続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

『飯島晴子』(私的解釈)石垣に。

2021-02-28 06:39:51 | 飯島晴子

   石垣に黄華鬘細い夜の手足

 細い夜の手足はサイ・ヤ・シュ・ソクと読んで、催、野趣、仄。
☆石垣の黄華鬘、野趣(自然で素朴な風情)を仄かに催している。

 石垣はセキ・エンと読んで、積、怨。
 黄華鬘はコウ・カ・マンと読んで、恒、禍、慢。
 細い夜はサイ・ヤと読んで、細、也。
 手足はシュ・ソクと読んで、殊、惻。
☆積もる怨(うらみ)は恒(つね)に禍(不幸)であり、慢(驕り)であり、細(つまらないこと)也。
 殊(格別)に惻(心を痛めている)。

 石垣はセキ・エンと読んで、戚、縁。
 黄華鬘はコウ・カ・マンと読んで、交、家、万。
 細い夜はサイ・ヤと読んで、催、也。
 手足はシュ・ソクと読んで、種、則。
☆戚(身内)の縁(つながり)で交わる家の万(すべて)は催し也。
 種(血筋)の則(きまり)である。


『飯島晴子』(私的解釈)桃の花。

2021-02-28 06:14:44 | 飯島晴子

   桃の花垂れ込んでくる月日かな

※枝垂れ梅、月日を経たものは壮観である。

 桃の花はトウ・カと読んで、蕩、果。
 垂れ込んでくる(垂込来)はスイ・コ・ライと読んで、出、己、瀬。
 月日はガツ・カと読んで、合、過。
☆蕩(だらしない)果(結末)が出(現れる)。
 己(わたし)の瀬(場合)合わせる過(あやまち)もある。

 桃の花はトウ・カと読んで、党、加。
 垂れ込んでくる(垂込来)はスイ・コ・ライと読んで、遂、個、来。
 月日はガツ・ジツと読んで、合、昵。
☆党(仲間)に加わることを遂(やりとげた)。
 個(一人)で来て、合(一緒になり)昵(慣れ親しんでいる)。

 桃の花はトウ・カと読んで、謄、果。
 垂れ込んでくる(垂込来)はスイ・コ・ライと読んで、推、怙、磊。
 月日はゴウ・ジツと読んで、合、実。
☆謄(書き写した)果(結果)を推しはかり怙(頼りにする)。
 磊(小さなことにこだわらないで)合わせて実(内容)にする。


『飯島晴子』(私的解釈)春山火事の。

2021-02-27 06:48:29 | 飯島晴子

   春山火事の男戻れり白襖

※乾燥のきわまる初春、災難に遭った男が山から戻った。
 白襖はハク・オウと読んで、白、枉。明らかに、枉(無実の罪)である。

 春山火事ハシュン・サン・カ・ジと読んで、瞬、算、化、治。
 男戻れりはダン・レイと読んで、談、励。
 白襖はハク・オウと読んで、迫、奥。
☆瞬(短い間)に算(見当をつける)。
 化(形、性質を変えて別のものになる)で、治す談(話)がある。
 励(力を尽くし)迫(追い詰めると)、奥(更なる向こう)がある。

 春山火事はシュン・サン・カ・ジと読んで、旬、賛、果、自。
 男戻れりはナン・レイと読んで、軟、冷。
 白襖はハク・オウと読んで、剥く、翁。
☆旬を賛(たたえる)果(くだもの)を、自(みずから)軟(やわらかくし)冷やして剥く翁であった。

 春山火事はシュン・サン・カ・ジと読んで、峻、惨、禍、事。
 男戻れりはナン・レイと読んで、難、励。
 白襖はハク・オウと読んで、博、応。
☆峻(厳しく)惨めな禍(災難)の事(できごと)。
 難(災難)を励(力づけ)博(大きく広がる)応(応援)がある。


『飯島晴子』(私的解釈)老人の。

2021-02-27 06:27:16 | 飯島晴子

   老人の声の逃るゝ蜆汁

 老人はロウ・ニンと読んで、老、認。
 声の逃るゝはセイ・トウと読んで、青、党。
 蜆汁はケン・ジュウと読んで、健、自由。
☆老いを認める。青(年が若い)党(仲間)は健(力強く)自由である。

 老人はロウ・ジンと読んで、浪、訊。
 声の逃るゝはショウ・トウと読んで、詳、蕩。
 蜆汁はケン・ジュウと読んで、顕、事由。
☆浪(むだ)を訊(問いただす)。
 詳(つまびらかにすると)、蕩(締まりがないこと)が顕(明らかになった)という事由がある。

 老人はロウ・ジンと読んで、労、腎。
 声の逃るゝはセイ・トウと読んで、整、到。
 蜆汁はケン・ジュウと読んで、兼、重。
☆労(ほねおり)は腎(要)である。
 整(きちんとととのえると)到(いたりつく)兼(二つ以上のものを併せ持つ)重なりがある。


『飯島晴子』(私的解釈)もりあがる。

2021-02-26 07:12:27 | 飯島晴子

   もりあがる菫の土の古笑ひ

 菫はどんな場所からも力強く生え出る。野山はもちろん、道路の亀裂の隙間からさえ顔を見せる。それは土が菫を押すのであって、土との合作である。春になって土が動く、それをもりあがる菫の土といえば、土は古笑ひ(コショウと読んで、誇称/大げさに自慢)するのである。

 もりあがる(盛上)はセイ・ショウと読んで、整、蹤。
 菫の土はキン・ドと読んで、均、努。
 古笑ひはコ・ショウと読んで、顧、消。
☆整(きちんと調える)蹤(足跡)、均(ならすこと)を努める。
 顧(気にかけて)消している。

