感想は・・・地獄絵巻を見たような呆然とした驚異としての落胆。オドロオドロした出口のない悲しみと憤りに胸が塞がってしまった。
日常的に苛められている僕はある日筆箱に忍ばせた<わたしたちは仲間です>という紙片を受け取る。それはやがて、やはり同じようにクラスの女子から苛めを受けているコジマからのものであることが判明し、二人は接近し状況を語り合うようになる。
コジマからの誘いでヘヴンへ行く。へヴンは場所(天国)でもなく、美術館の絵にあるという。へヴンという題名の作品ではないがコジマが名づけてそう呼んでいるへヴン・・・悲哀を越えて結ばれた二人が住む至福の部屋・・・しかし二人は一番奥にあるというその絵に辿り着く前に外に出てしまう。
コジマが学校以外の場所ではいつも持っているという《はさみ》。そのはさみで、八年間も切らないでいる僕の髪を切るようにコジマに頼む。切り落とした髪の束をティッシュに包もうとしたコジマ、その手を離すように言う僕。
反射的に開いた手から離れた髪は空気にふわりと浮かびそれから小さく左右にゆれはらはらとこぼれ落ちていくシーンの遊びにも似た刹那。
やがて夏休みも終り、再び辛い登校の日々。破れたボールの皮を被ってサッカーボールよろしく蹴り上げられた僕は弾けるようなとてつもない衝撃のなか熱い痛みに襲われる。信じがたいほどの苛めの暴走。自転車で転んだと嘘をいい、医者へ行く。
「それが神さまでなくてもいいけど、そういう神様みたいな存在がなければ、いろいろなことの意味がわからなすぎるもの」といい、「苛めを受け入れているわたしたちは弱いわけではなく強さがないとできないことをしている。正しさの証拠、悲しいんじゃない、正義なんだ」というコジマの言葉。
一方加害者である百瀬からは「君の目が斜視なんていうのは決定的な要因じゃない、たまたま・・・単純に言って、この世界の仕組みだからだよ。個人的には興味もないし感想もない。殴るなんて基本的に働いている原理と同じだよ。生きているってことは腹を立てたり喜んだりしながらもけっきょく、そういうことを楽しんでいるんだよ」
「罪悪感はないのか」という僕の質問に対し「ないよ」と即答。「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべだ。(悪いことをしたら地獄へ落ちる)なんていうことに意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」と。
「汚くしていることがわたしのしるしだったけど、もう一つ食べないことにしたの」というコジマ。(食べないことは死を予感させる)
僕にとってやさしい継母も包丁で手を切る事故に遭うが、めったに家に帰らない父と関係があるかも知れず、苛められているのを隠している僕の嘘と同じかもしれない。僕に無関心でもある父・・・。
継父と言い争いをしたというコジマは実父に対し「可哀想だから結婚してやったんだ」という母親を許せないでいる。二人の背景も健全さからは遠く歪んでいるかもしれない。
それは巧みに大人たちの目を避け、死に到らせないギリギリの苛めの実態に似て、外部からは見えない。しかしいずれは露見するだろうという僕の問いに「そりゃ少しは騒ぎにはなるかもしれない」と平然と答える加害者側の横柄。
エスカレートしていく苛め、図られた公園での逢瀬では、クラスのみんなの前で僕とコジマにセックスの現場を見せろと強要される。
全裸にされたコジマ、パンツと靴だけの僕・・・。コジマは苛めの対象(二ノ宮)の前に立ち、ほほ笑んだ、大声で笑い、左端にいた女子の頬を右手でつっこむようになでた。土砂降りの雨のなかで得体の知れない強さに支えられた顔のコジマ・・・。
「できごとには必ず意味がある」と言い切り、仲間が去った後に残った(主犯的)加害者を見るコジマ。
通りがかりの主婦の驚愕、やがて毛布をかけられ大人たちに抱きかかえられて去って行くのを僕は見えなくなるまで見ていた、コジマも僕を見ていた。そしてそれが最後のコジマの姿になった。
継母に苛めの現実を告白した僕、継母に勧められるまま苛めの原因だったかもしれない斜視の手術をした僕の目。はじめて世界は像をむすび、奥ゆきを見た世界は美しかった。渾身の力をこめてひらいた目からとめどなく流れつづける涙。
《慟哭》というのでは足りない底知れぬ悲しみ。矛盾、不条理・・・現実に起きている苛めによる自殺。底知れぬ悲しみを秘密にしなければならない苦悩との闘い。
すごい小説である。弱者の言えない言葉をつむぐように描いた世界の残酷。
残忍な苛めに救いはあるのだろうか。(悔しさをバネにできる余力があれば幸いである)
どんなに惨い苛めも被害者が耐えて黙認すれば世界は変らない。告発の勇気には耐えることの何倍ものエネルギーが要る。時間が経てば人間関係もいずれ変る。その時をじっと待つ被害者の憤懣と脅えた日常は忘れがたい記憶の烙印を押すかもしれないが、解放された自由は普通の空気ではないかもしれない。
しかし、僕である主人公の「ただ美しいだけだ」という最後の言葉通り、世界はありのまま、ただ存在し続けている。へヴンはここにあるかもしれないし、死をもって逝かねば見えない世界かもしれない。(春の来ない冬はない)などという悠長な言葉は通用しない深い闇。究極、死を選択するか、逃避か・・・自身の変革に委ねられるしかない。
