Kさんはどうしているかしら・・・最近二か月ほどは顔を見ていないKさん、そう思いながら例の四人会のためにバス停に向かったいたら、傘を差し買い物袋を下げたKさんが曲がり角からひょいと現れた。
(雨が降っているのに出かけなくてはならないなんて)ちょっぴり重い気持ちだったわたしの前に姿を見せたKさんの軽い足取り!
「ちょっとね、用があったから」と、笑顔のKさん。
「寒いのに・・」と言えば
「あんたこそ風邪ひかないように気を付けてよ」と勿体ない忠告。
齢96才の元気に励まされたわたし。Kさんのいろんな経由を知っているけど、いつも丈夫で元気。
一日の神社参りを欠かさない。
そうね、神さまはいらっしゃるのかもしれないわ。
わたしも頑張らなくちゃぁ・・・わたしの神様はあなたかもしれない。
『記念日』
何の記念日なんだろう。室内に巨岩石がある。侵入は有り得ない、屋根を突き破ったのでも入口を破壊したのでもなく、部屋の中に鎮座している巨岩石。むしろ室内(部屋)が巨岩石を包んでいるとさえいえる状況である。
主なる神はとこしえの岩だからである。
わたしのほかに神はいるか、
わたしのほかに岩はない。 (『イザヤ書』より)
室内を満たす岩は神の象徴なのだろうか。動かすことも退かすこともできないように見える。他の物が入り込む隙間さえない空間を『記念日』と称する理由はどこにあるのだろう。
室内(人為的建屋)は英知ある人間の精神の具現だとすれば、岩は単なる岩でなく信仰の対象/要である。
人の心に大きく居場所を占め動かし難く存在する信仰は《ある日》をもって扉を開けたのかもしれない。精神の扉は巨大なものをも受容する。
精神の流動性はあらゆる変幻を許可し、有り得ない現象を許容してしまう。
窓の外の景色は海のようにも見える。もしかしたらこの部屋は海に浮いているのではないか。巨岩石の比重を考えたら浮くはずのない状況である。
自然の理をいとも簡単に超える現象を見せる《精神界のマジック》は、人類史上の記念日として刻まれるべきかもしれない。
マグリットの感想である。
(写真は国立新美術館「マグリット」展・図録より)
「いや、商売ものを貰っちゃすみませんな。」その人は、帽子をとりました。
「いゝえ、どういたしまして。どうです、今年の渡り鳥の景気は。」
☆章(文章)は倍(同じものを二度加えること)に盛られ、訊(問いただす)謀(はかりごと)の詞(ことば)がある。
金(尊い)念(思い)の図りごとを重ねて継(つなぎ)、記している。
それに、あんたは、わたしたちのためにも戦ってくれているのでしょ。それは、あんたにとってまるで意味のないことかしら。それは、あんたに新しい力を鼓舞してくれないの。わたしは、あんたのような弟をもって、とても幸福だし、ほとんど鼻高々なんだけど、このことも、あんたになんの安心感もあたえないの。
☆それに、わたしたちのために戦ってくれているのでしょう。それは十分ではないの。少しも新しい力にはなっていないの。だから、私は幸福だと自負しているけれど、先祖の同郷人として少しも安心できないの。
『エルシノア』
生い茂った森(緑)を人為的にカットし、城郭の形を想起させている。地面はやわらかな若草のようにも見えるが、空は奇妙に白っぽく上部は紫いろに変化し、隙間からわずかに青空がのぞいてる。空と大地の境界はブルー、つまり海を暗示しているのかもしれない。
この景を『エルシノア』と称している。エルシノアとは何だろう。
幻の城郭、森のように見える内部があるのに対し、外観は薄っぺらな一枚の面でしかない。窓(開口部)から覗くのは外部の空と同じであれば、立体的な建屋でないことは明明白白、一枚の平面である。
作品の中央部に目を凝らせば深い森であり、全体を見渡せば切り取られた城郭に見える。物見やぐらの開口部ということは、こちらを疑心暗鬼に見張る眼差しを想像させるに足りるものであるが、そこには外部(空)と共通した虚空が見えるばかり、建屋全体が虚構なのである。
見えるものは幻の虚構である。
城郭は真に城郭であるのか、城郭(権威)は風に揺れる葦のような儚いものではないか。
強固に見える、そのことでさえ、実は疑わしいのではないか。
マグリットは、その眼差しを問う。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「も少しおあがりなさい。」鳥捕りがまた包みを出しました。ジョバンニは、もっとたべたかったのですけれども、
「えゝ、ありがたう。」と云って遠慮しましたら、鳥捕りは、こんどは向ふの席の、鍵をもった人に出しました。
☆照(あまねく光があたる=平等)の帖(書付)を保ち、法(神仏の教え)を推しはかる運(めぐりあわせ)である。
掩(覆い隠した)慮(考え)を重ねた講(はなし)である。
析(分けること)を兼ねる図りごとを遂(やりとげる)。
どんなにつまらぬものでも、あんたがひとつひとつ自分で戦いとっていかなくてはならないということよ。それは、あんたが誇りを高くする理由にこそなれ、へこたれてしまう理由にはならないわ。
☆氏族の一人一人が戦い取るべきなのよ。むしろ誇りを持って、決して打倒されてはならないわ。
『終わりなき認識』
険しい山々の聳える中空に浮かぶ球体、その上に乗る人は遥か手前のこちら(室内)を見て頭を後頭部に回している、即ち思索の渦中である。
Reconnaissance(英)は探察であり、Connaissance(仏)は認識である。探察は相手(対象)を伺うことであり、認識は意味づけされた個人的な意識の働きである。
球体(真理)の上の男は建屋にいるであろう私(作家)を見ている。私もまた当然ながら球体の上の男を観察している。
球体(不変の真理)において、バランスの崩れは少しも許されず、偏ることがあれば、奈落の底に墜落するしかない状況である。
マグリットはあらゆる感覚器官を駆使して球体の上の男を探察する。感性・直観・理性・知性・悟性…今に至るまでの経験上知り得た情報を意識的に表象すべく描いた男の状況である。
《あの男は私である》客観的な確認のために描いた対象は、そのまま私の内的認識を外に現わしたものに過ぎない。
私(マグリット)は、中空に浮く不安定な存在そのものである私を観察し、私という感覚器官に拠りそのものを捉えようとしている。
しかし、真理という絶対の極みに一体化(同化)することなく、真理を足下に突っ立つ迷走ぶりが見えるばかりである。
どこまでも果てしなく真理への認識は追及される。認識における明確な表象に完結はない。
マグリットの感想である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
この男は、どこかそこらの野原の菓子屋だ。けれどもぼくは、この人をばかにしながら、この人のお菓子をたべてゐるのは、大へん気の毒だ。)とおもひながら、やっぱりぽくぽくそれをたべてゐました。
☆現れる化(形、性質を変えて別のものになる)詞(ことば)を憶(おもいめぐらせる)図りごとである。
題(テーマ)の企(くわだて)は独(自分だけ)のものである。
障害もあるでしょう。疑わしいことや失望することもあるでしょう。だけど、わたしたちがとっくに知っているようにそれは、棚からぼた餅は落ちてこないということにすぎないのよ。
☆妨害もあるでしょう。疑わしいことや期待外れもあるでしょう。しかしながら、わたしたちが以前から知っているように物語などないということです。
※人が作った物語などは現実にはない。(死の門は平等に開かれている)