ヒュー・ジャックマン主演、ショーン・レヴィ監督、『リアル・スティール』、12/10、ワーナー・マイカル・シネマズ筑紫野にて鑑賞。2011年45本目。
この作品で最初に「はにゃ?」と疑問に思うのは、時代設定なんですよ。
時代設定は何と西暦2020年、今からたった八年後なんです。
わずか八年で、人間同士のボクシングが完全に廃れ、代わりにロボット同士のボクシングがそれに取って代わるものかなぁ、、、と首をひねらざるを得ません。
これが2040年か、まだしも2030年だったら、作品に説得力が増すんですけどねぇ。
まぁ時代設定ぐらいは大目に見てもいいです。
何から何まで完璧な作品、なんてものはそうそうないですから。
しかし、「はにゃ?」と思うのは時代設定だけではないんですよ。
人物設定も同じく「はにゃ?」でした。
主人公のチャーリーはかつては花形のプロボクサーで、現在はロボット・ボクシングのトレーナーという設定です。
彼には十年前に離婚して以来一度も会っていない息子がいるのですが、再会した息子マックスは熱烈なロボット・ボクシングのファンなんですよ。
これには、「はにゃ?」と首を傾げました。
乳飲み子であるマックスがいるにもかかわらず離婚したのですから、常識的に考えて、マックスの母親とチャーリーはよい別れ方はしなかったであろうと推測されます。
であれば、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言いますから、マックスの母親がロボット・ボクシングに対していい印象を抱いてはいなかったはずです。少なくとも別れた元亭主のことを思い起こさせるものは自分の周りから遠ざけるはずです。
なので、マックスがロボット・ボクシングの熱烈なファンという設定には自分は強い違和感を覚えました。
まぁもちろんこれはすべて推測の上に成り立っているので、もしかしたら、乳飲み子を抱え、その子を育てるのに散々苦労した女性が別れた元亭主のことを憎からず想っていた、という可能性も無きにしも非ずですが、それはもう自分の想像の圏外ですね。理解不能です。
他にもロボット・ボクシングのルールそのものも理解不能でしたね。
最初、チャーリーは非合法な試合で一儲けしようと企みます。しかしそこで手持ちのロボットを完膚なきまでにボコボコにされます。
ボコボコというか、腕をへし折られ、ボディを真っ二つに叩き折られ、頭部をむしり取られるんですけどね。笑。
なるほど、人々の嗜好がここまで残虐なものになったのであれば、人間同士のボクシングから、ロボット同士のボクシングに隆盛が移るのも頷けるなぁと思ったのです。
しかし、正規の試合はそこまでのデスマッチではないんですよ。
それどころか、チャンピオンとの試合は三分間五ラウンド制で、しかも判定で決着がついちゃう。笑。
こんな人道的な試合制度であるならば、わざわざロボットにさせる必要性はないのでは?と思いました。
もう一つ言っておきたいことがあります。
この映画は「ロッキー・エンディング」の作品です。
「ロッキー・エンディング」とは何かというと、自分の考えた造語で、主人公はチャンピオンに対して善戦するが、最終的に判定で負ける終わり方を言います。
シルヴェスター・スタローンの『ロッキー』が公開されて以来、スポーツや格闘技を題材とする映画にこの終わり方をするものがやたら多い。
単純に主人公がチャンピオンに勝利するよりも、惜しくも負ける方が、作品に深みが出ると考えているのか、それともその方が続編が作りやすいからなのか、それは定かではありませんが、一つ言えるのは、ロッキー・エンディングの作品は、そうでない作品よりも高度な演出を要求されるということです。
そりゃまぁそうでしょう、判定結果がアナウンスされるまで、観る者に勝者がどちらかわからない試合展開をさせなければならないのですから。
その点で、本作は不合格。
客観的に見て、クライマックスの試合では、チャンピオンであるゼウスよりもチャレンジャーであるアトムが勝ってますからね。
にもかかわらず、「勝者ゼウス」とアナウンスされ、「何で?」と思いました。
亀田兄弟だったら、間違いなくジャッジに詰め寄ってますよ。笑。
これは、微妙な試合運びをさせるような高度な演出手腕が監督であるショーン・レヴィになかったからだと思いますが。
だとしたら、単純にアトムが新チャンピオンになるというエンディングにすれば良かったと思いますけどね。
こんな感じで、自分の本作への評価は非常に低いんですが、世間的な評価は案外高いみたいです。
この冬最も泣ける!!とか何とか公式サイトでは謳ってますが、実際泣けたという人がいたら、どこら辺で泣けたのか、是非聞いてみたいです。
