続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『ヘヴン』川上未映子

2014-09-21 07:09:25 | 現代小説
 感想は・・・地獄絵巻を見たような呆然とした驚異としての落胆。オドロオドロした出口のない悲しみと憤りに胸が塞がってしまった。

 日常的に苛められている僕はある日筆箱に忍ばせた<わたしたちは仲間です>という紙片を受け取る。それはやがて、やはり同じようにクラスの女子から苛めを受けているコジマからのものであることが判明し、二人は接近し状況を語り合うようになる。

 コジマからの誘いでヘヴンへ行く。へヴンは場所(天国)でもなく、美術館の絵にあるという。へヴンという題名の作品ではないがコジマが名づけてそう呼んでいるへヴン・・・悲哀を越えて結ばれた二人が住む至福の部屋・・・しかし二人は一番奥にあるというその絵に辿り着く前に外に出てしまう。
 コジマが学校以外の場所ではいつも持っているという《はさみ》。そのはさみで、八年間も切らないでいる僕の髪を切るようにコジマに頼む。切り落とした髪の束をティッシュに包もうとしたコジマ、その手を離すように言う僕。
 反射的に開いた手から離れた髪は空気にふわりと浮かびそれから小さく左右にゆれはらはらとこぼれ落ちていくシーンの遊びにも似た刹那。

 やがて夏休みも終り、再び辛い登校の日々。破れたボールの皮を被ってサッカーボールよろしく蹴り上げられた僕は弾けるようなとてつもない衝撃のなか熱い痛みに襲われる。信じがたいほどの苛めの暴走。自転車で転んだと嘘をいい、医者へ行く。


「それが神さまでなくてもいいけど、そういう神様みたいな存在がなければ、いろいろなことの意味がわからなすぎるもの」といい、「苛めを受け入れているわたしたちは弱いわけではなく強さがないとできないことをしている。正しさの証拠、悲しいんじゃない、正義なんだ」というコジマの言葉。

 一方加害者である百瀬からは「君の目が斜視なんていうのは決定的な要因じゃない、たまたま・・・単純に言って、この世界の仕組みだからだよ。個人的には興味もないし感想もない。殴るなんて基本的に働いている原理と同じだよ。生きているってことは腹を立てたり喜んだりしながらもけっきょく、そういうことを楽しんでいるんだよ」
「罪悪感はないのか」という僕の質問に対し「ないよ」と即答。「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべだ。(悪いことをしたら地獄へ落ちる)なんていうことに意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」と。

「汚くしていることがわたしのしるしだったけど、もう一つ食べないことにしたの」というコジマ。(食べないことは死を予感させる)


 僕にとってやさしい継母も包丁で手を切る事故に遭うが、めったに家に帰らない父と関係があるかも知れず、苛められているのを隠している僕の嘘と同じかもしれない。僕に無関心でもある父・・・。
 継父と言い争いをしたというコジマは実父に対し「可哀想だから結婚してやったんだ」という母親を許せないでいる。二人の背景も健全さからは遠く歪んでいるかもしれない。
 それは巧みに大人たちの目を避け、死に到らせないギリギリの苛めの実態に似て、外部からは見えない。しかしいずれは露見するだろうという僕の問いに「そりゃ少しは騒ぎにはなるかもしれない」と平然と答える加害者側の横柄。

 エスカレートしていく苛め、図られた公園での逢瀬では、クラスのみんなの前で僕とコジマにセックスの現場を見せろと強要される。
 全裸にされたコジマ、パンツと靴だけの僕・・・。コジマは苛めの対象(二ノ宮)の前に立ち、ほほ笑んだ、大声で笑い、左端にいた女子の頬を右手でつっこむようになでた。土砂降りの雨のなかで得体の知れない強さに支えられた顔のコジマ・・・。

「できごとには必ず意味がある」と言い切り、仲間が去った後に残った(主犯的)加害者を見るコジマ。
 
 通りがかりの主婦の驚愕、やがて毛布をかけられ大人たちに抱きかかえられて去って行くのを僕は見えなくなるまで見ていた、コジマも僕を見ていた。そしてそれが最後のコジマの姿になった。


 継母に苛めの現実を告白した僕、継母に勧められるまま苛めの原因だったかもしれない斜視の手術をした僕の目。はじめて世界は像をむすび、奥ゆきを見た世界は美しかった。渾身の力をこめてひらいた目からとめどなく流れつづける涙。

