オバマ大統領広島演説(1)
(風の行方№40)
5月27日、現職の米国大統領で初めて、被爆地・広島を訪れ、「核なき世界」
を提唱し、「1945年8月6日の朝の記憶を薄れさせてはなりません」と訴えた。
71年前、明るく、雲一つない晴れ渡った朝、死が空から降り、世界が変わってしまいました。
閃光と炎の壁が都市を破壊し、人類が自らを破壊できる手段を手にしたことを示したのです。(演説の冒頭)
言うまでもなく、1945.8.6の原爆投下の一瞬だ。
文学的な表現は、無用な刺激を避けるためと言うよりも、非人間的な原爆投下の事実を、
文学的表現と言うオブラートで包み隠そうとする配慮に思えてならない。
終始一貫して、主語が意図的に省略されているから、なぜか空々しく聞こえる演説内容だ。
原爆投下の理由を日本での本土決戦を避け、早期に決着をつけることで、人的被害を
少なくする。と言うのが、今なおアメリカで指示されている原爆投下の理由だ。
だが、アメリカは原子爆弾を実戦で使用しその威力を世界に知らしめることによって、
アメリカの国力・軍事力を誇示する意図があったのだろう。
また、マンハッタン計画により開発された原爆の放射線障害の人体実験という意図もあったのだろう。だから広島にはウラン型を、長崎へはプルトニウム型の原子爆弾を投下し、製造過程の異なる原子爆弾を投下したのだ。実質的には、新型爆弾の威力を試すための実験だったのではないか。
にもかかわらず、オバマ氏は次のように述べる。
私たちは何かより高い大義の名のもとに、暴力を正当化してきたのでしょうか。
戦争に大義名分は必要だし、「パールハーバー・リメンバー」だって、立派な大義名分で、
アメリカはこのスローガンのもと、「弔い合戦」を正当化したようなものでしょう。
この空に立ち上がったキノコ雲のイメージのなかで最も、
私たちは人間性の中にある根本的な矛盾を突き付けられます。
この部分も白々しい。「矛盾」とは何か。
人類の幸せのために開発、研究されてきた人間の能力が、
時によって暴力とか破壊力という方向に向かってしまうという矛盾だと。
マンハッタン計画による、「原子爆弾」の製造目的は、非人間的な核兵器であり、
無差別爆弾の製造であることは明白なのに、
それを人間性の中にある矛盾と文学的に表現してしまう
厚かましさに腹ただしさを覚えます。
一国を代表する、大統領と言う立場であれば、
広島演説の内容も致し方のない事なりかもしれませんが
メディアの論調が、「歓迎」「一歩前進」というムードが色濃く漂っているので
私なりの感想を述べることになりました。
(つづく)