お気に入り度は★★、お薦め度は★★☆(★は五つで満点、☆は★の半分)です。
この作品で最初に「はにゃ?」と疑問に思うのは、時代設定なんですよ。
時代設定は何と西暦2020年、今からたった八年後なんです。
わずか八年で、人間同士のボクシングが完全に廃れ、代わりにロボット同士のボクシングがそれに取って代わるものかなぁ、、、と首をひねらざるを得ません。
これが2040年か、まだしも2030年だったら、作品に説得力が増すんですけどねぇ。
まぁ時代設定ぐらいは大目に見てもいいです。
何から何まで完璧な作品、なんてものはそうそうないですから。
しかし、「はにゃ?」と思うのは時代設定だけではないんですよ。
人物設定も同じく「はにゃ?」でした。
主人公のチャーリーはかつては花形のプロボクサーで、現在はロボット・ボクシングのトレーナーという設定です。
彼には十年前に離婚して以来一度も会っていない息子がいるのですが、再会した息子マックスは熱烈なロボット・ボクシングのファンなんですよ。
これには、「はにゃ?」と首を傾げました。
乳飲み子であるマックスがいるにもかかわらず離婚したのですから、常識的に考えて、マックスの母親とチャーリーはよい別れ方はしなかったであろうと推測されます。
であれば、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言いますから、マックスの母親がロボット・ボクシングに対していい印象を抱いてはいなかったはずです。少なくとも別れた元亭主のことを思い起こさせるものは自分の周りから遠ざけるはずです。
なので、マックスがロボット・ボクシングの熱烈なファンという設定には自分は強い違和感を覚えました。
まぁもちろんこれはすべて推測の上に成り立っているので、もしかしたら、乳飲み子を抱え、その子を育てるのに散々苦労した女性が別れた元亭主のことを憎からず想っていた、という可能性も無きにしも非ずですが、それはもう自分の想像の圏外ですね。理解不能です。
他にもロボット・ボクシングのルールそのものも理解不能でしたね。
最初、チャーリーは非合法な試合で一儲けしようと企みます。しかしそこで手持ちのロボットを完膚なきまでにボコボコにされます。
ボコボコというか、腕をへし折られ、ボディを真っ二つに叩き折られ、頭部をむしり取られるんですけどね。笑。
なるほど、人々の嗜好がここまで残虐なものになったのであれば、人間同士のボクシングから、ロボット同士のボクシングに隆盛が移るのも頷けるなぁと思ったのです。
しかし、正規の試合はそこまでのデスマッチではないんですよ。
それどころか、チャンピオンとの試合は三分間五ラウンド制で、しかも判定で決着がついちゃう。笑。
こんな人道的な試合制度であるならば、わざわざロボットにさせる必要性はないのでは?と思いました。
もう一つ言っておきたいことがあります。
この映画は「ロッキー・エンディング」の作品です。
「ロッキー・エンディング」とは何かというと、自分の考えた造語で、主人公はチャンピオンに対して善戦するが、最終的に判定で負ける終わり方を言います。
シルヴェスター・スタローンの『ロッキー』が公開されて以来、スポーツや格闘技を題材とする映画にこの終わり方をするものがやたら多い。
単純に主人公がチャンピオンに勝利するよりも、惜しくも負ける方が、作品に深みが出ると考えているのか、それともその方が続編が作りやすいからなのか、それは定かではありませんが、一つ言えるのは、ロッキー・エンディングの作品は、そうでない作品よりも高度な演出を要求されるということです。
そりゃまぁそうでしょう、判定結果がアナウンスされるまで、観る者に勝者がどちらかわからない試合展開をさせなければならないのですから。
その点で、本作は不合格。
客観的に見て、クライマックスの試合では、チャンピオンであるゼウスよりもチャレンジャーであるアトムが勝ってますからね。
にもかかわらず、「勝者ゼウス」とアナウンスされ、「何で?」と思いました。
亀田兄弟だったら、間違いなくジャッジに詰め寄ってますよ。笑。
これは、微妙な試合運びをさせるような高度な演出手腕が監督であるショーン・レヴィになかったからだと思いますが。
だとしたら、単純にアトムが新チャンピオンになるというエンディングにすれば良かったと思いますけどね。
こんな感じで、自分の本作への評価は非常に低いんですが、世間的な評価は案外高いみたいです。
この冬最も泣ける!!とか何とか公式サイトでは謳ってますが、実際泣けたという人がいたら、どこら辺で泣けたのか、是非聞いてみたいです。
お気に入り度は★★、お薦め度は★★☆(★は五つで満点、☆は★の半分)です。