てて高台に向けてハンドルを切り無事だった。毅さんの防災無線の声は途中でガガガという雑音でかき消された。

 地震から2周間以上立った現在も、ひろみさんは毅さんからプレゼントされたマフラーを首に巻き、手がかりを求めて避難所や遺体安置所を毎日訪れている。ただ、夫の情報が入手できるあてはない。「お父さんの声で助かった人がいる。それだけが救いです」。裕美さんは大粒の涙をこぼしながら、小さく笑った。

  後輩(遠藤未希さん)に代わって、
  防災無線のマイクに向かって声を張り上げた危機管理課課長補佐・三浦毅さん。
  「もう逃げろ」と袖を引っ張る同僚の声に三浦毅さんは答える。
  
  「あと一回だけ」。
  避難勧告放送のあとにガガガという音が聞こえ、音は途絶えた。


 多くの報道から、こぼれ落ちてしまった事例である。
 関係者への電話取材だけで記事を書く場合も、少なくないて聞いている。
 大きな事実の前に、埋もれてしまう真実を掘り起こすことも、
 報道の大切な役割のひとつだと思う。

  『南三陸日記』で「防災対策庁舎」というタイトルで紹介された文章は、
  原稿用紙一枚400字ぐらいである。
  たった400字にも満たない文章の中に、著者の三浦さんの新聞記者としての思いが込められ、
  読む人の胸を打つ。

  防災対策庁舎で「何度も顔を合わせた人」は、毅さんの妻ひろみさんだった。
  「私にとって最高の親友であり、かけがいのない夫でした。…(略)…私はとても幸せでした」
  という、『声』を拾い「もう一人の人」の紹介は次の三行で終わる。

   まるで広島の原爆ドームのように、廃墟になった南三陸の町に建つ。
   なにを書くべきか。
   答えは「現実」が教えてくれる。 

                                       (つづく)

              (2021.5.18記)          (読書案内№174)




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読書案内「南三陸日記」 ② 防災対策庁舎

2021-05-06 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」
               

前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
                                                                     (2021.4.24)

  ② 防災対策庁舎
                   誰のために記事を書くのか。
     その命題を忘れないよう、毎朝通う場所がある。( 冒頭2行を引用)
       
                  その場所が、南三陸町の防災対策庁舎だ。
   (図1 震災間もなくの頃の防災庁舎)

 かつては
防災対策庁舎をめぐり「保存」か「解体」かで、町が真っ二つに割れ時期もあった。
 この庁舎で「津波が襲来しています。高台に避難してください」。
 24歳の防災放送担当職員・遠藤未希さんが、防災無線で懸命にアナウンスしていた。
   
 2011(平成23)年3月11日午後2時46分、東日本大震災に関わる地震が、宮城県南三陸町を襲った。
 「震度6弱の地震を観測しました。津波が予想されますので直ちに高台に避難してください」 
 地震発生の直後から、二階防災対策庁舎で未希さんは、町民への非難を呼びかけました。
 そして間もなく、河口近くの潮が引いているのを目撃し、未希さんはマイクに向かって緊張した声を
 送りました。
 「異常な潮の引き方です、逃げてください。高さは6㍍の大津波警報が発令されました。早く、
 早く高台に避難してください」 
 「ただいま宮城県内に10メートル以上の津波が押し寄せています。逃げてください」
 数十回の避難の呼びかけにね多くの人々が高台めざして非難した。
 
 3階建ての防災対策庁舎の屋上2メールを越える大津波は、町を飲み込み
 多くの犠牲者を出した。
 震度7にも耐えられる防災拠点として建てられた鉄骨3階建ての建物を、
 高さ15.5mの津波はやすやすと乗り越えていき、屋上に避難した町職員ら計41名が犠牲となった。
 アンテナに上る人、しがみつく人、フェンスにしがみつく人。
 力尽きて流された人を見ていながら、何もできなかった人。
 生存者は10名。
 その中に、避難を呼びかけた遠藤未希さんの姿はなかった。