《慟哭》というのでは足りない底知れぬ悲しみ。矛盾、不条理・・・現実に起きている苛めによる自殺。底知れぬ悲しみを秘密にしなければならない苦悩との闘い。
 すごい小説である。弱者の言えない言葉をつむぐように描いた世界の残酷。

 残忍な苛めに救いはあるのだろうか。(悔しさをバネにできる余力があれば幸いである)
 どんなに惨い苛めも被害者が耐えて黙認すれば世界は変らない。告発の勇気には耐えることの何倍ものエネルギーが要る。時間が経てば人間関係もいずれ変る。その時をじっと待つ被害者の憤懣と脅えた日常は忘れがたい記憶の烙印を押すかもしれないが、解放された自由は普通の空気ではないかもしれない。
 しかし、僕である主人公の「ただ美しいだけだ」という最後の言葉通り、世界はありのまま、ただ存在し続けている。へヴンはここにあるかもしれないし、死をもって逝かねば見えない世界かもしれない。(春の来ない冬はない)などという悠長な言葉は通用しない深い闇。究極、死を選択するか、逃避か・・・自身の変革に委ねられるしかない。

 川上未映子の客観、語られる言葉のなかの不変。作品は語られた以上の余韻で膨らみ、不条理の陰影を色濃く残している。

『蛇にピアス』金原ひとみ。

2014-09-13 06:49:28 | 現代小説
 今風にいえば、《痛い話》である。精神的にも物理的にも・・・。
 サガンを読んだときの印象に似ているかもしれない。若い作家の筆力や自分の立ち位置を客観視している点は天性の才覚に違いないと思う。
「自分にしか書けない世界を書きなさい」とは井上ひさし先生の言葉である。彼女が垣間見た、あるいは多少とも関わった世界での奇異な光景、事件性を帯びた日常の暴露。

 ピアス、それも普通でない「スプリットタンって知ってる?」という書き出しで物語は始まる。
「蛇とかトカゲみたいな舌。人間もああいう舌になれるんだよ」同居の男の挑発。主人公であるルイ(私)は耳穴の拡張(00Gは9.5ミリ程度)にハマっているが「君も身体改造してみない?」の言葉にうなずく。
 コンビニでバイトをしているアマとコンパニオンに登録しているルイとの同棲。舌へのピアスをシバさんという変態向けの店の店長に依頼するところから物語りは展開していく。アマの暴力団員への執拗な攻撃はのちに死をもたらし、容疑者となったアマはむごたらしい変死体で発見される。アマを思いながらシバさんとの関係を持つルイ・・・。
 舌に穴を空けていくルイ・・・描写は会話でつないでいくが、読み手には映像的に視覚化される。淡々と、(一般人にとっては)非日常的な行為が綴られている。
 むごたらしく、グロテスクな光景である。にも拘らずあたかも当たり前のような錯覚を抱く。

 再読は辛い、本を閉じたら忘れたいと思う。
 この作家の洞察・・・肉体を血だらけにして覚めた目で描いた作品。《どうだ》と言っているようでもある。
《この生き方で悪いか!》と突っ張っている。(人生は始まったばかりなのに)と思うのは社会の中で何とか整列し、はみ出さないよう苦慮している人間の言い分なのだろうか。
 人生も後期の読者であるわたしは、黙って抱きしめてあげたい(滂沱の涙を隠して)と思う、この作品の血だらけの内実に。

ちょこっと読書(村上春樹)④

2014-08-31 06:45:32 | 現代小説
『中国行きのスロウ・ボート』
 スロウ・ボート(貨物船)・・・船は貸しきり、二人きり・・・(古い唄)のイントロ。

 最初の中国人に出会ったのはいつのことだったろう?
 この文章は、そのような、いわば考古学的疑問から出発する。

 おや、この人は何が言いたいのだろう?という不可思議な疑問からこの文章(作品)を読み始める。読み終えた後に、考古学的疑問の意味が判明する構図に気づくという円環の物語である。端的に言えば、日本人も中国人もアジア民族であり、DNAを辿るまでもなく同胞である。Same.Sameであるのに、なぜ奇妙な違和感があるのだろう。戦争のもたらした亀裂、国という組織の中の茫漠とした意識が見えない壁を作っているのかもしれない。

