雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

パラリンピック 難民選手団 ② 多くの困難を乗り越えて

2021-09-12 07:44:48 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック 難民選手団 
        ② 多くの困難を乗り越えて 


オリンピックでは若い10代の選手の活躍が多く見られましたが、
 パラリンピックでは中高年選手の活躍が多くありました。
 例えば、最終日の5日、日本選手団で最高齢・視覚障害がある西島美代子さんは66歳です。
 
 レースの終盤では両足がつり何度も立ち止まり、伴走者と声を掛け合いながら、
 42.195㌔を完走しました。栄光の8位入賞でした。
『自らの可能性に挑むそんなパラリンピアたちの姿は、障害や世代、性別、
 国籍を超越した人間の「個」としての尊さを伝え、
 一人ひとりの違いを認め合うことの大切さを体現していた』(朝日新聞9/6記事)
 国を超え、障害を乗り越え、単にスポーツ技術だけでなく、スポーツを生きる希望として
 切磋琢磨する者にとって年齢の差はないのかもしれない。
 オリンピックが失いつつある、オリンピック精神をより強く反映しているのは
 パラリンピックなのかも知れない。


イブラヒム・フセイン選手
  
     
フセイン選手はシリア出身。
   東京2020パラオリンピック競泳男子100㍍平泳ぎ出場。32歳。
   シリア東部のデリゾールで生まれ、水泳コーチだった父の影響で、五歳から泳ぎ始めた。

 アラブの春に右足を失う
   2011年、「アラブの春」と呼ばれる民主化運動がシリアに波及し、やがて内戦に発展した。
   スポーツ施設は閉鎖され大好きな水泳はできなくなった。
   街には毎日のように爆弾が落ち、インフラ設備も破壊され、食料も途絶えがちになった。

   2012年、狙撃手に撃たれた友人を助けに行き、
   近くに砲弾が落ち、右足の感覚を失いひざ下から切断した。
   身の危険を感じトルコに逃げたが、十分な治療は受けられなかった。

   2014年、戦火を逃れ、密航を斡旋する非合法業者に依頼し、
   ゴムボートでエーゲ海を渡り、ギリシャのサモス島に渡り、亡命を果たした。
   トイレ掃除の死後とも見つかり、住む場所も決まった。
    ここまでになるのに、多くの人の善意があったという。
    移動や旅費は周囲の人たちが助けてくれた。
   もちろん、医師の協力は今のイブラハム・フセインのアスリートとしての出発に
   大きな貢献をしたに違いない。
   こういう周囲の善意や支えがあったから、意欲的に水泳に取り組むことができたのだろう。
   才能は少しずつ開花していく。

   2016年リオデジャネイロ・パラリンピック大会では、初めて結成された難民選手団に選ばれ、
   旗手を務めた。
   足を失ってから約9年が過ぎ、うつの症状に悩み、生きる意味も失いかけたが、
   「スポーツをやっているときは気分が和らいだ」と心の内を述懐する。
   壮絶な人生を振り返りながら、
   「難民だって新たな可能性をつくっていける」と、決意を新たにする。

   7月29日の
50メートル自由形運動機能障害のクラスの予選に臨んだイブラヒム・ フセイン選手は、
   世界記録を持つ選手が引っ張る速いレース展開の中、最後まで食らいつき、
   30秒27のタイムで、この組の8位でした。
   決勝に進むことは叶いませんでしたが、
   「スポーツは私を突き動かす、人生になくてはならないものです。
   すべての難民にスポーツをする機会を与えてほしい」と意欲的である。

   かつてシリアで命を救った友人にはいま3人の子どもがいるということで、
   イブラハム・ フセイン選手は、
   「彼が幸せでいてくれることが、私にとっても生きがいになっている」と話しています。
                                (
イブラハム・フセイン選手の項目は、中日新聞、朝日新聞WEBニュースを参考に構成しました)
   
  国際パラリンピック委員会によると、紛争から迫害から逃れ、
  家を追われた人々はこの10年で大幅に増え、現在は世界で8200万人を超える。
  このうち約120万人が傷害があるという。
                                            (おわり)

        (昨日の風 今日の風№123)                  (2020.9・11記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パラリンピック 難民選手団 ① 栄光の「スリーアギトス」大会旗

2021-09-08 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

パラリンピック 難民選手団 栄光の「スリーアギトス」大会旗

                   (お台場の海浜公園会場に設置されたシンボルマーク)
     このパラリンピックのシンボルマークは何を表しているのでしょう。
「スリーアギトス」と呼ばれています。
「アギト」とは、ラテン語で「私は動く」という意味で、
困難なことがあってもあきらめずに、
限界に挑戦し続けるパラリンピアンを表現しています。
赤・青・緑の三色は、世界の国旗で最も多く使用されている色ということで選ばれました。
                   
(日本パラリンピック委員会ホームページより引用)

アスリートたちが、自分の身体能力を可能な限り引き出し、
自由に飛び跳ねているようなイメージが湧いてきます。
赤は情熱を
青は自己主張と責任を
緑は若葉の輝きをイメージしているようにも思います。

現在のパラリンピックシンボルマークは2019年から使用されています。


     難民選手団
   聴きなれない名称だが、難民選手団の結成は、オリンピック・パラリンピックを通じて
   前回2016年のリオデジャネイロ大会が最初です。
   紛争などで母国を離れざるを得なかったアスリートたちに、
   スポーツの場を提供することを目的として結成されオリパラ両方に派遣されました。
   パラリンピックにはシリアとイランからの選手2人が出場しました。