 未希さんの遺体が見つかったのは、津波発生から43日後でした。

  (図2 防災対策庁舎三階の屋上に津波が襲う)
 (2011.3.11午後3時34分 南三陸役場職員・加藤信夫さん撮影)
   この写真をよく見てください。カメラの視点は屋上よりも上にあり、
   屋上を見下ろすように撮られている。
   つまり、撮影者の加藤信夫さんは、
   図1に薄く映っている屋上のアンテナに上って撮っていることが分かる。

「被害を伝えるために震災遺構として残すべきだ」という声は、
震災を乗り越え震災遺構として後世に語り伝え、教訓として何を伝えていくのかという、
大切な道標(モニュメント)としての思いが込められているのでしょう。

 一方、「震災を思い出してしまう」という声もある。
『防災対策庁舎』が遭遇し、そこで起こった悲劇を思い起こすたびに、この町で起こった数えきれない悲劇を思い出してしまう。そんな哀しいことを「思い出したくない」というのも人情です。
人口1万4000人の南三陸町が揺れた。
町役場は解体を決めたが、県が保存要請。
案内板には次のような説明がある。
  現在、防災対策庁舎は令和13年(2031年)3月10日まで県有化されており、
 南三陸町は、この間に震災遺構としての保存の是非について検討していきます。

(雨あがりのペイブメント・撮影)
 現在、震災記念公園として整備の進む、防災対策庁舎の遺構に立つ案内板
 
   読書案内「南三陸日記」に関する記事は、冒頭2行の引用だけになってしまった。
         その後の構成は、当時の新聞記事によるものです。
    この事実を皆さんにお知らせし、このことと、「南三陸日記」がどうかかわって来るのか、
    同時に報道の在り方にも触れたいと思います。 著者が「毎日通う場所」で何があったのか。
    次回に記載します。
                                      (つづく)
  
   (読書案内№173)      (2021.5.5記)
 
 
 
 
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読書案内「南三陸日記」① 無事で申し訳ありません

2021-04-25 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」 三浦英之著 ノンフィクション
    ①『無事で申し訳ありません』
              
        朝日新聞の 駐在記者として被災地に住んで、
  宮城県南三陸町に住む人々を記録した震災ルポルタージュ。
   集英社文庫 2019.2 1刷    2019.3   2刷
       

  2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、津波に流さ
  れた船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広
  がっていた。津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だ
  った。特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、民家にも人の気
  配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。

  2011年5月10日、朝日新聞の記者・三浦英之が南三陸駐在記者として、
 がれきに埋もれた宮城県南三陸町に赴任した。
 震災一か月後の被害の生々しい痕跡が残る南三陸町のホテルに部屋を借り、
 一年にわたる取材の記録を、全国版のコラムに掲載された記録である。
 被災の残酷さや過酷さを伝えるのではなく、被災した人々の心の動きに焦点を当てた
 ルポルタージュだ。
  随所に感じられる記者の優しさが、哀しい出来事の報道なのに読後、
 どこかホッとする感情につつまれる時がある。
   写真に添えられた冒頭の文章は、過酷な現実を伝える。

遺体はどれも一カ所に寄せ集められたように折り重なっていた。
リボンを結んだ小さな頭が泥の中に顔をうずめている。細い木の枝を握りしめたままの三十代の男性がいる。消防団員が教えてくれた。
「津波は引くとき、川のようになって同じ場所を流れていく。そこに障害物があると、遺体がいくつも引っかかってしまう……」
 遺体は魚の腹のように白く、濡れた蒲団のように膨れ上がっている。涙があふれて止まらない。隣で消防団員も号泣していた。(冒頭の一部を引用)

