雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

日航機墜落 ① 37年後の夏

2022-08-14 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

 

日航機墜落 ① 37年後の夏

1985年8月12日午後6時56分ごろ、
羽田発大阪行きの日航ジャンボ群馬県上野村の御巣鷹の尾根に墜落。
520人の尊い命が失われた。上空で圧力隔壁が壊れ、
機体尾部が吹き飛び操縦不能となる。
過去の修理ミスが原因と事故調査報告書には記載されている。

        事故発生の約1年4カ月前。製造元の米ボーイング社から、日本国内の駐在員を介し、
       日本航空の技術者に渡った英文のテレックス。事故機を含む同型機について、事故原因
       となった後部圧力隔壁を含む胴体部分の疲労度に懸念を示した上で、運航する日航に対
       し、機体を詳しくチェックする補足的な検査の「前倒し」を求めていた。
        運輸省航空事故調査委員会(当時)の事故調査報告書によると、日航は早期に補足検
       査をする計画を立てた。にもかかわらず、隔壁部分については実際に着手する前に事故
       が発生した、とされる。事故調は、その経緯や計画自体については問題視していない。
          (西日本新聞のスクープ記事から抜粋 2022.8.13記事)
       上記の米ボーイング社の文書は事故調にも一部引用されているが、西日本新聞は全文を
       入手した。

 あれから37回の暑い夏が巡ってきた。遺族も歳をとり、世代も代わった。
日航によると、全社員約1万4千人のうち事故当時在籍していた社員は284
人(今年3月末時点)。
約98%の社員が、事故を話でしか聞いたことがないことになる。
 裏を返せばたった2%の社員しか体験した社員がいないことに、ある種の危惧をいだき、
事故の教訓を風化させずに守り、伝える運営をお願いしたい。
遺族も高齢化が進み、墜落現場となった「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)への慰霊登山ができなくなった人も少なくない。
 
墜落現場のふもとを流れる神流(かんな)川に浮かぶ犠牲者追悼の灯籠(11日
)

 マスメディアも私たちも時の経過の中で、当時の鮮烈な想いは薄れ、
風化の波が少しずつ事故の悲劇を忘却の彼方へと押し流してしまうのは、
仕方のないことなのかもしれないが、
決して忘れてはならない尊い命の代償を強いられた250人の犠牲者の御霊を
せめて私たちは思いおこし、伝えていかなければならない。
飛行機墜落事故の再発が無いように……。

 8月12日の朝日新聞は、関連記事の中で次のようなエピソードを掘り起し、記事にしている。
   37年前小学3年生だった美谷島健君は、高校野球が大好きな少年だった。なかでも大阪の強豪
  PL学園にあこがれていた。
   1985年8月12日。甲子園でPL学園を応援するのを楽しみに、ジャンボ機に乗った。
  初めての一人旅。……その機体は墜落した。当時、9歳だった。この年のPL
学園は、
  桑田真澄さんと清原和博さんの「KKコンビ」を擁し、夏の甲子園で優勝。
  事情を知った同校から遺族のもとに選手のサイン色紙ゃ野球帽が届き、健君の棺に納められた。

   37年後の今、御巣鷹の尾根にある健君の墓標は好きだった「ドラえもん」のグッズや
  電車の模型などに加え、いまも、たくさんの野球ボールに囲まれている。


          250人の鎮魂の御霊の安からんことを願う。

  (昨日の風 今日の風№133)                      (2022.8.13記)

 

以下の記事は2年前の墜落事故35年目の夏に書いた記事です。
併せて読んでいただけれは幸甚の至りです。

読書案内「風にそよぐ墓標」
       父と息子の日航機墜落事故
 
             ブックデータ: 集英社2010年8月12日刊 第1刷 門田隆将 著

35年前の8月12日午後6時56分、羽田発伊丹行きの日本空港123便(ボーイング747ジャンボジェット機)が、群馬県上野村御巣鷹の尾根に墜落した。
 乗員乗客524人の内520人が犠牲となった。
 単独機としては、史上最大の事故だった。
 標高1500メートルの尾根筋の急斜面に、樹々をなぎ倒し、ボーイング747はほぼバラバラになり長い帯
 のように残骸をさらし、人の原型をとどめぬほど損壊の激しい遺体も事故現場を埋め尽くしていた。

  灼熱灼熱の太陽にさらさらた愛する者の肉体は、みるみる変質し、異臭を放って腐敗を始めた。日が
 経つにつれ、それは耐えがたきものになった。しかし、家族は、肉親を家に連れて帰るために、その中
 で気も狂わんばかりの身元確認作業をおこなった。

 「風にそよぐ墓標」冒頭に描写された、事故現場の状況であ。(この記事を書くにあたり、他のルポル
 タージュにも目を通してみたが、あまりにも悲惨な現場の状況を一切の感情を抑えて、燦燦たる状況を
 描写したものもあったが、ここではそれが目的ではないので、紹介を控えた)

  息子、娘、夫、妻、父親、母親……何の予兆もなく突然、愛するものを奪われた家族たちは、うろた
 え、動揺し、泣き叫び、茫然となった。(略)
 極限の哀しみの中に放り込まれた時、人はどんな行動に出て、どうその絶望を克服していくのか、また
 哀しみの「時」というのは、いつまでその針を刻み続けるのだろうか。

「はじめに」で述べた著者の言葉が、このルポルタージュの目的だ。
   今から25年前に、遺族に会い、書かれた本である。
   事故に遭い、それぞれの哀しみを背負った遺族たちが、重い口を開いて語り始めた。
   心の整理が進み、あの時の哀しみを語るには、25年という長い時間が必要だったのだろう。
   哀しみに沈み、成す術もなく暮らした最初の10年。
   次の10年は生活の立て直しと、生きる気力をを立て直すための10年。
   時が流れ、遺族たちの子供たちが成長し、子供を亡くした親は年を重ね、
   苦労の重みで白髪も増えてきた。
   何年たとうとも、「哀しみ」は浄化されることはないだろう。
   あるとすれば、時の流れの中で、鮮烈な記憶が少しずつ遠ざかっていくことだろう。