   さて、東京2020パラリンピックでは、 IPC(国際パラリンピック委員会)は内戦が続く
          中東・シリア出身の選手など4つの競技の選手6人を派遣 をきめました。
   陸上、競泳、カヌー、テコンドーの4つの競技に男子5人、女子1人の合わせて6人の選手です。
 開会式 閉会式の入場行進
     
   (開会式)                  (閉会式)
   入場行進は開会式共に、閉会式共に難民選手団が飾りました。
   翻った旗は、「スリーアギトス」のロゴが入った、パラリンピック大会旗です。
   開会式で栄光の旗手を務めているのは、アバス・カリミ選手。24歳。
   身体に「スリーアギトス」の大会旗を体に巻き付けての栄光の入場です。
   自国の旗でないのは残念ですが、
   政治的困難、社会困難、身体的困難、精神的困難等多くの困難を乗り越えての
   「東京2020 パラリンピック」入場です。
 
アバス・カリミ選手
  生まれつき両腕がないアバス選手は、13歳の時、兄が造ったプールで泳いだのが
  水泳に関わるきっかけでした。両腕のないアバスにとって水泳は両足を巧みに使って
  自由に動き回ることができた最高の遊びになったのでしょう。
  「その日から水泳はアバス選手のオアシスとなりました」(NHKの紹介文)。
      タリバンなどの武装勢力から逃れて競技に打ち込むため、
     16歳のとき、家族を残して1人でトルコに亡命し、
  イスタンブールの難民キャンプに滞在しながら水泳を続けました。
  その後、練習拠点をアメリカに移し、
  2017年にメキシコで開かれた世界選手権では銀メダルを獲得しました。

      
 今大会では、男子50メートル バタフライと男子50メートル 背泳ぎに出場。
 競泳男子50メートル背泳ぎ(運動機能障害S5)予選に出場した。
 1組7着で、50メートルバタフライに続く決勝進出は逃したが、
 初出場のパラで確かな足跡を残した。
 どちらの競技も両腕のないアバス選手は、足と背筋を巧みに使って競技に挑みました。
 「神様は誤って私の腕を奪いましたが、足に才能を与えてくれたと思っています」
 なんと素晴らしい言葉でしょう。(2016年からアメリカ在住) 

閉会式の入場の旗手は、アリア・イッサ選手です。
 
 車いすに大会旗の「スリーアギスト」を取り付けてのトップ入場です。
 20歳のアリア・イッサ選手は、パラリンピック参加選手の中で最年少です。
 2015年に家族とともに難民認定されました。
 4歳の時に高熱により脳に障がいが残ったため、身体的、知的障がいがあります。
 幼少期はうまく言葉を話すことができず、学校でいじめられることもありました。
 2019年に本格的にこん棒投げを始めた「こん棒投げ」で、9選手中8位で入賞。
 史上初の難民女子パラリンピアンとして東京2020パラリンピックに名を残した。
    ◇ こん棒投げ =パラリンピック独自の投てき種目。ボウリングのピンのような形をした木製の棒
      (長さ約40センチ、重さ約400グラム)を投げ、飛距離を競う。握力が足りず、やり投げや
       円盤投げなどに参加できない選手のために考えられた。今大会で使うこん棒の一部は、
       東京都立工芸高校の定時制課程の生徒が製作した。

                                   (つづく)

     (昨日の風 今日の風№122)      (2021.9.7記)







 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防災の日 忘れてはならない

2021-09-03 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

防災の日 忘れてはならない
       流言飛語と関東大震災の悲劇

 1923(大正13)年9月1日、
 午前11時58分相模湾北西沖80㌔を震源とする海溝型の大地震が発生した。
 これが関東大震災でした。
 190万人が被災、
死者・行方不明者は推定10万5,000人といわれ、
 犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県が占めていたと言われてます。
 建物被害は全壊10万9,
000棟
      
全焼約21万2,000棟

 唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しは「東京全市日の海に化す」
   「電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶」被害の甚大さが眼に浮かぶようです。
 つづいて3日付、「横浜市は全滅死傷数万」「避難民餓死に迫る」
 さらに4日付では「江東方面死体累々」「火責ぜめの深川生存者は餓死」等々。
 津波状況は鎌倉由比ガ浜で9mに達したところもあるが、
 津波と地震動の被害を分離することができないので、津波による明確な情報は判明しない。

 建物倒壊による圧死と、強風をともなった火災による死傷者が多くを占めていたようです。
 
  (東京・日本橋付近の震災状況)

 大災害や大きな社会的不安のもとでは、流言飛語が飛び交い、
 被害の状況を増々深刻なものにしてしまいます。
 この時も、「朝鮮人が襲ってくる」「井戸に毒を入れようとしている」などの流言飛語がまことし
 
やかに流れ、多くの朝鮮人や中国人が虐殺され、
 今でも「朝鮮人虐殺事件」として大きな社会問題になっています。

二百十日を「防災の日」とする
 今では耳慣れない言葉の一つになってしまいましたが、「二百十日」という言葉があります。
 立春から数えて二百十日目が9月1日にあたります。
 この時期は台風かよく来るので、台風が襲来し、
 稲作などが大被害を受けやすい厄日とされていました。
 9月1日の関東大震災と二百十日という社会的習慣を合わせて、
 「震災への備えを怠らないように」との戒めをこめ「防災の日」とし、
 1960(昭和35)年に「防災の日」が制定されました。

