『哲学者のランプ』
テーブルの脚に絡みつき蛇のようにくねくねした火のついたロウソク、そして長く伸びた男の鼻先がパイプに入っている、そのパイプを吸っている(銜えている)こちらを向いた男。
奇怪な絵である。
パイプの絵を描いて「これはパイプではない」とメッセージを残し「第一これでタバコが吸えますか」といったマグリットは、虚実・イメージとは何かを追及し、伝達・媒介の意味を世界を拡げ論破している。
神(聖書)によって、最も狡猾とされた蛇、木の実が善悪を知る者となると教えた蛇は、神によって呪われ腹で這いあるき、一生ちりを食べるであろうと宣告される。
この対峙、この問いかけが起こした波紋によって、一生逃れられない自問自答を繰り返さざるを得ないマグリットは、蛇が女に言った言葉で受けた神からの罰に思い至る。
しかし、マグリットは蛇であるはずもなく、彼自身の意思をもって真理の扉を開けたのである。
バックは漆黒の闇、混沌の中で真理は確かに存在するが、蛇の灯りで見えることはない。
マグリットの自負はパイプをもって始まり、その証明のために自問自答に心血を注いでいる。つまり、『哲学者のランプ』は、自身の思考であり、掲げた指標は自身の中で巡り続けている。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
向ふの青い森の中の三角標はすっかり汽車の正面に来ました。
☆公(正しい)照(あまねく光が当たる=平等)の真の註(意味を解き明かす)。
散(ばらばら)の各(それぞれ)の平(平等)の記であり、赦(罪や過ちを許す)償(償い)の模(ありさま)を記している。
そのあいだ、アマーリアのほうは、窓ぎわの長椅子にすわったまま、題に、第三の使者が来るのを待っていて、来ればどの使者だって最初の使者とおなじ目に会わせてやるぞと言わんばかりに、外をじっと見つめていました。
☆アマーリアは、なおもっと先の(天)食→死の入口のあたりから小舟が来るのを待って外を見ていました。
『禁じられた書物』
禁じられた書物、この絵の中に少なくとも書物(文献)は描かれていない。禁じられた(許されない)というのはどういうことだろう。
部屋の一隅に飾り階段がある。階段を登り切っても出入り口はない、いわば無用の階段である。床には一本の指(人差し指)が Ireneの文字と共にあり、指のうえには例の鈴が浮いている。
鈴は言葉(主張・意義・伝説・流言etc)を、指は人差し指であることから〈ズバリ指摘〉をそれぞれ暗示している。
階段は目的へたどり着くための手段であるが、肝心の出口がない。目的のないエネルギー消費、無為な情熱を揶揄している。
Irene・・・個人名を挙げるのは忍びない、決して解き明かすことは許されない秘密の吐露である。
あなたの燃えるような情熱、その多くの発言は賢明・明晰に見えるが、成果を持たない駄弁に過ぎない。指摘の指はそれだけでは存在を保てず、いずれ空しく倒壊してしまう。
あなたの力強い指摘である発言は、漠とした空しい部屋に酷似してはいないだろうか。
しかし、この書き物を解読することは決して許さず、禁じるものである。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「かささぎですねえ、頭のうしろのとこに毛がぴんと延びてますから。」青年はとりなすやうに云ひました。
☆等(平等)の望みを掩(隠し)、照(平等)の念(思い)を運(めぐらせている)。
やがてわたしは、またベットにもぐりこんで、尻切れトンボになっている手紙の結び文句ー〈だから、すぐ来てもらたい。さもないと・・・!〉という文句を何度もくりかえしていました。
☆わたしは再び隠れて祈りました。再三の終末(死)の推論の命題を砕く、〈だから、すぐに来てもらいたい〉とくりかえしていました。
『夜の縁の猟師たち』
二人の猟師らしき男が壁にうっぷし憔悴し、頽れるばかりに憔悴している。
夜とは太陽が地平線の下に沈み、地平線上に現れるまでの時間帯をいう。月や星が無ければ漆黒の闇であり、仮にあったとしても昼間とは比較にならないほどの暗さである。
暗い闇夜に対象物は見えず、存在するが無に等しい。太陽(神)の加護のない恐怖の時間帯でもある。
二人の体躯は頑丈そうであり、着衣(ブーツ・鉄砲)も整えられ、不足のない生活を示している。
何ゆえの絶望なのだろうか。
《夜の縁》に対する恐れだろうか…鉄砲を持ってるということは、殺傷を暗示する。
殺傷の懲罰に震え慄いているのだろうか。二人に見える裸の部分は両手の手指と顔や頭の一部分だけである。(この手さえなければ、指令の脳(頭)さえなければ・・・)
《夜の縁》は、殺傷した動物(あるいは人)の心霊が活動する時間帯でもある。
見えない恐怖は夜の縁の魔物と化し、彼らを脅迫しているに違いない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
まったく河原の青じろいあかりの上に、黒い鳥がたくさんたくさんいっぱに列になってとまってじっと川の微光を受けてゐるのでした。
☆講(はなし)は幻(まぼろし)である。
逝(人が死ぬ)の照(あまねく光が当たる=平等)を告ぐ。
懲(過ちを繰り返さないようにこらしめる)を烈しく詮(明らかにする)、そして、弥(つくろうこと)を恒(常)に需(必要とする)。
こんな手紙をもらったら、どんなに冷血なひとだって、最初は憤慨するにちがいないでしょうが、アマーリア以外の女性なら、やがてその意地悪い、おどすような調子が心配になって、恐ろしいという気持ちのほうがたぶん勝ったにちがいありません。
☆この書き物を読んだら、どんな平静な人でもいきなり憤慨するに違いありません。なんとなれば、アマーリア以外の場合では、その悪意ある脅迫的な調子に不安になるはずですが、アマーリアの場合は自分のためにせよ、他人のためにせよ、不安というものを知らないのです。
一週間はあっという間に過ぎ、あっという間に五月も終盤である。
《あっ》という刹那に凝縮されてしまう時間の経過、〈あ~あ〉とため息をついている。
何だか分からないうちに《おばあちゃん》になってしまった。
無事にあの世に逝けたら、それでいいのかな・・・。
人生の総決算は?
まだまだこれから悲運が手を広げて待っているかもしれない。
それでも答えは一つ、すべてを肯定的に生きる!
悲運の嵐に見舞われても、にっこり胸を張って生きていける人でありたい。
《がんばれ、がんばれ、わたし》