  「風にそよぐ墓標」は、ブックデーターにも示しましたが、今から10年前の2010年、
つまり、事故から25年目に書かれたノンフィクションです。
6人の遺族に焦点を当て、辛い25年を振りかえり、
その辛さを乗り越えていく「強さ」を描いていく著者の優しい思いがある。

 第一章「風にそよぐ墓標」
   舘寛敬(ひろゆき)さんが、御巣鷹山で父を亡くしたのは15歳の夏だった。
   あれから25年。40歳になり、結婚もした。
   だが、この25年間8月が近づいてくると、きまって悪夢にうなされる。
   あの日、御巣鷹の事故現場に向かうバスの中で、日航の職員に食ってかかった。
   「(パパを)返してください! 今すぐ!」
           夜になると、弁当が運び込まれてきたが、母は相変わらず食べようとしない。
   「食べんと死ぬぞ」15歳の少年・舘寛敬は母を諭すように告げる。
   「パパは食べてないやん。私もいらん」
   常軌を喪った母に15歳の少年は、無理に即席のうどんを食べさせた。

   現場に行きたい、現場に行ったら、あの人に会える……
   現実と夢や妄想の区別が、
   この時の須美子には、つかなくなっていたのかもしれないと著者は記録する。

   事故現場へつづく道は、森と藪を切り開いて作られていた。
   今でこそ、麓の駐車場から30~40分で到着できる道が整備されているが、
   上野村側のルートは閉鎖され、
   当時は自衛隊や地元の消防隊員が切り開いた岨道を行くしかなかった。

          歩いても歩いても先が見えない道。
     森や林を縫うようにして歩く。いったい、どれだけ歩けば事故現場にたどり
つけるのか。
     突然、道が開け、想像もしなかった景色が飛び込んできた。
     目の前に広がるお花畑。
     憔悴してぼろぼろになった母。
    「ああ、きれい…」「親父は(死ぬ)直前にこのきれいな景色が見れたんだ…」
          そう思うことで、一瞬哀しみで一杯になった心が癒された。

     もう引き返さなければ部分遺体の公開に間に合わない。
           「親父、行きたいけど、これ以上は行けない……」
   背負っていったリュックから紙を出し、須美子は次のように書いた。
   舘 征夫 昭和十七年九月十三日生
   ここはとってもお花のきれいな所です。
   やすらかにねむって下さい。
   もう苦しくありません
    それを、木の枝に差し込み、持って行った果物をその前に置いた。
    須美子はその「紙の墓標」に手を合わせ、
    寛敬は詩文の靴の靴ひもを抜き出し、紙の前に置いた。
    「親父、ここまでしか来れなかったよ。もう引き返さないといけない。ごめんね」
    四十歳になった寛敬は、この時のことをはっきり記憶しているという。

    母子が残したお花畑の「紙の墓標」は、ここを通りかかった新聞記者の手によって、
    八月十八日、読売新聞朝刊に報じられた。
    墜落現場に通じる三国峠近くの登山口から約一キロ歩いた急斜面のお花畑に十七日、
    犠牲者の家族らが供えた「紙の墓標」が建てられた。ヤマユリ、アザミ、リンドウなどに囲まれ 
    た、はがきほどの大きさの白い墓標は吹き渡る風に静かに揺れていた。
    記事は写真入りで紹介された。

    この後、親子にとっては、損傷が激しくぼろぼろに千切れた遺体の確認作業が待っていた。
    哀しく、辛い地獄を彷徨うような作業を、母に代わって十五歳の少年は果敢に挑むのだが、
    私の拙い表現力では、とても紹介できるものではない。
    墜落事故から25年を経た時間の経過が、その過酷な作業を母子は丁寧に語り、筆者はそれを
    感情を抑えて冷静に受け止め、淡々と文章にしている。

    この章の最後に筆者は次のように書いて章を閉じる。
    寛敬が、とてつもなく大きかった父という存在を客観的に捉えることができるまでには、四半世
    紀という気の遠くなるような歳月が必要だったのである。と。

    PS: 「風にそよぐ墓標」を紹介するにあたり、
      六章に分けられた家族の「父と子」の物語を全部紹介するつもりだったが、
      それは非常辛い作業だった。
      結局、表題にもなっている第一章「風にそよぐ墓標」のみの紹介になってしまった。
      このノンフィクションに流れているものは、
      「どんなに辛く、悲しい体験をしても、人間は時間の経過とともに立ち直っていく強い力を
      持っている」という著者の心なのかもしれない。
      この本の扉の裏に引用された明治の文豪・田山花袋の詞を引用して、
      このブログを閉じます。

      絶望と悲哀と寂寞とに堪へ得らるるごとき勇者たれ
                    運命に従ふものを勇者といふ
                               田山花袋
     この本の内容にふさわしい含蓄のある詞である。
     日航機墜落35年目の夏、コロナ禍の影響や高齢で御巣鷹山登山に参加できなかった
     遺族も多いと聞きます。
     尾根は、1500メートルを超える急斜面にある。登山道の整備が進んだとはいえ、
     急な階段がいくつもあり、入口の駐車場から40分ほどかかる険しい道だ。
     35年の時の経過は、人々の記憶を少しずつ忘却の彼方へと押しやってしまう。
     私たちは、人知れず風にそよいでいた「紙の墓標」のことを、忘れてはいけない。
     お花畑を渡る高原の風が、今日も「紙の墓標」を人知れず揺らしているのでしょうか……

     全ての遺族の方々に奉げたい言葉である。

    (読書紹介№153)         (2020.08.17記)

 