 全国各地ではこの日に地震や津波、火災などに備えた防災訓練が実施されるようになった。
 しかし、「防災の日」制定には、国家として政府が、災害に対して責任を持って国民の生活を
 護るという法的根拠がありませんでした。

災害対策基本法の成立
  1923(大正13)年9月1日   関東大震災 (37年後の「防災の日」の根拠となる)
    1959(昭和34)年9月26日 伊勢湾台風、紀伊半島先端に上陸。甚大な被害をもたらす。
                「災害対策基本法」制定の契機となるなど今日の我が国の防災対策
                                                     の原点となった。
         1960(昭和35)年     「防災の日」定まる
    1961(昭和36)年11月15日 
災害対策基本法」制定。
               総合的かつ計画的な防災行政の整備及び推進を図り、
               もつて社会の秩序の維持と公共の福祉の確保に資することを
               目的とする。
            具体的には、国土や国民の生命、身体及び財産を災害から保護するため
            国家が防災に関し、その基本理念を制定する。
            つまり、国家が防災から国民の生命や財産を守る責任があることを、
            明確にした法律ということが言えます。

    途中、戦争をはさみ関東大震災から実に38年を掛けてやっと、
    災害からこくみんの生命や財産を守る国家の責任が明記されたことになります。

    天災は忘れたころにやってくる……寺田虎彦
       1952年発行(文化人シリーズ) 10円
     寺田は物理学者として数々の業績をあげたが、防災学者として地震・台風・火山などの
     被災地を調査し、そこから得た教訓を一般向けの随筆に著した。
      次のような警句も残しています。
            正しく怖がることは難しい
            文明が進むほど自然災害が激烈になる
            災害は注意しだいでどんなにでも軽減できる
            用心しておけばその効果が表れる日がいつかは来る

      
      どんなに良い法律を作っても、
      防災に対する心構えや対策は国民一人一人の義務であり、
      責務であることを私たちは忘れてはならない。
      防災訓練や対策をおろそかにしてはいけない。

(昨日の風 今日の風№121)                  (2021.9.2記)

               

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はじまりの日 パラリンピックを観て

2021-08-29 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

はじまりの日 パラリンピックを観て
    

   どうすれば人は、
   困難と共に生きていけるだろう。
   東京2020パラリンピック、
   いくつもの答えがこの舞台に集う。
   この12日間はきっと、
   私たちすべての明日につながっている。
   世界がまだ知らない
   私たちの新しい強さを、ここから。
      8月24日 朝日新聞に掲載されたオリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会
      (東京2020組織委員会)の新聞広告だ。

   大会モットーは United by Emotion 
   「感動で、 私たちは一つになる」という意味でしょうか。
   ただし、この広告は
       TOKYO 2020 PARALYMPIC GAMES
           としてあり、下にパラマークがついているので、パラリンピック関連広告と理解できる。
   したがってオレンジ色文字で示したキャッチコピーは
   パラリンピック用に向けた内容になっている。
   

   障害を克服し、スポーツに情熱をそそぐアスリートたちの顔は一様に明るい。
   「金をとれずに、悔し涙のインタビュー」ゃ
   「力およばず銅メダルでの表彰台で、終始不機嫌な顔をする」というような
   オリンピック参加のアスリートの一部に見られた悲壮感は、
   パラ参加のアスリートには見られない。
   「期待に添えるために、真剣に持てる力と技術を最大限に発揮し競技に臨む」
   「その上で、自分も楽しみたい」。
   ここに見られるのは、障害を乗り越え、より高い精神の高みに到達したアスリートの
   余裕さえ感じる。
   力およばず実力を発揮できない結果に終わっても、インタビューの言葉は明るい。
   アスリートたちに求められるのは国歌や国旗掲揚ではなく、国家と国家の競い合いではない。
     
   障害を乗り越えて、アスリートとして晴れの舞台に立つまでに、
   人には語らないたくさんの苦労を乗り越えてきたはずだ。
   国籍が違い、話す言葉が違っても
   同じ競技を競う仲間と切磋琢磨する「集いの場」。
   私たちが忘れかけていた、オリンピックの精神とスポーツの原点を
   パラ・アスリートたちは私たちに見せてくれる。

      どうすれば人は、
      困難と共に生きていけるだろう。
      
      アスリートたちの姿がその答えを示唆しているように思う。
      いくつもの答えがこの舞台に集う。
      オリンピックの意味ゃ スポーツの意味を探るための答えを
      私たちも探ってみよう。
       (昨日の風 今日の風№121)       (2021.8.28記)
        

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「麒麟が来る」 光秀が見た夢 ④ 三年後 光秀に夢を託して

2021-03-02 06:34:55 | 昨日の風 今日の風

「麒麟が来る」 光秀が見た夢 
          ④ 三年後 光秀に夢を託して
 (前回まで) 「信長、本能寺で討たれる」の報を見て、秀吉は3万の兵を率いて、230キロの道のりを
       引き返す(中国大返し)。京都・山崎で激突。光秀は少数の兵と近江へ向かう途中、落ち武者
       狩りに遭い落命。光秀、54歳。