 三人の登場人物はそれぞれ僕と同じ感想を抱いている。正義・博愛・平等を小学生に噛み砕いて教える教師は「わたくしはこの小学校に勤める中国人の教師です」と言い、二人目の女子学生は、彼女は自分が中国人だといった。そして三人目は高校時代時代のクラスメートであり、後日(二十八才)喫茶店で声を掛けられるが、どうしても思い出せない。しかし「中国人専門なんだよ」「同胞のよしみというやつで・・・」という言葉から彼に対する記憶が甦る。

 三人とも本人の発言がなければ、中国人であるという認識は生じないほど、まるで違和感がない。
 教師は床に引きずるように軽いびっこをひき、杖をついている。(四十歳未満に見えたが戦争に起因する支障かもしれない)
「顔をあげて胸をはりなさい、そして誇りを持ちなさい」と試験場として仮にやってきた日本人生徒たちに教える。これは中国人生徒たちにも共通に教えている《人としての生きる姿勢》に違いない。
 女子学生は、僕のとんでもない失敗(逆回りの山手線に乗せてしまった)に「気にしなくてもいいのよ。こんなのこれが最初じゃないし、きっと最後でもないんだもの」と言う。しかし彼女の瞳からは涙が二粒あふれ、コートの膝に音を立ててこぼれた。
 二粒の涙が音を立てることはないと思うが、それを見た僕の衝撃の大きさである。
「そもそもここは私の居るべき場所じゃないのよ。ここは私のための場所じゃないのよ」と言う彼女の手を取り、僕の膝のうえに乗せた。この失敗、この立ち位置(状況)をうまく説明できないでいるうちに分かれた僕は二つ目の誤謬に気づく。連絡先を書いた紙マッチを捨ててしまい再び会う手段を失ってしまったのである。
 三人目のクラスメートは、中国人であるゆえか、中国人相手の販売業で生計を立てているらしい。育ちも悪くないし成績も僕より上だったにも拘らずである・・・。語りべの僕も借金を抱えている身であるが。

 条理なのか、不条理なのか・・・まるで同じにしか感じられない人が背負う国というエリアの意味。
 誤謬こそが僕自身であり、あなた自身であるならば、どこにも出口はない。
 緑なす草原を想いながら、空白の水平線にいつか姿を現わすかもしれない中国行きのスロウ・ボートを待とう。もしそれが本当にかなうものなら何も恐れずにささやかな誇りを持ってそれを待とう。

 誤謬、曖昧さ、喪失と崩壊に揺れる心情の不確かさ。見えない罅、亀裂。
 世界は一つのはず、僕は東京と言う街の中で中国を夢想し、一つの暫定としての中国を放浪する。
(しかし)

 友よ、中国はあまりに遠い。

 村上春樹はごく平易な言葉で、ひどく難しい曖昧さを解こうとしている。だから読後は、その揺れているような感覚に酔ってしまっている自分の出口が見つからない。

ちょこっと読書(村上春樹)③

2014-08-21 06:37:54 | 現代小説
 短編も三作目になると、作家の手法が見えてくる。
《パッチワーク技法》である、それぞれ異なる布地を集めて部分的に継ぎ大きく広げて行く。際限なく広げることは出来るが、バランスを考えると途方もなく困難になるという手法で、取り合わせの妙がものをいう。予期しない共鳴に胸の高まりを抑え切れない効果が生じるけれど、星の数ほどの組み合わせの中で選択するセンスが必須であり、その起伏ある物語のような流れは見るものを圧倒する。連続パッチの場合は最初のパターンと縫製技術があれば仕上げることは可能だけれど、クレイジーなパッチワークの場合、難しくもあり、そのエネルギーは想像を遥かに超える。
 パッチワークは素晴らしく広がりある世界であるけれど、あまりにも時間がかかり修正もまた困難であるという行程のため、女性の内なる手仕事に納まっているのは残念に思う。

 現代は忙しく、場面の切り替えはむしろ日常的になっている。ふっと現れ、ふっと消えてしまう。その中で軸である自分は主体性なく泳がされているとさえ錯覚してしまうほどの混沌がある。パッチ(部分)で、あたかも唐突につながっていく物語をつむいでゆくエネルギーは読む者を奇妙に引きずり混沌という日常(あるいは非日常)へと誘い込んでいく。


 前置きが長くなってしまったけれど、この手法である。主人公である僕を中心にエピソードのパーツを集め繋げていく。脈絡はないが、奇妙な雰囲気が生じる。
 軋みと言ってもいいかもしれない。

