続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

デュシャン『泉』③

2017-06-30 06:45:55 | 美術ノート

 『泉』

 一日数回はお世話になる便器、生活の要であるが、そのことは忘れたいほどに無を喚起させる。排尿…体内の不必要な汚れを排出するための受け入れ口。
 美しさとは無縁であり、やむなく仕方なく対面しなくてはならない便器という存在。少なからず嫌悪さえ抱きかねない便器に対する感情。
 しかし、耽美に値する『泉』というタイトルをつけている。
 もの悲しくも必要不可欠な存在に対する相反するような感情の対立を内包した便器。

 生理的な排除(排泄)に愛おしい感情は湧かないが、愛すべき身体の生理的な必然である。
 大いなる矛盾が背中合わせに一体化した便器に、デュシャンは生命の秘密を見たのではないか。
 秘密裏に行われる排泄という行為の尊厳と卑猥。

 地球の億年を巡回する《水》は生命の源であり、湧き出る泉の水も排尿もその循環の一刹那である。
 清水と汚水の定めは繰り返し長い旅に出るが、本質においては少しも変わらない。長い旅の一つの停留所としての便器を、しかと「ご覧あれ」というわけである。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


『城』2681。

2017-06-30 06:08:05 | カフカ覚書

わたしは、従僕たちを通じてお城とのつながりがあるだけでなく、あるいはつぎのような可能性もあるかもしれないし、また、それに期待をかけているのです。


☆わたしは死人たちを通じてお城(本当の死)とのつながりがあるだけでなく、死の入口でもあるのです。


デュシャン『チョコレート粉砕機』④

2017-06-29 06:47:08 | 美術ノート

 『チョコレート粉砕機』

 この粉砕機、中心に向かうべきローラーはすべて外側へ傾いており、これでは何も粉砕できない。
 危ういバランスであるにもかかわらず、上からの円板は抑えているように見えるだけで脆弱であり、機能は期待できない。
 下の台は面積は三つのローラーが乗るほどには大きいが、支える足は細い猫足であり、今しも押しつぶされる予感がある。
 幾つかの円形によって回転のイメージを想起させるが、空転・崩壊は免れない構成であり、一見鈍重にみえる形態には緊張感(危機感)が内包されている。

 つまり、何ら生産性のない仮想の器具である。継続のない瞬間的な集合は、息を詰めるような緊張感を孕んでいる。しかし、内実はあたかも動ぜず泰然と本当にこういう物が存在するのだという虚偽の報告である。

 絵図によってしか存在しない物、非存在物を存在物として描いている超現実的な作品であるにも関わらず、存在物の写生のような錯覚を抱かせるところにデュシャンの意図がある。
 虚実・存在の有無に、まるで隙間があるかのように入り込んでいく姿勢、思索の感性こそがデュシャン自身である。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


『城』2680。

2017-06-29 06:03:23 | カフカ覚書

おまけに、わたしは、そういう約束があの人たちにとってなんの意味ももっていないことをとっくに経験ずみでした。けれども、いちばん大事なのは、そういうことではありません。


☆すでにこのような期待は少ないと聞き知っていました。けれど、重要なことは、全くそういうことではありません。


デュシャン『秘められたる音』④

2017-06-28 06:53:13 | 美術ノート

 『秘められたる音』

 この作品は《わたくし自身=デュシャン》である。
 12.9×13×11.4㎝…いかにも小さい、どこからも眺め渡すことが可能であり、チンケといってもいい代物であるが、2本どころか4本の足を持ち、動じることはない。
 上からの圧迫は承知しているが、下からの支持も厚い。即ちわたくしの作品提示に共鳴してくださる方々の応援もあるということで、頑強にネジ留めされた不動に支えられている。
 上下の真鍮板(金属)は熱しやすく冷めやすいという特質があるが、幾重にも巻かれた紐の玉の劣化(生命)に比べれば、真鍮板(鑑賞者/大衆)の存在は永続的である。

 幾重にも巻かれ閉じられた紐の玉はわたくしの思考の痕跡であり、一筋の論拠に確信を以て臨んでいるが、否定を余儀なくされることもあるかもしれません。。
 しかし、わたくし(紐の玉)は上下からの賛否に束縛されているわけではありません。なぜならサイドの四方は解放されており、紐の玉(わたくし)の柔軟性をもって自由は約束されているからです。

 このようなきわめて小さな紐の玉(わたくし)ではありますが、『秘められたる音』である内包のエネルギーを抱いております。それは《存在》に対する凝視の眼差しである有無への根源的な問いであり、空間と時間の方向性を問うものであります。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


『水仙月の四日』78。

2017-06-28 06:38:57 | 宮沢賢治

 その眼は闇のなかでをかしく青く光り、ばさばさの髪を渦巻かせ口をびくびくしながら、東の方へかけて行きました。
 野はらも丘もほつとしたやうになつて、雪は青じろくひかりました。


☆願いの案(考え)である照(あまねく光が当たる=平等)の講(話)である。
 発(明らかにする)で、化(形、性質を変えて別のものになる)を換(入れ替える)講(はなし)は、等(平等)の法(神仏の教え)の講(話)也。
 究(つきつめる)説(話)は照(あまねく光が当たる=平等)である。


『城』2679。

2017-06-28 06:23:14 | カフカ覚書

村でつきあった相手となると、なおさらそうにちがいありません。馬小屋のなかでは、お城で会えるときを楽しみにしている、などと調子のいいことを何百回も言っていた人たちがね。


☆村(死の入口付近)で行き来し、百の傷痕を持つ立場で、城(本当の死)で再び会えるよう懇願しているのかもしれない。


何となく…。

2017-06-27 07:28:26 | 今日の一枚。

 総て手縫いである。
 なんとなく手を動かしているうちに出来上がる簡単ハウスウエアー。

 作っただけで着用しない服もある、ばかばかしいほどの労力。でもいいの、縫っている時だけ食べることを忘れるから(まあ、縫物ダイエット)。