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ブログ休載のお知らせ

2022-04-15 21:24:42 | 昨日の風 今日の風

年度末から年度初めには、役員会や総会等の行事が多く、資料作りに追われ、
しばらく2~3週間、ブログを休載します。
休載したついでに、数年にわたってすすめていた「家系」をたどる
先祖探しの旅のまとめもしたく、
おなじみになった皆さんには、非常に申し訳なく思っています。


 

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コロナ感染 米軍基地周辺の感染者

2022-01-11 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

コロナ感染 米軍基地周辺の感染者
  各地の在日米軍基地で新型コロナウイルスの大規模な感染が相次ぎ、
  その地元への住民の感染が拡大している。(朝日新聞1月6日朝刊)

  米軍関係者は日米地位協定に基づき、日本側の権益の対象になっていない。
  極論を言えば、日本からの出国も日本への入国も
  日本側の水際対策を受けなくても、基地からの出入国は自由にできることになる。
  だから政府は在日米軍と、日本の水際対策に近い「整合的」な措置をとることを確認していたが、
  米側の対応はあまりにも杜撰であった。

米側の感染対策は、
  入国後5日目以降にPCR検査をするのみで、
  出国前や入国直後の検査は行っていなかった。

     入出国に、基地を出て、基地に帰って来る基地関係者に対して、
   なんと無防備な感染対策なのかと疑ってしまうほど、
   日本の感染防止対策とはかけ離れていることに、
   唖然とした。
    米軍側は、沖縄県の照会に対し、
   部隊の規模や人数や、詳しい感染状況などは
   「運用に関わる」として回答を避けている。
    
昨年12月中旬にキャンプ・ハンセンで、大規模クラスターが発生し、
   米軍関係者の感染は沖縄の9基地で、
   1月5日現在1001人に達しているが、その詳細は説明されていない。
   つまり、治外法権の基地内で発生したことは、
   「運用に関する」こととして、コロナウイルス感染に関することだけでなく
   基地関係者に起因するすべてのことが、秘匿されてしまう。
   
   日米地位協定9条第2項
    「合衆国軍隊の構成員及び軍属並びにそれらの家族は、外国人の登録及び管理に関する日本国の
    法令の適用から除外される」
   この「管理」に検疫も含まれると解釈され、我が国の空港での水際作戦に大きな「水漏れ」
   を起こす結果になってしまった。
    幕末に締結された諸外国との「通商条約」は「不平等条約」として、
   明治新政府がその改善に多大な苦労をせざるを得なかった歴史的事実が思い出される。
   苦い経験がありながら、第二次大戦の敗戦国日本は、勝者の論に屈服し、
   「日米地位協定」に合意せざるを得なかった。

    日米合同委員会の、「検疫の在り方」についての二つのとり決め。

      米軍人、軍属やその家族が、
      
①軍の飛行機や船で在日米軍基地に直接入国する場合は、米軍が責任を持つ。
         ②民間の飛行機や船で入国する場合は、日本側の検疫を受ける。 

         1996に合意した内容だが、①の合意により、日本は水際検疫ができなくなってしまった。
        「責任を持つ」という文言に日本は期待したのだが、今回この取り決めは、
        全くの絵に描いた餅になってしまった。
        基地内の感染者数は毎日伝えられるが、基地ごとの感染者は提供されても、
        感染者がどこに住んでいるのか、発症はいつなのかという情報が提供されないから、
        濃厚接触者が市中感染を広げているケースも予測されるのに、
        県は防疫対策をとれない現実がある。

    民間住宅を借りて基地の外に住んでいる米軍人の問題点。

        外国人が3カ月以上国内に滞在するときは、移住地などを登録する必要がある。
       更に住民基本台帳に記載されるのだが、地位協定9条に基ずく特権で、
       米軍人はこの対象から外さる。
       従って自治体では、
       自分の町にどれくらいの軍人軍属が住んでいるのかを把握できない。

       なんともお粗末な基地を抱える自治体に存在することが、
       コロナ禍の渦中で露呈された。
    
    (朝日新聞1月6日 在日米軍から国内に広がったとみられる構図)
   在日米軍の現在の感染対策。
    全国の基地で警戒レベルを一段階引き上げ、
    検査で陰性が確認されるまで、マスク着用を義務化する。
    (裏を返せば陰性が確認されれば、マスク着用の義務はないということか)
    軍用機で日本に来た場合の検査を実施する。
    基地外でのマスク着用の義務。
    (基地内では着用の義務はない)。
    コロナに対する姿勢の違いか、マスク文化の違いが感じられます。

    現在は、日本への出発前、到着直後、
    その後の行動制限中の計3回以上の検査を義務付けている。
                                                                         
(朝日新聞1月7日)
              こうした状況に中国外務省は、
    「米軍は駐在国の高みに立ち、現地のルールを守らず、
     再三、ウイルスのスーパースプレッダー(拡散者)になっている」
    と米国を批判している。
      
       余談ですが、
       かって、100年前にスペイン風邪を全世界に広めてしまったのは、
       世界に派遣された米軍兵士によるウイルスの拡散だと言われている。
       この時、日本でのスペイン風邪による死者は、
       40万とも45万にとも言われている。
       にもかかわらず、前トランプ大統領はコロナウイルスの拡散は、
       中国のせいだと非難した。そのアメリカは現在6000万人を超える
       感染者を出し、世界をリードするアメリカの威信は衰えている。
       中国はアメリカの「スペイン風邪」「コロナウイルス」「米軍基地内の感染拡散」
       を捉えて、「再三」としたのだろう。

       それにしても、日本には米軍基地が多すぎる。
       特に沖縄は9施設、山口県岩国基地、長崎県佐世保基地、東京都横田基地、
       神奈川県横須賀基地及び厚木基地、静岡県キャンプ富士、青森県三沢基地。
       沖縄を初め、横田、横須賀、三沢基地周辺での感染者が増えている。
       はからずも、基地に依存する日本の平和は、
       どこかいびつな平和であることを露呈してしまったコロナ禍である。

       (昨日の風 今日の風№132)      (2020.110記)