『ニューヨーク炭鉱の悲劇』
 プロローグは目立たないような小さな文字で《地下では救助作業が、続いているかもしれない。それともみんなあきらめて、もう引きあげちまったのかな『ニューヨーク炭鉱の悲劇』(作詞・歌/ザ.ビージーズ)》とあり、ラストに《そとではもちろん人々は穴を掘り続けている。まるで映画の一場面のように。と締めくくられている。

 しかし、この標題にもかかわらず、のっけから僕の友人の話で始まり、《なにしろ、もう28だものな・・・。》とこの年齢にありがちな心境の変化を吐露したりする。
 物語は全て形而下にあるのに、あえて形而上的な丘の上の形而上的な殺戮について《その直後》に不意打ちのように始まったのだとつなげている。

 現実と非現実のあいだに横たわるその暗い溝を最初にまたいだのは・・・中学の時の教師の自殺であり《28歳の青年の死は、冬の雨のように何かしら物哀しい。》と胸をつく言葉で語られる。(まるで、詩の断片だ)

 台風の日には会社を休んでまで動物園に行き動物の様子に対峙するという変人(他の日常はごくノーマルらしい)に葬式用の黒い背広とネクタイと黒い革靴を借りにいく僕は、彼から「動物園に猫の檻を見た」という話を聞く。
 常ならざることはのエピソードは淡々と綴られて行く。
 幾つかの事故死。
「もう充分な数の人間が死んだ」「何だかピラミッドの呪いみたいだな」会話は夜中の賛辞に動物園にいったという話に及び、
「結局この大地は地球の芯まで通じていて、そしてその地球の芯にはとてつもない量
の時間が吸い込まれているんだよ」と、友人。
「いずれにせよスイッチを軽く押すだけでコミュニケーションがブラックアウトする」
 ビール、ウィスキー、シャンパンと飲み継いでいく友人との夜更け。

 物語の最後の女は「あなたによく似た人を殺した」と告白する。「もちろん法律上の殺人なんかじゃない」という女は十一時五十五分に流れ出した『蛍の光』って大好きだというが、僕は『峠の我家』のほうが鹿やら野牛やら出てきていいと答え、不意にも服を借りた友人を思い出す。

 そして物語は、空気を節約するためカンテラを消した漆黒の闇の中の坑夫たちが、岩盤を削る音に耳を澄ませているという光景で終る。

 静謐な死のメロディは、しかし生きている者にしか聞えない。

ちょこっと読書(村上春樹)②

2014-08-19 06:56:59 | 現代小説
『雨の日の女♯241♯242』

 男は雨の日の訪問者を覗いている。女のアタッシュケースには♯241の番号が貼ってあることが彼女がケースを右手に持ち替え左手でベルを押したときに化粧品会社のマークと共に判明した。(しかし、ここに意味はあるのか) 
 男は二度のベルの音を貝のように身を縮めて聞いているが出ようという意志は皆無。まるで観客ででもあるかのように自分の家を訪ねてきたセールスの女を凝視している。
 四月の四時前、四十代の女・・・緑色のビニール傘、ピンクのスーツ、薄茶色のレインシューズ・・・彩色だけ考えると正しく春の桜である。雨に濡れた桜、満開を過ぎ、散りどころを待ちあぐねているような・・・。
 男は当然の事ながら視線を合わすこともなくただ女が現れたという事実を現象のように描いている。この男は誰とも直接的な関わりを持っていない。少なくとも、この四時前から街灯が灯る時刻までのあいだ・・・独り言で展開していくに過ぎない。

 排他的であるばかりか残虐でもある。積極的な虐待があるわけではないが暴力的な内在がある。
 男はウィスキーをちびりちびりと飲んでいる、しかし泥酔しているわけでもなく、きわめて静かに沈思しているだけである。

 夢の話はおぞましいほどの悪夢である。白い緑色の目をした蛇を石油を撒いて燃やすと、その煙が空気を蝕み、全体蛇になって僕を追いかけてくる。地下鉄に逃げ込んだ僕は巨大な冷凍庫の中のリスの死体をその蛇に投げつけるが届かず、途中で黴の奉仕のように分解して空中にふわふわ舞ったという恐怖・・・そのリスの死体を持った手の感触を覚えているという気味の悪さ。