川上未映子の客観、語られる言葉のなかの不変。作品は語られた以上の余韻で膨らみ、不条理の陰影を色濃く残している。
日常的に苛められている僕はある日筆箱に忍ばせた<わたしたちは仲間です>という紙片を受け取る。それはやがて、やはり同じようにクラスの女子から苛めを受けているコジマからのものであることが判明し、二人は接近し状況を語り合うようになる。
コジマからの誘いでヘヴンへ行く。へヴンは場所(天国)でもなく、美術館の絵にあるという。へヴンという題名の作品ではないがコジマが名づけてそう呼んでいるへヴン・・・悲哀を越えて結ばれた二人が住む至福の部屋・・・しかし二人は一番奥にあるというその絵に辿り着く前に外に出てしまう。
コジマが学校以外の場所ではいつも持っているという《はさみ》。そのはさみで、八年間も切らないでいる僕の髪を切るようにコジマに頼む。切り落とした髪の束をティッシュに包もうとしたコジマ、その手を離すように言う僕。
反射的に開いた手から離れた髪は空気にふわりと浮かびそれから小さく左右にゆれはらはらとこぼれ落ちていくシーンの遊びにも似た刹那。
やがて夏休みも終り、再び辛い登校の日々。破れたボールの皮を被ってサッカーボールよろしく蹴り上げられた僕は弾けるようなとてつもない衝撃のなか熱い痛みに襲われる。信じがたいほどの苛めの暴走。自転車で転んだと嘘をいい、医者へ行く。
「それが神さまでなくてもいいけど、そういう神様みたいな存在がなければ、いろいろなことの意味がわからなすぎるもの」といい、「苛めを受け入れているわたしたちは弱いわけではなく強さがないとできないことをしている。正しさの証拠、悲しいんじゃない、正義なんだ」というコジマの言葉。
一方加害者である百瀬からは「君の目が斜視なんていうのは決定的な要因じゃない、たまたま・・・単純に言って、この世界の仕組みだからだよ。個人的には興味もないし感想もない。殴るなんて基本的に働いている原理と同じだよ。生きているってことは腹を立てたり喜んだりしながらもけっきょく、そういうことを楽しんでいるんだよ」
「罪悪感はないのか」という僕の質問に対し「ないよ」と即答。「地獄があるとしたらここだし、天国があるとしたらそれもここだよ。ここがすべだ。(悪いことをしたら地獄へ落ちる)なんていうことに意味もない。そして僕はそれが楽しくて仕方がない」と。
「汚くしていることがわたしのしるしだったけど、もう一つ食べないことにしたの」というコジマ。(食べないことは死を予感させる)
僕にとってやさしい継母も包丁で手を切る事故に遭うが、めったに家に帰らない父と関係があるかも知れず、苛められているのを隠している僕の嘘と同じかもしれない。僕に無関心でもある父・・・。
継父と言い争いをしたというコジマは実父に対し「可哀想だから結婚してやったんだ」という母親を許せないでいる。二人の背景も健全さからは遠く歪んでいるかもしれない。
それは巧みに大人たちの目を避け、死に到らせないギリギリの苛めの実態に似て、外部からは見えない。しかしいずれは露見するだろうという僕の問いに「そりゃ少しは騒ぎにはなるかもしれない」と平然と答える加害者側の横柄。
エスカレートしていく苛め、図られた公園での逢瀬では、クラスのみんなの前で僕とコジマにセックスの現場を見せろと強要される。
全裸にされたコジマ、パンツと靴だけの僕・・・。コジマは苛めの対象(二ノ宮)の前に立ち、ほほ笑んだ、大声で笑い、左端にいた女子の頬を右手でつっこむようになでた。土砂降りの雨のなかで得体の知れない強さに支えられた顔のコジマ・・・。
「できごとには必ず意味がある」と言い切り、仲間が去った後に残った(主犯的)加害者を見るコジマ。
通りがかりの主婦の驚愕、やがて毛布をかけられ大人たちに抱きかかえられて去って行くのを僕は見えなくなるまで見ていた、コジマも僕を見ていた。そしてそれが最後のコジマの姿になった。
継母に苛めの現実を告白した僕、継母に勧められるまま苛めの原因だったかもしれない斜視の手術をした僕の目。はじめて世界は像をむすび、奥ゆきを見た世界は美しかった。渾身の力をこめてひらいた目からとめどなく流れつづける涙。
《慟哭》というのでは足りない底知れぬ悲しみ。矛盾、不条理・・・現実に起きている苛めによる自殺。底知れぬ悲しみを秘密にしなければならない苦悩との闘い。
すごい小説である。弱者の言えない言葉をつむぐように描いた世界の残酷。
残忍な苛めに救いはあるのだろうか。(悔しさをバネにできる余力があれば幸いである)
どんなに惨い苛めも被害者が耐えて黙認すれば世界は変らない。告発の勇気には耐えることの何倍ものエネルギーが要る。時間が経てば人間関係もいずれ変る。その時をじっと待つ被害者の憤懣と脅えた日常は忘れがたい記憶の烙印を押すかもしれないが、解放された自由は普通の空気ではないかもしれない。
しかし、僕である主人公の「ただ美しいだけだ」という最後の言葉通り、世界はありのまま、ただ存在し続けている。へヴンはここにあるかもしれないし、死をもって逝かねば見えない世界かもしれない。(春の来ない冬はない)などという悠長な言葉は通用しない深い闇。究極、死を選択するか、逃避か・・・自身の変革に委ねられるしかない。
川上未映子の客観、語られる言葉のなかの不変。作品は語られた以上の余韻で膨らみ、不条理の陰影を色濃く残している。