雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

 新型コロナウイルス ⑦スペイン風邪と丹後大仏

2020-07-06 06:00:00 | 昨日の風 今日の風

 新型コロナウイルス ⑦ スペイン風邪と丹後大仏
   スペイン風邪の教訓を今に伝える。
                 過去の出来事が教訓となる。
  

 京都府の丹後半島北東部、船の収納庫の上に住居がある舟屋の建物群で有名な伊根町。
(伊根の舟屋群)
 天橋立から車で30分。
 風光明媚で波穏やかな海にせり出しすように、漁を業とする舟屋が二百数十軒並んでいる。
 山を背負うように立ち並ぶ地形に漁船を係留する漁港を作る土地の余裕はなく、
 漁で使用する舟は一階部分の収納庫に入れ、2階部分を住まいとして利用している。
   近年は舟が大型化し、舟屋に入らないと言います。
 当然のことながら、時の流れは人々の生活を変えていってしまう。
 『行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、
 かつ消えかつ結
びて、久しくとどまりたるためしなし。』
 あまりにも有名な方丈記の冒頭である。
 無常の風にさらされながら、私たちは遠く過ぎ去ったものを「過去」という時代に置き忘れ、
 新しい世界感を作っていく。

 だが、大きな災害や哀しみ、歴史の転換期になるような出来事は忘れてはいけない。
 私たちが、戦争や大きな災害を乗り越えて来た事実は、
 教訓として語り伝えなければならない。
 口伝は変化し、語り部がいなくれば、忘れ去られてしまう。
 石に刻み、書物に記録して後世の人々に伝える義務が私たちにはある。

 
 この伊奈町の山麗に、冒頭に示した石の大仏がある。
 2メートル近くの石の台座に2メートルの大仏様が鎮座している。
 「丹後大仏」として土地の人々に親しまれている。
 秋は紅葉に映える里山を背景に、
 春は桜の花陰で美しい季節の流れを見つめて鎮座している。

 1919(大正8)年1月ごろに、スペイン風邪で亡くなった地元の人たちを供養するために建立されたと、
 伊奈町史は記録している。
  スペイン風邪は100年前の1918(大正7)~1921(大正10)年に世界的なパンデミックを引き起こした。
  日本の罹患者数 2380万4643人 
     死亡者数   38万8727人 (内務省衛生局編「流行性感冒」から)
              (規模的には、新型コロナウイルスをはるかに上回る感染者と死亡人数です)
 
  丹後半島の伊根町になぜ大仏が建立されたのか。
  通称「丹後大仏」の建立の歴史とスペイン風邪の関係を探ってみたい。
        1900(明治33)年、伊根町本庄・筒川地区に筒川製糸工場が建設され、
      此の辺境の地に最盛期には従業員160名超をかかえ、地域の発展に寄与した工場だった。
   1909(明治42)年、伊根町史によると、筒川製糸工場は火災に遭い全焼し、
      甚大な被害を被る。
 だが、役員以下社員一丸となり復興に勤めた結果、
   1918(大正7)年、再建を果たした。再建までに9年を要したわけだが、この間の役員や社員の
      努力についての詳細は不明でした。
      同年10月、工場長・品川萬右衛門は工場再建に奮起した従業員を労うため従業員116名を率
      いて東京見物の慰安旅行を実行。京都から名古屋、横浜、東京などを10日間かけて巡った。
      大正7年に10日間にわたる研修慰安旅行はおそらく、
      当時としては革新的な時代を先取りした企画だったと思います。

      火災で全焼し、9年を費やして再建された製糸工場に、
      2度目の不幸が襲いかかります。
      研修慰安旅行で訪れた当時、スペイン風邪が世界的な規模て感染拡大していました。
      東京も例外ではありませんでした。