   いきなり冒頭の文章に、唖然とさせられた。

  私が被災地を訪れた時、防砂林の松林が根こそぎ津波に襲われ、
  荒地と化し、松の根っこがむき出しになっていた。
  その根元に、花が添えられていた。
  津波で命を失くした人への鎮魂の花束なのだろう。
  豪華ではなく、質素な、故人が好きだった花なのかもしれない。
  気づけば、そんな鎮魂の花が元松林だった砂地に散在している。
  それは、手向けの花と同時に、生き残った者の悔恨と無念の花なのかもしれない。
  防潮堤の厚いコンクリートが津波の暴力でひっくり返り、
  えぐられた大地に濁った塩水が、あの日の惨状を今に伝える風景のようであった。
       この地にも、冒頭で示されたようなたくさん遺体が晒されていたのかもしれない。
                                         (2011.10)
  「申し訳ありません」と記者に向かって頭をさげる。渡辺宏美さん。
  「家も家族も無事なんです」。
  元気なく答える姿に記者は違和感を覚える。
  高台に建てられた3LDKは、津波の被害を免れたと……
  南三陸町ではすべての物が流され、断水や停電の中、
  支援物資に頼ざるを得ない生活が続いた。
   (南三陸町)

 「 街を歩いていると『あんたはいっちゃね、家も車も無事で』
といわれているような気がして胸が張り裂けそうになるんです」
南三陸町に住む多くの人が、肉親を失い、全ての財産を失くした。
そんな状況の中で自分だけが無傷であることの後ろめたさに、涙する渡辺さん。
一家は、取材の翌朝、隣の町に引っ越していった。
 記者は最後の4行を次のように結ぶ。

シャープペンシルで引いたような細い雨が、海辺の町に降り注いでいた。
いつかこの町に戻ってきたい……。
一家は二トントラックを家財道具で満載にして、何度も振り返りながら、がれきだらけの町を走り去った。

                                        つづく
 (読書案内№172)        (2021.4.24記)


   

 

 

 

 

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坂村真民の言葉(1) 未練

2021-04-15 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(1) 未練 

 坂村真民について (坂本真民記念館 プロフィールから抜粋)
   
20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
       
仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  
一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

   未練
      「今」を生きつづけたものに
      未練はない
      働くだけ働いて働き蜂は
      蟻に己れを与え
      鳴くだけ鳴いてこおろぎは
      己れを風葬にする

    「今」を真剣に生きる者にとって、どんなことが起ころうとも未練はない、
    と言い切る裏に、作者の一途な生き方と、揺るぎのない信念がイメージできます。
    「蟻」の餌食になってしまう「蜂」や
    冬を迎える「こおろぎ」のように、自分の亡骸(なきがら)が風に晒されような最期を迎えようと、
    私は生き方を変えない。

    こういう生き方を継続してきた真民(しんみん)さんの言葉だからこそ、
    重みがあり、納得もできます。
    納得できる言葉でも、凡人にはなかなか難しい生き方のようです。

    頑張る時には頑張り、気を抜く時には気を抜く生き方を長年続けていれば、
    空気を読んだり、根回しをしたり、
    タイミングを待ったりすることが自然に身についてきます。
    このことが身についていないと、
    絶妙のタイミングで自分を生かすことはできないように思います。

    人それぞれに生き方は違いますが、「真っ直ぐに生きる」ということは、
    決して悪いことではないけれど、どこかで無理が生じ、
    周囲との摩擦を起こしやすくなってしまいます。
    人に恥じない生き方であっても、周囲と摩擦を起こし、
    これを解消しょうという気がなければ、
    「変り者」とか「意地っ張り」という言葉で片づけられてしまいます。

    真民さんの生き方に、感銘しながらもどこかで、
    「難しい生き方だよな」と言っている自分の声が聞こえてきます。

                            ブックデーター
                             「坂村真民 一日一言 人生の詩、一念の言葉」
                             致知出版社 2006(平成18)年12月刊 第一刷

      (読書案内№171)                 (2021.4.15記)

 

 

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