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パラリンピック⑦ 忘れ得ぬ選手たち④

2021-11-29 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック⑦ 忘れ得ぬ選手たち④    
   挫折からの出発
   大矢勇気(東京パラ出場時・39歳)
       東京パラリンピック陸上男子100メートル車いすのクラス(T52)。
              Tはtrack(トラック)のT、52は障害の程度を表し51から57のクラス分けがあります。
       数字が小さいほど重い障害になります。従って大矢勇気さんは、〈トラック競技の重度の
       クラス〉ということになります。

   

  最初の試練は、中学三年の時。
  脳腫瘍に襲われ、治療の結果高次脳機能障害が後遺症として残った。
  競輪選手になる夢は、ドクターストップであきらめざるを得なかった。
  落ち込む勇気に、兄3人と勇気を育てたシングルマザーの母の言葉。
  「他のスポーツもある。人生はこれからやで」
  この言葉に励まされ、彼は定時制高校に進学。
  兄と工事現場で働き、家計を助けた。

  1年も経たないうちに第2の試練が彼を襲う。
       ビルの解体工事をしていたとき、仕事中に8階から転落。
  脊髄を損傷、1カ月意識のない状態が続き、下半身が動かなくなると宣告され、
  家族みんなが泣いた。
  
車いす生活を余儀なくされる。
  両手指にも機能障害が残った。
  高校1年、16歳の冬は第2の試練の冬でもあった。
「人生が終わった」
  考えることは自殺することばかりだった彼が車いす陸上を始めるようになったのは、
  作業所の同僚からの進めからだった。
  練習には母が毎回付き添ってくれた。

  8年後、日常用の車いすで全国障害者スポーツ大会に出場しました。
  競技用の車いすに乗るほかの選手にあっという間に置き去りにされて最下位に終わり、
  負けず嫌いの心に火がつきました。

  第三の試練。
  2009年、母の体調に異変が起きた。
  末期の肺がんが母を襲った。
  彼は練習を止め、入退院を繰り返す母の看病に付き添った。
  2011年7月10日、最愛の母が亡くなった。
  この日は、ロンドン・パラリンピックの選考会だったが、
  彼は母の側を離れず、選考会は棄権した。
  亡くなる数日前、母は兄に弟・勇気への言葉を託した。
「勇気を世界へ連れていって」
  母の最期の言葉になった。
  
  母亡きあと兄弟たちの二人三脚が続き、
  3度目の挑戦で東京大会の代表に選ばれた。
  初めてのパラリンピックの舞台、陸上男子100メートル車いすのクラスT52
の決勝に出場。
  スタートから勢いよく飛び出してトップを争うレース展開。
  彼の持ち味を生かせる場面だ。
  トップを走る。
  だがレース中盤、アメリカのレイモンド・マーティン選手に抜れた。
  目指した金は取れなかったが、世界のひのき舞台に立ったのだ。
  「お母さん ありがとう。そして、彼を支え続けて来た兄たちにありがとう」
  
  たびかさなる挫折を乗り越えて、
  大矢勇気が勝ち取った銀のメダルは、
  金に劣らず素晴らしい輝きを放っていた。

(昨日の風 今日の風№130)        (2021.11.28記)

 
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パラリンピック⑥ 忘れ得ぬ選手たち③

2021-11-23 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック⑥ 忘れ得ぬ選手たち③
  

   (パラサポWEBより引用)              (常陽リビングニュースより引用)
          
   (ブラインドサッカー 佐々木ロベルト泉・背番号3)
   佐々木ロベルト泉 (43歳) 
     ブラジル・サンパウロ出身の日系三世 茨城県牛久市在住 

  長野県出身の両親を持つ日系2世の父親と、
  ポルトガルからブラジルに移住してきた母親のもとに生まれた。
  16歳の時、グアバやマンゴー、アボカドを栽培する農園を営む父が脳梗塞で倒れ亡くなった。
  
「お母さんとお姉ちゃん、妹の面倒を見てくれ」、父の最後の願いだった。
  18歳、1997年2月仕事を求めて祖父母の故郷日本へ。
  家計を助けるために来日。
  工場などで働き、母に仕送りを続けていた。

  2006年、来日10年目の秋に夜勤に向かう途中、
  交通事故で心臓を損傷し生死をさまよった。
  心臓に2カ所穴が開き顔面骨折する重傷を負い、
  長い昏睡(こんすい)から目覚めたのは16日後だった。
  そこに待っていたのは信じられない現実だった。
  視界は真っ暗で何も見えない。
  一体何が起きたのか。
  逡巡するロベルトに過酷な現実を妹が知らせた。
  心臓の手術が優先されたため目の手術は間に合わず、
  炎症を起こした両目の眼球は摘出するしか選択肢が残されていなかった。
       「あなたはもう見えない。眼球がないの」
  「人生、終わった。涙が出た」
  しかし、たった5分で思い直した。
  「神様は命を助けてくれた。意味があるはずだ」(朝日新聞より引用)
  
   
  天性の陽気さと、人生に対する積極性がロベルトを次のステップに向かわせた。
  事故から1年後の07年夏には富士山登頂に成功するほどの回復ぶりを見せた。
  「日本で一番高い山に登ったんだから、この先どんな困難も乗り越えられる」と自信につなげた。
  小さなステップを越える、その繰り返しが小さな自信につながっていく。
  光を失ってから3年後の2009年、筑波技術大学に入学。
  同時に5人制サッカー(ブラインドサッカー)を始めた。
  試合中の対人との衝突の怖さはしばらく続いたが、
  幼少期のサッカーの楽しかったことなど思い出し、着実に成果を上げていった。
  2014年、日本国籍を取得、同時に東京パラリンピックの日本代表に選ばれる。
  「父さんの死や事故から人生は1秒で終るとわかった。だから目の前のことを100%頑張る」