       だが、大河ドラマ「麒麟が来る」は、ここで終わらなかった。
 本能寺の変から3年後、駒は備後鞆の浦に将軍足利義昭をたずねる。
 「好きではなかったが信長も、そして光秀も志のあった武将であった」と3年前を振り返る義昭に、
 駒は
「ご存じでございましょうか?十兵衛様が生きておいでになるという噂があるのを。
 私も聞いて驚いたのですが、実は密かに丹波の山奥に潜み、
 いつかまた立ち上がる日に備えておいでだというのです」と。

 ドラマ最終回は意外な展開を見せ幕を閉じようとしている。
駒は市場の雑踏の中にある侍の姿を見掛け追いかける。
「十兵衛様!」
駒は人混みを縫うようにして侍の後ろ姿を追いかける。
画面は変わってラストシーン。
その侍は馬を駆って 地平線に消えていった。

 どうしてこんな終わり方を演出したのだろう。
 簡単に言ってしまえば、
1年間楽しみに見て来たドラマの最後が「山城の戦い」で落ち武者狩りに遭い、
名もない土民に竹槍に刺され落命した場面で幕を閉じるようなシーンで終わってしまえば、
後味の悪い結末を私たちは見せつけられてしまう。
こんな結末を見るために日曜日の夜8時を楽しみにしてきたのにと、
何となく裏切られたような気になってしまう。
しかも、「麒麟が来る」というタイトルにも背くことになってしまう。
せっかく新しい視点で1年間描いてきた結末が、
光秀が見た夢は露と消え、
麒麟は来なかったでは視聴者は納得しないだろうと製作者は考える。
 
  信長が討たれ、光秀も夢半ばで倒れてしまったけれど、いつの日かまた光秀が現れ、
  麒麟が現れる平和な世がくることを念じてドラマは終わる。
  歴史的事実はどうあれ、私は安堵して最終回を見ることができた。
  ラストの受け止め方は人それぞれでいいのではないか…
  駒の視点で考えてみよう。
  「十兵衛様!」と背中に向かっての呼びかけに、
  十兵衛(光秀)によく似た侍は雑踏にまぎれて駒の視界から消える。
 「あれは幻だったのか、
 いや馬に乗りわたくしの手の届かない地平に駆けていった侍は確かに十兵衛様だ。
 十兵衛様は生きている」
 いつかまたあのお方が帰ってきて、この乱世は終焉し、
麒麟が現れる平和な世の中が実現するのだ。
十兵衛に託した駒の切ない願いが、
幻でなはく現実を駆け抜けていく十兵衛の姿を見させたのかもしれない。

 長いコロナ禍のもと、経済も私たちの生活も大きな犠牲を強いられてきた。
この先私たちはどこへ流れていき、どこへたどり着くのか誰にもわからない。
たどり着いたところに安心して生きられる社会はあるのだろうか。
十兵衛が望んで果たせなかった新しい世に、
きっと麒麟が現れる社会の実現があるのでしょう。
それは、十兵衛一人の活躍ではなく、
十兵衛の再来を望んだ私たち一人ひとりが新しい世の出現を望み、
活躍して実現に汗を流した証であってほしいと思う。
                           (おわり)
                   連載二回ぐらいで終了する予定でしたが、話が脱線したりしてなかなか最後
                  の章にに達することができませんでした。まだまだ書き足りないことが沢山あ
                  り、それを全部書くとどんどん視点がぼやけ、内容が散漫になってきます。
                   新資料の発見により、光秀は本能寺で陣頭指揮をとらなかったのではないか
                  という解釈がなされています。このことには少し触れたい思いもします。
                  章を改めて紹介したいと思います。
                  ありがとうございました。


     (昨日の風 今日の風№120)     (2021.3.1記)










 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「麒麟がくる」 光秀か見た夢 ③ 黒幕は誰、そして光秀は死んだ……

2021-03-02 06:34:09 | 昨日の風 今日の風

「麒麟がくる」 光秀か見た夢 ③ 黒幕は誰、そして光秀は死んだ……
  (前回の続き)
   
あまりの突然の家臣光秀の謀反に、忠実な信長の家臣の光秀の豹変ぶりに、
   「何故」、「どうして」という動機探しが昔からささやかれているのは、

   自然の成り行きなのでしょう。

   光秀を操った黒幕は誰なのか?その代表的なものを紹介します。
    <正親町天皇・朝廷黒幕説>
    信長が天皇に譲位を迫るなどしたので、
 危機感を抱いた朝廷が光秀に命じて信長を討たせたという説がある。
 『天下布武』を唱え、比叡山皆殺し焼き討ち、
 一向一揆宗に対する徹底した弾圧など徹底して既成の権威に対する信長に対し、
 警戒心を抱いた朝廷・正親町天皇が謀略説。推測の域を出ない説。

<足利義昭黒幕説>
 信長によって追放され、毛利輝元のもとに身を寄せていた将軍・足利義昭が、
 かつて自分に仕えていた光秀を背後から動かして謀叛を起こさせたとする説。
 光秀は、信長を殺害して義昭を京都に復帰させ、
 室町幕府を再興する目的で、謀叛を起こしたと推測する。