      帰路。
      伊根に近い宮津で、参加者が次々に発症した。
      当時の記録が残っている。
         「宮津町ニ帰着シタル一月二十二日ノ夜
      (中略)悪性感冒ハ可憐(かれん)ノ女工ニマデ襲ヒ寄リ……」
      当時としては、画期的だった東京慰安旅行のお土産が悪性感冒(スペイン風邪)。 
      なんという不運なのでしょう。

      帰郷した従業員のうち42人が死亡。
      村内にも広まる被害を出してしまいました。
      工場長の品川萬右衛門は亡くなった従業員の慰霊のため、
      1918(大正7)年工場内に青銅製の阿弥陀如来像を建立。
      これが丹後大仏です。
      初代の丹後大仏は昭和19年に金属回収令により徴収され、
      悲願の大仏(阿弥陀如来像)も、
      戦艦の一部や鉄砲の玉などにするため無くなってしまいました。
   1945(昭和20)年4月(終戦の4カ月前)、初代青銅製大仏の立っていた筒川工場の跡地の同じ場所に
      再建されました。
     
(新綾部製糸株式会社筒川工場は昭和9年ごろまで存在したそうですが
      現在、往時を偲ぶものは、石の丹後大仏だけになってしまいました。)
  
 悲劇語り継ぐ 「大仏」で記憶継承
  当時を直接知る人はいなくなったが、「町民は誰もがスペイン風邪の悲劇を知っている」と
  近所の人は言う。毎年4月の慰霊祭では、有志で雑草を狩り、甘茶を飲んで往時を偲んできた。
  だが高齢化が進み、2年前にを最後に途絶えかけた。
  今年5月、観光協会が呼びかけ、住民による草刈が復活。
  新コロナ終息を祈った。(朝日新聞)

  記憶は時の流れとともに薄れ、消えて行ってしまう。
  だから、記念碑、顕彰碑等は過去を振り返えり、
  忘れないために大切に保存することが必要なのでしょう。
 
  およそ100年前、世界で感染拡大したスペイン風邪は
  日本でも多くの感染者と死者を出した(前述)。
  日本国内で大小三度の流行を繰り返した。
    第一波 1918年8月~19年7月  患者数2116万8398人 死者数25万7363人
    第二波   19年9月~20年7月  患者数  241万2097人 死者数12万7666人
         第三波    20年8月~21年7月   
患者数 22万4178人 死者数  3698人
     合 計               患者数 2380万4673人 死者数38万8727人
                           (内務省衛生局編 「流行性感冒」より)

      歌人の与謝野晶子は、第一波の際に子どもの一人が学校で感染した後、
      「家内全体が順々に伝染した」と書き残し、第2波に際した新聞への寄稿
      では「死が私たちを包囲して居ます」と社会を襲う恐怖を代弁ししている。
                            (朝日新聞2020.6.11)

   4日午後9時現在、全国で262人の感染者を出した。
   とりわけ東京都では3日連続100人を超える感染者を出し、
   隣接する県でも感染者が出始めている。
   第2波が来るのかというような漠然とした予測ではなく、
   緊急事態宣言を解除し、経済活動が活発化し、人が動き出せば
   感染は必ず繰り返されるという自覚が必要です。
   世界の感染状況や100年前のスペイン風邪がそのことを如実に物語っています。

   誤解しないで欲しい。
   緊急事態宣言の解除は安全宣言ではない。
   低迷し混乱する社会と私たちの日常の生活を取り戻すための苦渋の選択だったのだ。
   寄せては返す波のように再び私たちは感染との戦いを強いられる。

   新型コロナウイルスへの「自衛の戦い」という意識がなけれは、
   この戦いとの勝ち目はないことを自覚しながら、今日も生きよう。

   午後8時。
   早くも現職都知事が当確を決めたようです。
   きめ細かなコロナ対策の継承を期待したい。
           参考資料 朝日新聞 日本経済新聞ウエブ版 内務省衛生局編「流行性感冒」等

      (昨日の風 今日の風№111)      (2020.7.5記)

 

 

コメント (2)
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