  初めて出場したパラリンピックで日本代表チームは1次リーグを1勝2敗、
  順位決定戦でスペインを破り5位入賞。
  メダルには届かなかったが
最高の舞台で家族のような仲間と戦えたことは素晴らしい経験だった」と振り返る。
 多くのパラアスリート達が競技の成績もさることながら、
 「素晴らしい経験」、「連帯」、「共生」、「信頼」等の体験を大切にし、
 さらなるアスリートの道を究めようと進んで行こうとする姿勢は素晴らしい。
 「大変なことがあっても、次はいいことがある」と言うその裏には、
 絶対にあきらめない強い意志と、くじけずに生きていこうとする一途な思いがある。

    参加競技の戦績を人生の貴重な体験として、
 次へのステップを踏んでくパラアスリートの姿に声援を送る。

             5人制サッカー(ブラインドサッカー)について』
              ゴールキーパー以外はアイマスクを着けてプレーする。監督やキーパーの声を頼りに音
                 が鳴るボールをゴールに運ぶ。音や声が失われた視覚の代わりとなるから
チーム内の密
                 なコミュニケーションや信頼関係が大切。「仲間を信じてこの場所、この瞬間に一緒に
                 プレーできることが一番の魅力」とロベルトは言う。

    (昨日の風 今日の風№129)  (2021.11.22記)

 

 

 

 

 

 

 



 

 

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クレイジーでいこう。

2021-11-12 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

クレイジーでいこう。
  2021.10.26の朝日新聞朝刊の広告に、紙面一面+1/4の大きな広告が掲載された。
 表題のタイトルの大きな広告だ。
 物品の販売を目的とする広告
でもなく、特定会社のイメージ広告でもない。

 よく見ると画面の下に社名らしき英文字が三つ横並びに印字されている。
 これを見てもどんな団体なのか見当がつかない。
 【クレイジーでいこう。】と大きく印字されたその横に、gocrazy-project.comの文字が見える。
    QRコードもあり、調べてみると
 GoCRAZY Projectは、
 FRACTA、Whole Earth Foundation、Menlo Park Coffeeが連盟となってスタートした
「世の中をもっとよくするクレイジーな人やアイデアを応援する」プロジェクトです、とある。
 つまり、上記の三つの団体が起こした、社会活動であり、文面は「世の中をもっとよくする」
 ための啓蒙広告である。
 興味を引く内容なので以下に紹介します。

皆と同じで安心している自分を許していないか。
それは、意志じゃなく、傍観だ。 そのフィルターをはずそう。
心地よいバブルから抜け出そう。
意見を表明する。
嫌われる勇気を持つ。
賛同も反発もある。
それでも、本当を言わないことを恥ずかしいと思ってみると、
ちゃんと怒ることが、カッコ悪いことだとは思わなくなる。
スルーすることが、安心だと思わないこと。
同調することが、安全だと思わないこと。
世界をつまらなくて苦しくするのは自分だし、
おもしろくてやさしくするのも自分だ。
それが、クレイジーで行くということ。
それは、つながっていくということ。
分断を嫌おう。
集まろう。
好機はきっと増える。
クレイジーで行こう。
その先に見えるのは、大きく世界を変える何かだ。
その先にあるのは、
あなたの思いとテクノロジーが変えていく、次の世界の入口なのだから。

 これを読んで、「うん、そうだよな」と肯定するのはいいのだが、
 「ちょつと待てよ」としばし躊躇する。

 この世の中、生きていくのをつまらなくするのも、楽しくするのも
 そして、おもしろくて、やさしくするのも自分だ。
 なるほど、しっかりと自分の足で立ち、両目を開いて
 自分の眼で見ることの少なくなった社会に私たちは生きている。
 ワイドショーで聞いた知識を切り売りする似非評論家のコメントを
 さも、自分の考えのように錯覚してしまう現実がある。
 「受け売り」をしているのに、自分の意見のように錯覚してしまう現実がある。
 
テレビドラマ「ドクターX」を思い出した。

 ドクターXに学ぶ

  天才的な腕を持ちながら組織に属さず、病院を渡り歩くさすらいの女外科医。群れを嫌い、
 権威を嫌い、束縛を嫌い、専門医のライセンスと叩き上げのスキルだけが彼女の武器である。
 職場で孤立し孤立無援の境地に立たされても、
 誰かが手を差しのべ、
 「たたき上げのスキル」に裏打ちされた自信が
 「私、失敗しないので」という台詞を彼女に言わせる。
 自由気ままに生きていく彼女を理解する仲間たちもいる。
 私生活では雀卓を囲んで馬鹿騒ぎをしたり、
 食べたいものを大口を開けて食べる行儀の悪い彼女を認めてしまう仲間もいる。

 文面にあるようなことをすれば、
 それは「クレイジー」な生き方になってしまう社会の在り方が問題なのかもしれない。 

   ドラマの中で作られたバーチャルヒロインとはいえ、
 権威と策謀の渦巻く白い巨塔の中で、
 群れから離れ、正しいことは正しいと正義を貫く大門未知子に共感を覚える。

 「私、失敗しないので」と自信に満ちた言葉を投げつける。
 「いたしません」と、理にかなわない指示を平然と断り、
 「時間ですので」と、平然と定時に退勤してしまう。
 嫌われることを怖れずに、胸のすくような啖呵を切る。
 ピンヒールの靴音高く、風を巻き起こすように病院の廊下を闊歩し、
 白衣をひるがえして歩く姿に、
 視聴者は自分たちの胸のうちでくすぶる薄汚れたしがらみの中で、
 生きていかざるを得ない自分の代弁者のように行動できる大門未知子に、
 無意識のうちに拍手している自分に気づく。

 一人ひとりが「クレイジーでいこう」と行動を起こせば、好機は必ず訪れ、
 その先に見えてくるのは、「次の世界の入口」なのだと、GoCRAZY Projectは
 啓蒙の言葉を広告という形で意思表示しているのだろう。