<羽柴秀吉黒幕説>
 秀吉は信じがたいスピードで備中高松城(岡山市北区)から上洛し、光秀を山崎で討った。
 有名な中国大返しである。光秀の謀反を秀吉は事前に予測していた。
 そうでなければ数万の兵を率いて戻ってくることはできないのではないか。
 山崎の戦で主君信長の弔い合戦を成し遂げ、やがて天下取りを果たした秀吉は、
最大の利益享受者になった。
 ドラマでは、光秀の盟友・細川藤孝(眞島秀和)はその直前、
 備中で毛利と戦っている秀吉(佐々木蔵之介)の元に
 光秀に謀反の動きがあるという密書を送っていた。

 細川藤孝の情報により、秀吉は中国大返しをスムーズに行うことができたと、
 暗に秀吉の存在を暗示しているようだ。
 細川藤孝の密書が資料として残されていたわけではないが、作品に奥行きを持たせる描き方だ。

黒幕説は他にも、
<徳川家康黒幕説>、<本願寺・宗教勢力黒幕説>、<堺商人黒幕説>等々たくさんあるが、
いずれも憶測のみで古文書等による検証がされているわけではない。
室町時代の終焉の過程で、戦国時代の覇者が唐突に光秀に倒されてしまったところに、
多くの憶測が生まれ、動機探しが生まれたものと想う。
黒幕説ではないが、光秀の怨恨説など、根強い推測が多くの人々の支持を得ている。
信長の光秀に対する余りの横暴さに、我慢に我慢を重ねてきた光秀の堪忍袋の緒が切れた。
それでは、高倉健さんのやくざ映画と変わりがない。
そこで、次のような理由付けがなされる。

「座して死を待つよりは………」
   信長との心理的乖離は、光秀を追いつめていく。
   その時、光秀の脳裏に浮かんだのは「座して死を待つよりは………」という言葉ではなかったか。
   闘うことをせずに滅んでいくのなら、武将として闘って己の運命をかけてみたい。
          「謀反」とか「天下取り」ということではなく、信長と出会い武将として成長した光秀が、
   最後に選んだ道は、主君・信長と同じ道を歩むことはできないという、
   決別という選択ではなかったか。
   この選択が「謀反」という形でしか実現できなかったところに、
   光秀の不幸があったのではないか。

 首尾よく信長を本能寺に葬った光秀のその後
 山崎の合戦
   天正10(1582)年6月2日 信長は本能寺に斃れた。
   その報が信長の命により中国備中高松城攻めを敢行していた秀吉のもとに届いたのは、
   2日後であった。
   何度も馬を乗りかえて一気に駆け抜けた200キロの道程であった。
   信長の死が流布されれば、反信長の勢力が一気に押し寄せて来るに違いない。
           秀吉の行動は早かった。
   毛利方の高松城主・清水宗治の切腹などを条件に和睦を結ぶ。
   自らの城を取り囲む水の上へと小舟に乗って漕ぎ出した宗治。
   船上で舞を踊り、見事な辞世の句を詠むと、宗治は切腹した。
  

(高松城水攻め之図)                    (高松城主・清水宗治辞世の歌)
  歌の意味(意訳)
  憂いに満ちたこの儚い浮世を今、私は渡っていくのだ。武士(もののふ)の誇りを、私の愛した高松の
  地の高い松の根元に生えたいつも青々として色あせない苔のように、
  とこしえに忠義という名を残して……


 毛利氏との和睦が成立すると、秀吉は主君・信長の仇を打つため3万の兵を引き連れて、京に向かう。
世に言う『中国大返し』である。
備中高松から京都山崎までの230キロの道のりを10日で踏破する強行軍である。
鎧具足を付けた兵が、1日23キロの道を10日で本当に踏破できたのか。
野宿に近い状態の野営で兵糧米はどのようにして調達したのか等々疑問は残ります。

山崎の合戦
  6月13日午後4時頃戦いは始まった。
  光秀が本能寺に信長を討ってから11日後のことである。
  秀吉軍3万数千、光秀軍1万数千の軍勢が眼下小泉川(旧円明寺川)付近で激突した。
  圧倒的な軍勢の差に光秀は敗走。
  兵は逃散し、残ったわずかな兵とともに夜陰にまぎれ、
  近江へ逃れる光秀は、落ち武者狩りの土民の竹やりにかかり短い生涯を閉じた。
  1582(天正10)年 光秀54歳 乱世の戦いに明け暮れ、明日を夢見た光秀の短い生涯であった。

 (敗走する光秀軍)
 さて、歴史的事実はここで光秀は、歴史の表舞台から姿を消してしまいます。
 光秀が見た夢は幻となって消えたのか。
 大河ドラマの最後にもう一つ視聴者に夢を託して終わるのですが、次回をお楽しみに……
                                 (つづく)

     (昨日の風 今日の風№119)   (2021.2.24記)

 
 
 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「麒麟がくる」 光秀か見た夢  ②謎の多い本能寺の変

2021-02-19 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

光秀が見た夢 ② 謎の多い本能寺の変
 
ドラマ最終回 「本能寺の変」
          本能寺になだれこんできた光秀の兵を迎え撃つ信長。
           槍をしごき縦横無尽に暴れまくる信長。
   次に弓をとり、最後に刀をとって敵の群がるなかで活躍する信長。
   だが、どこか変だ。
   槍は主に接近戦で使用する武器であり、大勢が侵入してくる本能寺の境内で、
   敵の侵入の発見が早ければ最初に手にする武器は弓、
   しかし、弓には限界があり限界線を突破されれば、
   槍を手にし、
   敵味方入り乱れての混戦状態、
   あるいは狭い室内での戦いでは刀を使うのが手順だと思う。
   ドラマの状況で槍→弓→刀の順序は間違っている。
   弓→槍→刀が合理的順序ではないか。

