「あゝ岸壁の母」④ 戦友の証言
前回までのあらすじ
岸壁の母のモデルとなった端野いせは、生前2通の死亡通知を受け取った。
厚生省からの通知(死亡認定理由書) 29年9月付け。
『昭和20年8月15日未明……(ロシア軍との戦闘で)力尽きて
「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した』
東京都知事からの通知(死亡通知書) 昭和31年付け
『昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたので
お知らせします』
二通の通知を受け取った端野いせは、それでも新二の死を受け入れず、
昭和56年7月に81歳で亡くなるまで息子の生存を信じていた。
新二の生存が明らかになったのは、平成12(2000)年8月だった。
いせの死亡から19年が過ぎていた。
新二は日本に帰ってこなかった。
二人の戦友の証言
滝沢千秋氏の証言。
「端野(はしの)君は左足を負傷し、
半年以上中国人の農家の世話になっていた」。
滝沢は28年7月に帰国するまで新二と6年以上一緒に仕事をしていた。
新二は朝鮮人の「李(り)」という看護師と恋愛していた、と当時を振り返る。
もう一人の証言者の國定拳吾氏の証言。
「端野(はしの)君はソ連侵攻の始まった8月14日に後ろ弾(味方の誤認弾)に左足太ももを打たれ、一時陣地を無断で離れた」。
証言者の話が微妙に食い違っているのも戦後のソ連侵攻の極限状態のなかでは仕方のないことと思われます。
面談した慰霊墓参団の問に対して、新二は次のように答えている。
「母が舞鶴の岸壁で待っているということは人づてに聞いて知っていたが、
帰るに帰れなかった。
死んだことになっている自分が帰れば、
歌にまでなり有名になっている母のイメージをすべて壊すことになる。
いまさら帰れない」。
木で鼻を括るようなあまりにも味気ない、
感情のこもらない新二の言葉です。
新二は、帰りを待ちわびる母のことをかなり以前から知っていたに違ないと思われる発言です。
岸壁で息子の名を叫ぶ母の姿をリアルタイムで知っていたのではないか。
新二の生存が明らかになったのは、
端野いせが亡くなった19年後のことだった。
新二の発言の、
「死んだことになっている自分が帰れば……」という語感の響きから、
新二はかなり早い時期からリアルタイムで母のことを知っていた様子がうかがえます。
このように推測した時、
誰が待ちわびる母の存在を新二に知らせたのかという疑問が浮かんでくる。
それは、日本の関係者ではなく、
中国のある機関で動いている人物ではないか。
國定拳吾氏の証言に、
「一時、陣地を無断で離れた」という証言がある。
これは、戦線離脱であり、「脱走」行為とも解釈されかねない。
「一時」とあるが、怒涛のように押し寄せるソ連軍に追われて、
敗走する日本軍から離れて
左足太ももを撃たれた新二が自分の舞台に還ることなど不可能に近い。
負傷による戦線離脱が新二が祖国に帰らなくなった原因のひとつになるのではないか。
付記 証言者・滝沢千秋のこと(産経新聞取材班調べ)
昭和20年8月15日、旧満州で行方不明となった新二は戦後、
一時シベリアに抑留され、同年9月10日頃再び旧満州に移送されたという。
その後、21年9月に中国牡丹江省ジャムスで中国共産党軍の八路軍に従事。当時、朝鮮人と偽って八路軍の軍医をしていた長野県佐久市の滝沢千秋は、
その頃の新二をよく覚えていた。
「端野君は左足を負傷しており、半年以上中国人農家の世話になっていた。(私は端野君を)レントゲン助手に誘い、(その後)農家の中国人が軍に推薦してくれた」
滝沢は昭和28年7月に日本に帰国するまで、レントゲン助手の新二と6年以上一緒に仕事をしていた。この間、新二は朝鮮人の《李》という看護婦と恋愛していた。滝沢は「新二君はその後、李さんと結婚したのではないか」という。
()内は小島による補足
証言のなかでは具体性があり、信憑性に富むと思われます。
以来40年余り、新二がどんな経過をたどって上海市内に暮らすようになったのかはわからない。
新二の言葉の裏側にある語ることのできない何かを感じるが、それが何なのかはわからない」。
「帰りたくても帰れない」
未帰還兵端野(はしの)新二と、
舞鶴の引揚船の桟橋に立ち最後まで一人息子の生存を信じて生きた「岸壁の母」端野いせの物語は、
当時の日本の引揚桟橋のどこにでも起きる物語のひとつであった。
(つづく)
次回は最終回「番外編」
(語り継ぐ戦争の証言№42) (2024.12.18記)