 大門未知子のように、華々しい活躍はできないけれど、
 せめて自分の生き方に、
 豊かな感性と優しさだけは忘れないように生きていければいいと思う。

   (昨日の風 今日の風№128)    (2021.11.11記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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パラリンピック⑤ 忘れ得ぬ選手たち②

2021-11-09 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック⑤ 忘れ得ぬ選手たち②
     スメエ・ボヤジ(18歳
)  競泳  トルコ

(写真・朝日新聞)
イルカのように泳ぐ
  2003年トルコに生まれた。
  生まれつき両腕がなく、股関節が脱臼していた。
  推測で申し訳ないが、おそらくこの状態がボヤジにとって普通の状態なのだろう。
  両腕がないことをコンプレックスにしなかったボヤジの積極性が
  今日のボヤジを作って来たのだろう。
  そのために必要だった天性の明るさと、
  好奇心の旺盛さが今のボヤジを形作ったのだろう。
  おそらく両親のバックアップもあったのでしょう。

五歳のころ、水族館で魚を見て泳ぐことに興味を抱いた。
魚は腕がないのに泳げて、すごいと思った。

  母親に背中を押され、リハビリを兼ねての水泳を始め、以来はまっているという。

  そして、2020東京パラリンピック
  8月25日、200㍍自由形で7位を獲得。
  続く26日、競泳女子100㍍自由形(運動機能障害S5)予選。
  イルカのように体を動かしながら水の中を進んで行く。
  水泳というよりも、
  人魚が力強く泳ぐようにボヤジは、
  水の中で肢体を流線形つくり若鮎のように水に乗る。
  全力で泳ぐボヤジ。
  しかし、勝負は勝負だ。技術を伴った力と力のせめぎ合いだ。
  予選落ち。

  水泳だけではない、ボヤジの興味の範囲は可能性を求めて、
  足を使って料理を作り、糸と針で服を縫うことも出来る。
  もちろんミシンを使うことも出来る。
  水彩画の技法で絵の具を水に浮かべて模様を作る『墨流し』は、
  個展を開くほどの腕前。

 できないことなんてない。私たちができることを、その力を見せつけてやろう

 次のパラリンピックに向けて、ボヤジは果敢に挑戦を続ける。
 ボヤジにとって、『生きること』そのものが挑戦なのだから。
  (昨日の風 今日の風№126)     (2021.11.8記)

 

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パラリンピック ④  忘れ得ぬ選手たち①

2021-10-23 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック  ④   忘れ得ぬ選手たち①
   パラリンピックに出場したアスリートをシリーズで追ってきた。
   
パラリンピックが幕を閉じ、メディアの報道から、
   オリンピックやパラリンピックの記事が消えてから久しい。
   ブログ掲載するには、時期おくれであり、掲載を躊躇したのだが、
   やっぱり、今掲載しておかないとパラアスリートたちの活躍や
   障害に対する考え方を紹介するする機会がなくなってしまうので
   後数回にわたり掲載することにしました。

(写真諫山卓弥・朝日新聞)
エマニユエルニーテティ・オク(30歳) ガーナ
    パワーリフティング男子72㌔級(運動機能障害)に出場。
     1回目 160㌔
     2回目 失敗
     3回目 失敗
     三回目の試技が終わると、関係者が座る会場に向かって何度も頭を下げた。
     メダルには届かなかった。
     7位の成績は、彼にとっては『栄光』の7位だったのだろう。
     2020東京パラリンピックの栄光の舞台に参加できたことへの感謝の気持ちなのだろうか。
     
「力をすべて出した。ここで競うことが夢だった。たどり着けて光栄だ」
     持てる力をすべて出し切って勝ち取った7位。
     この大会に参加できたことが、オクにとっては最大の喜びであり、
     名誉の参加だったのでしょう。
        ※
足などに障がいのある選手が参加し、持ち上げたバーベルの重さを競う。
         専用の台にあおむけに
なって行うベンチプレスのみで競われる。
         3回の試技で最も重い重量が記録となる。

         
選手の入場からバーベルを構えるまでの時間は2分間と決められ、
         オーバーすると失格となる。
         2分間で選手は専用台にあがり、準備をしながら集中力を高めるが、
         声を出して気合いを入れたり、
         腕を上げたりと選手それぞれのルーティーンを見比べるのもおもしろい。
         そして、バーベルを胸まで下げて持ち上げるまでの時間は約3秒。
         このわずかな時間に選手はこれまで培ってきたトレーニングの成果を爆発させる。
                          (NHKの競技・パワーリフティングを要約)

    2013年、オクはガーナの町で城の警備の仕事をしていたとき、
 事故が起こり銃弾はオクの左足太ももを貫通し、傷は深く足は切断された。

 2016年のリオデジャネイロ大会をテレビで見たのが契機となり、
 パワーリフティングのアスリートをめざすようになった。

 2004年パラリンピックに初めてガーナから選手が出場したのがきっかけとなり、
 障害がある人への理解がすこしづつ芽生え始めた。
       ※ガーナの人口は約3042万人。そのうち、障害のある人は約500万人。先進国の割合よりも多く、
         差別や偏見が経済的な格差を生むみ、貧困の原因にもなっている。
     
 「ガーナでは障害がある人はまだ家や学校のクラスに閉じこもっていることが多い。
 活動にあまり参加したがらない。そんな人たちの気持ちを何とか変えたい」
 
 パワーリフティングのアスリートとして、自分が競技に参加することで、
 社会的な接触をさけ、内に閉じこもりがちな障害を持つ人の気持ちを変えたい。
 7位に終わった東京大会だったが、悔いの無い競技ができたことに、
 オクは大会へ参加できたことに感謝したのだろう。
 
 新しい動きがあった。
   東京大会の開会式と閉会式がサハラ砂漠以南の49の地域で無料で放映された。
 嬉しいことであり、特にアフリカ選手の活躍を52分間の特集で毎日放映されたことだ。
   しかも無料放映である。日本ではNHK以外は、無料放映が常識だが、
 これらの国や地域では原則有料放映である。
 番組制作の意図は、
 「アフリカに根強くある障害がある人への間違った認識を変えるための取り組み」と
 朝日新聞は伝えている。
 アフリカ全体で2億5千万人以上が視聴することになるとも。