   信長の一代記を書いた『信長公記』(しんちょうこうき)(信憑性の高い資料)では、
   次のように記録されている。

 明智光秀の軍勢は、早くも信長の宿所本能寺を包囲し、、兵は四方から乱入した。(略)明智勢はときの声をあげ、御殿へ鉄砲を打ち込んできた。(略)明智勢は間断なく御殿へ討ち入ってくる。(略)
 信長は初めはゆみをとり、二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが、どの弓も時がたつと弦が切れた。その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受けて退いた。……
 すでに御殿は火をかけられ、近くまで燃えてきた。信長は、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、、内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹した。
               「巻十五 天正十年の章 信長、本能寺で切腹」より抜粋

    
   信長公記(新人物往来社版)                肩に矢が刺さる(麒麟がくる)             

   信長公記について
    
織田信長の伝記。作者は太田牛一。
    1568年(永禄11)の信長上洛(じょうらく)から82年(天正10)本能寺の変で倒れるまでの
    15年間の事跡を、1年1巻として記す十五巻本として書き上げた。
    信長に仕えた作者が、自身の手控えを基に1598年(慶長3)ごろまでに著述。
    さらに自ら改訂を加えて数種類の本を作成したらしく、
    諸本を比較すると記事の増補・削除や人名部分の異同が認められる。
    本文は平易な漢文と仮名交じり文で記され、
    事実を客観的かつ簡潔に述べており、史料的価値は高い。
                                  (信長公記(日本大百科事典)より要約)
   『信長公記』では、「肘に槍傷を受けて退いた。……」とあるが、
   誰による傷なのかは記録されていない。
   最近新発見の資料として注目される『乙夜之書物(いつやのかきもの)
の中に、
   著者の関屋政春が加賀藩士から聞いた話として、
   光秀配下の天野源右衛門がまっ先に本能寺へ攻め入って、
   信長の背後に忍び寄り、左の肩先に傷を負わせた
(萩原大輔博物館学芸員・朝日新聞記事より)とある。
   
『信長公記』と『乙夜之書物』どちらが信憑性があるのか、議論を呼ぶところであるが、
   「麒麟がくる」では、後者の記録を参考にしたようだ。

   大河ドラマ関連の歴史資料が関連資料の発見につながるのはうれしいことだ。
   新しい歴史上の人物像が描かれ、物語の内容に深みと興味を感じることができる。

   通説とは不思議なもので、その時代によって変化してくる。
   例えば、信長が家督を継ぐ前の若い時代は、「尾張のうつけ者」というイメージが強く、
   東映の時代劇などでも中村錦之助が「うつけ信長」を演じていたことを覚えているが、
   現在のドラマではこうした描き方をほとんど見かけなくなった。  


   新資料の発見とか、解釈の違い、強力な学説などによって、
   時代によって描き方が違ってくるのも当然のことなのかもしれない。

   謎の多い本能寺の変
  あまりの突然の家臣光秀の謀反に、その豹変ぶりに、
   「
何故」、「どうして」という動機探しが昔からささやかれているのは、
   自然の成り行きなのでしょう。
   光秀を操った黒幕は誰なのか?次回その代表的なものを紹介します。
                               (つづく)

        (昨日の風 今日の風№118)      (2021.2.18記)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「麒麟がくる」  光秀が見た夢 ①大河ドラマ最終回に寄せて

2021-02-18 16:48:34 | 昨日の風 今日の風

「麒麟がくる」 光秀が見た夢①
         大河ドラマ最終回に寄せて

      放送開始直前に撮り直しがあり、途中コロナ騒動で撮影が大幅に遅れ、約2カ月遅れで終了した。
 本能寺を襲い主君「信長殺し」の汚名を着た光秀の目的は何だったのだろう。
 一般的に考えれば、天下取り或いは家名存続のための「裏切り」等が、その理由として考えられる。
 しかし、ドラマでは光秀を「実直」、「清廉」で、
 専横信長に率直にモノが言える家臣として描かれている。
 戦国時代の終盤に、新しい時代のさきがけとして「麒麟」を連れてくる男として描かれている。
 第1回放送から。

戦は終わる。いつか戦のない世の中になる。そういう世を作れる人がきっと出てくる。
   その人は麒麟を連れてくるんだ」 


  という台詞があり、ドラマの目指す方向が暗示されている。
  「何かを変えなければ麒麟は来ない」と光秀は思う。
  戦国乱世の
国盗りに明け暮れる日常で、信長の斬新性に惹かれ、
  家臣として力を発揮していく光秀。
  戦国の世を平定し、「麒麟」が現れる戦のない世の中を実現できるのは、
  主君・信長なのかもしれないと光秀は自分の活躍の場を信長に託したのだろう。
   元亀2(1571
)年 比叡山焼き討ちの際は、僧兵だけでなく、
           女子供まで皆殺しにしろと光秀に命じる。
   天正元(1573)年 室町幕府将軍・足利義昭を京都から追放。
   天正2(1574)年 尾張長嶋の一向一揆。2万の男女を中江、屋長嶋の城の周りに柵をめぐらし
           閉じ込めて、四方から火を放ち、焼き殺した。
   天正4(1576)年 安土城築城の石垣に、
            石塔や石仏を破壊し石垣の石組の中に組み込ませていく信長。
       