 もりあがる(盛上)はショウ・ジョウと読んで、省、冗。
 菫の土はキン・ドと読んで、襟、怒。
 古笑ひはコ・ショウと読んで、姑、渉。
☆省(振り返る)と、冗(煩わしい)襟(心の中)の怒りがある。
 姑との渉(かかわり/関係)である。

 盛り上がる(盛上)はセイ・ショウと読んで、錆、鐘。
 菫の土はキン・ドと読んで、金、鍍。
 古笑ひはコ・ショウと読んで、故、照。
☆錆びた鐘、金の鍍(メッキ)で故(もと)の照(光り輝く)になる。


R.M『ヘーゲルの休日』②

2021-02-26 06:26:29 | 美術ノート

 雨傘のシャフトは多少太いし、持ち手はさらに太い造りである。しかし、この傘が何によって支えられているかは定かでなく、いわば宙に浮いている。
 
 全体、微妙に策が施されている。
 生地のゆるみは地球の凸凹だろうか、シャフトの手元の太さは地球に住む生物の集合であり、この持ち手に支えられている地球でもある。持ち手が揺らげば、地球そのものが揺らぐという関係性である。
 コップの水は水惑星である地球の命の糧であり、億年の巡廻、変わらぬ量を暗示している。コップ(ガラス)は見えないものとしてのツールであり、形を留めないものの一つの概念である。

 全体のバランスはコップの水ばかりでなく熟慮された均衡に思える。
 雨傘(地球)とコップの水(三態)の関係は、生物(人間を含む)を生かし、生かされる絶妙さを持っている。この関係は人間の裁量にかかっており、鍵は持ち手である人間の精神にある。


 写真は『マグリット』展・図録より


『城』3600。

2021-02-26 06:19:36 | カフカ覚書

彼女は、全体を見ると同時に、ひとりひとりのお客にも眼をくばっていた。そしてこのひとりひとりにくばっていた眼つきも、相手を折伏するだけの強さをそなていた。


☆全体(死)を見て、先祖のひとりひとりにも眼差しを向けていた。地下への撃退は非常に不当であり、少なからず、彼らはそこに留まっている。


『飯島晴子』(私的解釈)貌鳥や。

2021-02-25 11:01:40 | 飯島晴子

   貌鳥やインドの絹をひろげてをり

※スカーフやファブリックなどに、何かよく分からないきれいな鳥が、赤・黄・緑(糸目は濃紺)などで描かれた模様は、なんとなくインド風である。

 貌鳥はボウ・チョウと読んで、膨、調。
 インド(印度)はイン・トと読んで、音、図。
 絹を広げてをり(絹広居)はケン・コウ・キョと読んで、兼、考、挙。
☆膨(大きくふくらむのを)調べる。
 音の図りごとを兼ねて考える挙(企て)である。

 貌鳥はボウ・チョウと読んで、謀、帳。
 インド(印度)はイン・ドと読んで、隠、努。
 絹をひろげてをり(絹広居)はケン・コウ・キョと読んで、顕、乞う、拠。
☆謀(はかりごと)は簿(ノート)に隠れている。
 努(力を尽くすと)顕(あらわれる)。
 乞う(頼む)拠(根拠)がある。

 貌鳥はボウ・チョウと読んで、望、眺。
 インド(印度)はイン・トと読んで、韻、戸。
 絹をひろげてをり(絹広居)はケン・コウ・キョと読んで、軒、構、寄与。
☆望(陰暦の15夜の月)を眺める。
 韻(風流な)戸の軒の構えが寄与(役に立っている)。


『飯島晴子』(私的解釈)ちゝはゝの。

2021-02-25 10:44:17 | 飯島晴子

   ちゝはゝの指をわづらふほたるぶくろ

 指をわずらふ(指煩)はシ・ハンと読んで、死、伴。
 ほたるぶくろ(蛍袋)はケイ・タイと読んで、継、代。
☆父母の死に伴い継(受け継ぐ)代(世代)。

 ちゝはゝ(父母)はフ・ボと読んで、腑、簿。
 指をわずらふ(指煩)はシ・ハンと読んで、止、判。
 ほたるぶくろ(蛍袋)はケイ・タイと読んで、景、諦。
☆腑(心の中)を簿(ノート)に止(留めている)。
 判かると、景(ありさま)が諦(あきらかになる)。

 ちゝはゝ(父母)はフ・ボと読んで、譜、墓。
 指をわずらふ(指煩)はシ・ハンと読んで、仕、凡。
 ほたるぶくろ(蛍袋)はケイ・タイと読んで、系、代。
☆譜(代々続く)墓に仕えるのは、凡(おおむね)系(つながり)の代(世代)である。
 


薄ぼんやり。

2021-02-25 07:42:02 | 日常

 いつも薄ぼんやりしていて、状況に疎い。飯島春子の句を詠んでいると気づかされることばかり・・・。
 梅の花、とくに白梅など軽くて小さいから風が吹くと四方に点を打ったように地上を飾る。(ああ、そうか)こんな風情を楽しんで詠むなんて素敵だな、と思う。

 何年か前、市民俳句大会という催しがあり、その中で先生は「好きな俳句を10句書き出してごらんなさい」と仰り、用紙を渡されたけど、1句も思い浮かばず(う~ん)と、沈み込んだきり。わたしの俳句のレベルはこんな感じだと悟った瞬間でした。帰り道(やせガエル負けるな一茶ここにあり)なんていうのもあったなと。

 読書家でない、勉強が不得手である。記憶力も極めて鈍い。そんな私がブログで生意気に言いたい放題、恥ずかしい私です。