 手首に青紫色の火傷のある物理の教師の自殺を傍観する僕という過去の存在。

 ♯241の女が再びこの家の前を通るはずだと確信して窓の外を凝視し続ける僕はタクシーから男が下りてくるのを見るが、男はその鋭い眼差しだけを残して反対方向へ消えてしまう。
 
 失踪した女友達のアパートの室内に残された腐ったリンゴ・・・管理人や警察の事務的な処理により部屋は明け渡され、二週間後には新しい住人が何事もなかったような生活が展開されている。人が消えていなくなるというミステリアスな日常の暗い溝。

 ♯241の女が見つめていたハナミズキの枝にはこぼれ落ちる水滴が死んだばかりの魚の歯のように並んでいると僕は感じる。

 玄関を開けて待っていた女は夕闇に包まれ街灯が点く時刻になっても現れることはなかった。
 やがて夜が来たが、彼女は永遠に、永遠に戻ってこない、と僕は思う。(永遠という言葉を放てば永遠に違いないという言葉の威力、永遠の陰には常に刹那が隠れているかもしれない)

 そんな話である。きわめて個人的な妄想は他者との関係が希薄であり、自分の周りの出来事を傍観者のように喜怒哀楽の感情を入れ込むことなく淡々と描いた奇妙なおとぎ話である。(僕の空虚は留まることない)
 題に「♯241♯242」と重ねて書くことで不可思議な余韻を残している。

ちょこっと読書。(村上春樹作品)

2014-08-15 06:31:53 | 現代小説
 村上春樹作品集のなかの初期の短編を読んでみた。
『貧乏な叔母さんの話』貧乏という言葉に反応したのだろうか、貧乏なオバさんであるわたしがちょこっとページを括って悪いわけがあるだろうか・・・という気分で読み進めると、何だか眠っていたある種の感覚が烈しく作動し始めるのに、むしろ自分の方が付いていけない気持ちになった。

 この作家は何が言いたかったのだろう。何ものでもない何かをあたかも見えるように言葉という道具で創る、否、もてあそんでいる。七月の王国、光の微塵という幻想から秋の終わりの季節までのほんの短い時間、僕の背中に貼り憑いていた貧乏な叔母さんという存在の不確かさを描写している。そしてもし一万年後に彼女たち(幻想)だけの社会が出現したとすればとありえないほど遠くの未来(長い時間)を空想し、そこに僕という存在が幾つもの冬を越えて生き続けるかのような錯誤した時空の物語である。

 ありえない話ではなく、ありうる現実を描いて錯綜した異空間を垣間見せる。読者はその魔術に惹きこまれていく。本を閉じれば現実は直接的に迫ってくるが、本の中の奇妙な時空に未練を残してしまう。

(あれは何だったのか)

 僕の眼からは貧乏な叔母さんは見えない。しかし、明らかに感じているし、周囲の眼差しもそれ(貧乏な叔母さん)に反応している。「あなたの背中にはっきりと見える」とまで言わしめ、その存在を読者の知覚に刻んでいく。概念的な記号に過ぎないかもしれない貧乏な叔母さんという存在、この嘘から出た真のような二重構造は移ろいの時と共に薄らぎ、僕の中に沈黙という形で一体化してしまう。
 そうした日を重ねているうち電車の中で出会った母子たち(現実)にその幻想は吸い取られ、あるいは重なって正体を失っていったのだろうか、僕の背中から貧乏な叔母さんは消えてしまったということに気づく(あくまで気づくのであって、質量を持ったおばさんが消えたわけではない)。そのことを告げるべく連れである彼女に電話をするが当然ながら僕と彼女の想念には大きなズレがあり埋められるべくもなく、酷い空腹(空漠)に襲われてしまう。
 無限に続く限りないほどの空虚・・・。

 そもそも貧乏な叔母さんとは何だったのか。

 貧乏は貧しいということではなく存在は薄いが確実に存在している、意識しなければ永遠にその存在に気づかないような何かを・・・。わたし達は得体の知れないものに寄り添われながらある日その消失にも気づかずに何事もなかったように世界の中の雑踏に息をしているのかもしれない。


 重層的なトリック、奇妙な時空の切り方は実験的な現象のようにも感じる。言葉の飛躍は軽々とミステリアスな光彩を放ち、世界の中に沈み込んでいく。静かなる谷底であり、透明無限な天空の高さに挑戦しているような浮遊、そんな読後感。