領土を広げていく過程で、信長が変容していき、狂気の片鱗をのぞかせる信長。
     神も仏も信じず、情さえも持ち合わせないような信長。
  信じる者はおのれの才覚と腕(ちから)一つ。
  「天下布武」を掲げ、思いのままに時代を先取りしょうとする信長の姿勢。

  徐々に光秀は信長との間に信頼関係の乖離が生まれたのではないか。
  藤沢周平の「逆軍の旗」(光秀が本能寺に信長を討つ数日間の心の動きを描く短編小説)は
  次のような描写がある。
    「時は今あめが下しる五月哉」──明智光秀は、その日(本能寺へ攻め入る数日前)の直前こう発句した。坐して滅ぶかあるいは叛くか。天正十年六月一日、亀山城を出た光秀の軍列は本能寺へとむかう。戦国武将のなかでもひときわ異様な謎につつまれたこの人物を描き出す歴史小説 藤沢周平著 文春文庫 (ブックデーターより要約   

 あらゆる権力を否定し、破壊する過程の中で、信長という新しい権力が立ち現われて来るのを、光秀は眺めてきた。しかも土を洗い落としたあとに、白い根を見るように、権力者の中に次第に露出してくる狂気は不気味だった。(引用)

  決定的な乖離は、「将軍・足利義昭を殺れ!」という信長の姿勢である。
   (古文書に記された歴史的事実ではないにしても、
   ドラマを盛り上げるためには必要な台詞だったのだろう)

  「麒麟」は、王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣。
  その聖獣といわれる平和の使いを夢見て、信長に仕えた光秀の夢は、
  崩れ去った。

  「主殺し」「謀反人」というイメージの光秀に、「実直」で「清廉」な人物像、
  まさに、お茶の間のヒーローとして新たな光を当てたドラマ作りが視聴者に
  支持された所以なのだろう。
  時代の行く末に麒麟が現れる夢を見つづけた光秀
  実際の歴史的事実と反するところはあるけれど、
  決定的な誤りがなく、
  視聴者を心豊かにしてくれるドラマならそれも良いと思います。
                                                                             (つづく)                                    (昨日の風 今日の風№117) 
       (2021.2.15記)    

次回は「麒麟がくる」 光秀が見た夢 ② 謎の多い本能寺の変
     本能寺の変 謀反の黒幕はいたのか その後の光秀 についてアップします。



  

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栄光と屈辱の箱根駅伝 ② 復路 逆転の駒大 涙の創価大

2021-01-10 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

栄光と屈辱の箱根駅伝 ②復路 逆転の駒大 涙の創価大
     3日午前8時、熱い一夜が明け復路のレースが始まった。
 往路のタイム差に従って芦ノ湖駐車場入り口をスタート。
 復路の5区間・109.9㌔を東京・大手町の読売新聞社前のゴールを目指す。
 
 トップ争いは最大の関心の的だが、
 シード権争いも熾烈なレース争いの中で繰り広げられる見どころである。
 往路フィニッシュタイムからレースの争点を見てみよう。
 ➉拓大5時間35分1秒 
 これを追う⑪早大なんとしてもシード権を獲得したい、5時間35分12秒
 拓大との差11秒。
 早大のあとを追いかけるのは⑫青学大、5時間35分43分で早大との差31秒
 ⑬城西大、5時間35分44秒で青学大との差1秒。
 波乱含みのシード権争いである。 
 
 一斉スタートはトップとの差が10分以上あるチームで、18位山梨学院大、
  19位中大、20位専大、関東学生連合である。
 
 新型コロナウイルス感染拡大防止のため、
 沿道での観戦自粛を呼びかけられた箱根駅伝復路のスタートの旗が振られた。

 追う駒大 逃げる創価大。
 このまま創価大が逃げ切ることができれば、
 
初出場からたった6年で初優勝を勝ち取ることができる。
 緊張と重圧、孤独なアスリートはただひたすらゴールを目指し
 トップを維持しようと10区最終ランナー創価大・小野寺勇樹は懸命に走る。
 追う駒大10区最終ランナーは石川拓慎だ。
 
 9区終了時点でトップの創価大と駒大の差は3分19秒。
 戦後、最終10区でこの差を逆転した例はない。
 観戦者の多くが創価大の復路優勝を予想し、駒大の逆転は絶望的に見えた。
 創価大の榎木監督は次のようにレースを振り返る。
 「(10区の)10㌔ぐらいまでは、先着できると思っていた」
 
 だが、駒大・大八木監督は希望を捨てなかった。
 絶望的なトップとの差を走る石川に檄を飛ばした。
 「いいぞ、おまえ! 本当にいいぞ! いいか、ここだ、ここからだ!」
 