 オクはこだわる。
 「パラリンピアんが話題になって、障害がある人への偏見をなくす闘いに大きく貢献すると思う。
  自分もその活動の一部になれたらいい」

 東京パラリンピックでの選手の活躍は、私たちに楽しさと勇気、感動を与えてくれました!
 更に依然として存在する障害と偏見、差別について深く考える機会を与えてくれました。
 2024年の開催都市のパリ大会に、再びエマニュエルニーテティ・オクの
 元気な姿を見せてくれることを期待しています。
                                  参考記事: 朝日新聞Why I´m here(だから私はここにいる) (NHK ウェブニュース)
                                  (つづく)
   (昨日の風 今日の風№125)      (2021.10.22記)

    過去ログ のパラリンピック・アスリート関連記事
   2021.08.29記事「はじまりの日 パラリンピックを観て」
            オリパラリンの意味ゃ スポーツの意味を探るための答えを考えてみた。
     2021.09.08記事「難民選手団①栄光のスリーアギスト・大会旗」 
                               「スリーアギトス」と呼ばれている、パラリンピックのシンボルマークに込められた
                                 意味について考えてみました。
         2021.09.12記事「難民選手団②多くの困難を乗り越えて」
                             「国を超え、障害を乗り越え、単にスポーツ技術だけでなく、スポーツを生きる希望
                              として切磋琢磨する者」を紹介。
         2012.09.27記事「③プロパラアスリート 山本(38歳)」
               プロとして活躍するアスリートの生き方から、たくましく生きる山本の姿を紹介。

 

 

 

 

      

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皆で担いだ「菅義偉神輿」を落とした責任

2021-10-16 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

皆で担いだ「菅義偉神輿」を落とした責任

   「菅義偉神輿」を落とし「新しい神輿を担ごう」と
   若手自民党議員から声が上がった。と一般的に言われているが、
    そのたてた声を操ったフィクサーは誰だ。

 
 10月に入ってから政権交代があり、
  タイミングよくコロナの感染も徐々にではあるが終息に向けて舵を切ってきたようだ。
  14日には衆院解散、19日公示、31日投開票と慌ただしい日々が続いていくだろう。

  岸田政権が発足したが、組閣人事を見ても、公約に基づく所信表明を見ても、
  かわり映えがしない。
  「モリカケ問題」を霧の中に葬り、
  コロナ禍を放り投げるような形で退いた、安倍長期政権の後、
  コロナ禍の真っ最中、
  その苦労をそっくり受け継ぐように貧乏くじを引き、
  開催反対のオリパラを無観客で強行開催。
  答弁や記者会見などの稚拙さの実を取り上げて、
  メディアや野党のあげ足取りの論調に火をつけたのは、
  実は自民党ではなかったのか。


  「コロナ禍対策に専念したい」というような菅義偉前総理の取って付けたような理由を
  真に受けたわけでもないのに、菅政権のもとでは衆院選は勝利できないと、
  皆で担いだ菅義偉神輿を、今度は神輿の担ぎ棒を皆で放り投げてしまう。
  皆で担ぎあげた菅神輿なら、祭り(政)を維持し成功させるのも、担ぎ手の責任と思うのだが、
  担いだ時の「説明責任」も果たさずに、全ての責任を菅義偉氏に押し付け、
  自己保身の選挙運動に走る姿は、
  まさに魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する永田町の住人たちの
    おぞましさと浅ましさを見る思いである。

  「俺たちが担ぎ上げた菅義偉神輿」なんだから、
  「担ぎ上げた者として、沈みかけた神輿をもう一度力を合わせて担ぎ上げようではないか」と
  声を大にして叫ぶ者はひとりもいなかったのかと、非常に残念に思う。

  菅政権の足跡をたどれば
      
① ワクチン接種率世界トップクラスの水準へ 
     ②    2050年脱炭素社会を実現
               
③ 安全保障上重要な土地の利用を制限する法律成立 
               ④ 最低賃金過去最高の引き上げ
      
⑤ アメリカによる福島県産の米や牛肉など日本産食品の輸入規制を全面廃棄

                ほかにもある。
携帯電話料金の大幅値下げ 、 不妊治療の保険適用へ、デジタル庁発足   
                福島第一原発処理水問題に結論(突然の結論で、特に漁業関係者からの反対も多いが、
    安倍政権が避けていた問題の糸口に方向付けをした点で評価したい) 。
    日本 学術会議の会員候補者6人を任命しなかったことも、
    日本学術会議という組織の意義について一石を投じたと思われますが、
    説明責任が不足していたという欠点はあります。

    菅政権の成り行きをもう少し、温かい目で見守り、「守り、育てる」という姿勢があれば、
    菅政権の行方も、
              もう少し評価されるような政策の展開を予測することも出来たのではないかと
    少し残念な気がしています。

    さて、「岸田政権」。
    「新しい資本主義」とか、「成長と分配の好循環」などと、
    ちょっと意味の解らない言葉が目立ちすぎます。
    「(岸田)首相、最大争点はコロナ対策」(朝日新聞10/15一面サブタイトル)を謳い、
    「この夏の2倍程度の感染力に対応可能な医療体制を作っていく」と言っているが、
    それはそれで結構なことではあるが、
    現在「コロナウイルス」は急激にその勢いを失くしています。
    重点政策には違いないが、経済の立て直しを第一に挙げてもよいのではないか。
    
    ここはまず、「成長の果実が幅広く行き渡る『成長と配分の好循環』を実現する」という
    『未来選択選挙』の成り行きを見守りたい。

    (昨日の風 今日の風№124)        (2021.10.15記)

 

            

 

       

 


  

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パラリンピック ③ プロパラアスリート 山本(39歳)

2021-09-27 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

  パラリンピック ③ プロパラアスリート 山本(39歳)

                    パラリンピック陸上男子走り幅跳び 闘志が燃える
 

 山本は、講演会で紹介されるとき、「プロパラアスリートの山本」と依頼する。
 
 山本 篤の略歴
   小学生では野球、中学生と高校ではバレーボールをしており、
     高校時代の垂直飛びでは1mを超える驚異的なジャンプ力を持っていました。
          2000年3月、
      高校2年生の春休みにスクーターで事故を起こし、左脛骨を粉砕骨折する大けがを負い、
      手術で左足を大腿から切断しました。
      大腿から切断。衝撃的で、精神的にも大きな打撃を受ける出来事でしたが、
      「今、写真撮っといたほうがいいんじゃない?」
      「僕が有名になったときにその写真使えるよ」と当時のエピソードが
      インタビュー等で語られています。
      
高校2年にの春、16歳の青春真っ只中の少年が母に向かっていった台詞は、
      左大腿を失った衝撃に負けまいとする強がりと、
      母を安心させるための優しいセリフだったのではないだろうか。
      と、当時の山本篤の心境を推測しているのですが、
      それにしてもこの心の余裕と、前向きの姿勢に私は驚いています。

  だが、その後の山本の人生行路は、まさに前向きに意欲的に歩んでいることに感動する。
  大腿部切断は、山本の人生の大きな転換点になった。
  高校卒業後に山本は義足との出会いから、義肢装具士になるための専門学校に入学し、
  そこで、競技用義足と出会った。
  失った左足の機能をカバーする「競技用義足」に、山本は生きる目標を見つけた。
  陸上競技を始めるのに時間はかからなかった。
  背中を押してくれた義足サポート研究者の稲葉さんの勧めもあって、
  陸上競技の道に入るのに迷いはなかったようです。
  義足装具士の国家資格を取得し就職も決まっていましたが、
  2004年4月に大阪体育大学体育学部に入学することに。
       そこで入部した陸上競技部では走り幅跳びで日本記録を塗り替え、
       世界ランキング上位の実力を見せつける。

  2008年 スズキ株式会社に入社、スズキ浜松アスリートクラブに所属。
    同年 北京パラリンピックで走り幅跳び銀メダル獲得
                    (義足の陸上選手として日本初のメダリスト)男子100㍍ 5位
      その後、大阪体育大学大学院体育学博士課程に進み運動力学を研究する。
      義肢装具士の国家資格を持ち、
      義足の改良を行い、自己日本記録を更新し続けた。

  
2012年 ロンドンパラリンピック
       
男子走り幅跳び(F42-44) 5位 男子100m(T42) 6位 男子200m(T42) 8位

2016年 リオパラリンピック
     
男子走り幅跳び 銀メダル 男子4×100mリレー(T42-47) 銅メダル 男子100m(T42) 7位
2017年 大きな転機と飛躍の年になりました。
     9年間務めた自動車販売会社スズキを9月に退社。
     「(スズキでは)練習、競技環境は恵まれていた。でも、会社員を辞めてプロになる、
     パラでもそんな道があることを示したかった」
          「プロアスリートになることで社員アスリートより崖っぷちになる。
                  競技成績を残さなければいけないですし、発信力もものすごく大切になってくる。
                 でも守られた中でやるよりも、プロとして後がない環境を作ることで
                自分自身を少しでも追い込んでいけるのではと思った。
                しっかりと自分の中で覚悟を持って進んでいく。
                その姿を若いアスリートにも見てもらいたかった」 

      同年10月神戸の新日本住設とスポンサー契約を結び、プロアスリートとして活動開始。
   新たな出発と挑戦。
             スポンサーとの契約は、生活費と競技活動費を合わせて年俸1,500万円でお願い。
     するとスポンサー側から年俸に加えて『パフォーマンスボーナス』
     という出来高契約の提示をされた。
     パラリンピックで金メダルをとれば3,000万円、銀メダルで1,
000万円、銅で500万円。
      「僕をアスリートとして認めてくれたことがうれしい。実勢を積み上げれば、お金は稼げる」
      「プロって僕が思うのは、一番は影響力を持って行動できる人、そしてそれを発信できる人」
                                  (朝日新聞8/29付記事から引用)
     
   2018年 
平昌(ピョンチャン)冬季パラリンピックでは、スノーボート競技の日本代表として出場

   2019年 ドバイで開催された世界パラ陸上競技大会走り幅跳びで銅メダルを獲得し、
                         2020年東京パラリンピック出場が内定。

        2020東京パラリンピック
    

    4大会連続出場となる山本篤 陸上男子走り幅跳びでメダルは逃したが日本新記録で4位を獲得。
    記録は、自身の日本記録を5センチ超える6メートル75。
     4位入賞だがいま一歩メダルには届かなかった。
     競技前の朝日新聞インタビューにメダル獲得のボーナスの使い道について、
     「足を亡くした子どもの義足の資金にしたい」という希望はかなわなかったが、

    足を亡くした子どもたちとの交流を深めたいと、また競技や社会的活動に山本自身が
     どこまでか変われるかを試したいと、前向きで積極的な姿勢は変わらない。

    プロに転向してからの収入や報奨金などを公表している。
    プロ転向後、900万円の高級車の購入なども明かしている。
    年俸が公開されることで憧れを持たれるプロ野球選手のように、
    後進のパラアスリートに夢を持ってもらいたかったと話している。
    

    メディアに東京2020大会で引退と報じられたが、メディアの一方的な思い込みで、
    山本には引退の気持ちはないと否定。
    だが39歳という年齢を考えれば、幕の引きどきを考えてもおかしくない年齢だ。
    ひたすら走り続けて来た山本が、今後どのような社会参加をし、
    どんな人生を歩んで行こうとしてるのか見守っていきたい。

     (昨日の風 今日の風№123)       (2021.9.25記)

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