 15㌔過ぎぐらいだったろうか、創価大・最終ランナー小野寺のフォームが崩れた。
   正確に一歩一歩大地をけっていたリズムが乱れた。
 ピッチが数センチいや数ミリずれている。
 わずかなピッチの乱れが小野寺の不調を物語っている。
 それはそのまま心の乱れへと連鎖し、アスリート小野寺の体力を消耗していく。
 肩がわずかに揺れ、口角が下がり、視点が左右に揺れる。
 数メートル先を見つめる揺れる視点は、やがて本人の意思と無関係に少しずつ上向きになっていく。 

 駒大・大八木監督は勝機を逃さなかった。
 運営管理車に乗った大八木監督の檄はその激しさを弛めず、活を入れ続けた。
 レース後石川はこの時の気持ちをこう語っている。
 「力になるのはもちろん、スイッチをオンにしてくれた」
 石川は更にピッチを上げる。
 20.9㌔付近、この日初めてトップを走る小野寺の背中を捉えることができた。
 肩が揺らぎ、背中が波打っている。
 「行ける!」
 石川の柔らかくスナップのきく足首が躍動し、鍛えたふくらはぎの筋肉を駆けあがり、
 太腿を伝い、骨盤へと熱いエネルギーに変換されて行く。
   石川は一気に拓大・小野寺を抜き去った。
  
 2008年を最後に総合優勝から遠ざかっていた駒大は残り2.1㌔で逆転し、
 13年ぶり7度目の総合優勝を勝ち取った。記録は10時間56分4秒。
 2年連続でアンカーを務めた石川拓慎(3年
)に、
 積み重ねた過酷な練習の日々がなつかしくよみがえってきた。
                     (日刊スポーツから転載)

 総合成績                 復路成績
   ① 駒 大 10時間56分4秒        ① 青学大 5時間25分33秒
   ② 創価大  〃 56分56秒         ② 駒 大  〃     35秒
   ③ 東洋大 11時間0分56秒                ③ 中央大  〃   28分39秒
   ④ 青学大  〃 1分16秒                              ④ 早 大  〃   47秒
                        ⑤ 創価大  〃   48秒

  大会余話
    10区の最大逆転とゴール直前逆転優勝はいずれも1920年の第一回大会。
    東京高等師範学校
(現筑波大)の茂木善作は明大の西岡吉平から11分30秒差で
    鶴見中継所をスタートした。「箱根駅伝70年史」によると、茂木が猛追し
    残り約1㌔の新橋で西岡に追いついた。ゴール手前約700㍍で茂木が抜け出し、
    ゴール。箱根駅伝はいきなり劇的な逆転劇で、その歴史が始まった。
    (スポーツ報知 2021.1.4記事から転載)

                                      (おわり)
          (2021.1.9記)             (昨日の風 今日の風№115)

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栄光と屈辱の箱根駅伝 ① 快挙の創価大 転落の青学大

2021-01-06 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

 栄光と屈辱の箱根駅伝 ①快挙の創価大、転落の青学大
 復路、大きな逆転劇の末に2021年の箱根駅伝が終わった。
 昨年、苦労の末にシード権を勝ち取った
創価大学が、
 往路優勝を遂げ、明日の復路も往路の勢いを以て総合優勝の夢を抱いたに違いない。
  (写真・日刊スポーツ 創価大三上が往路のテープを切る)

 「箱根駅伝4回目の出場」で初めて手にする栄光の芦ノ湖フィニッシュである。
 高揚した気持ちとわずかの不安をかかえて2021年1月2日、
 箱根駅伝初日往路の夜が帳を降ろす。
 目標は総合優勝だ! 
   出場4回目にして初めて追われる立場に立った新進チーム創価大に熱い夜が訪れた。

 東京大手町から神奈川芦ノ湖まで5区間107.5㌔、往路の戦績は
  ① 創価大ー5時間28分  8秒 出場4回目で初優勝の快挙だ。
  ② 東洋大ー 〃  30分22秒    一位との差2分14秒 過去5回の優勝の実績を賭けての優勝を狙う
  ③ 駒 大― 〃  30分29秒 二位との差は7秒 2位奪還は可能な目標だ。6回優勝の強豪校だ。
  
  ⑫ 青学大ー 〃  35分43秒 人気の青学まさかの優勝候補からの転落 一位との差7分35秒
                誤算は3区予定だった主将・神林が昨年末にお尻あたりの仙骨
                に疲労骨折がみつかり、メンバーから外さざるを得なかったこ
                とだ。原監督は次のように発言する。
                「一年間、神林がチームを引っ張った。その精神的、能力的な支えが 
                なくなったときに挽回するだけの精神力がなかった」 
                更にまさかのアクシデントが青学を襲う。
                                             4区でタスキをつないだときは10位になり、挽回のチャンスが訪れるの
                か。タスキ受けた竹石は山登りのスペシャリストだ。期待が膨らむ。
                だが勝利の神は微笑まなかった。レース後半に右ふくらはぎが何度も
                痙攣し、区間17位まで堕ちてしまった。その後順位を12位まで上げて
                往路終了。シード圏内にあと二つ早大と拓大を抜かなければならな
                い。トップとの差7分35秒。シード権を獲得するには拓大との差42秒
                を克服しなければならない。
                
「確実にシード権を取りにいきたい。でも、プライドを忘れずに攻め
                のレースを……」
                青学・原監督の復路に向けてのメッセージである。

                
明けて3日、復路スタートの旗が選手たちの緊張を掃(はら)うように振ら
                れた。
                                       (つづく) 

        (2021.1.5記)      (昨日の風 今日の風№114)

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする