この雪かきシャベル、少々奇異である。芯棒が長すぎ華奢ではないか。雪をかきとる前に折れてしまう可能性がある、しかも持ち手が小さい。満身の力を込めて使用するには両手を使うのでは?そして芯棒は金具(シャベル)の中心部から右にズレている。つまり、レディ・メイドとはいえ、このように造らせたものではないかと思う。
使用する前には完品に見えるこの雪かきシャベル、使用後には即、不具合が発覚する代物である。
この雪かきシャベルの前にいるであろう折れた腕の人間はこの雪かきシャベルの前で手を出せない。この距離、この時空には虚無が漂う。接続すべき要因の欠如である。
すでにこの雪かきシャベルの使用を不可能にしている折れた腕の持ち主。
使用すれば、即使用が不可能であることを予測させる雪かきシャベル。
この対峙には有効性がなく、未来の仕事には望みがない。震撼とする緊迫はこの雪かきシャベルだけを見ていては分からない。未来の時間を予測することで初めて知る結末である。
折れた腕の人間は空であり見えない、しかし折れた腕の前に在る雪かきシャベルによって折れた腕の人を想起させる。雪かきシャベルの不具合は使用後でなくては露呈しない。
つまり、ここには見えない《時間》がある。重なることのない時間、断続した時間、時間のズレ、現象は観察者の目にのみ明らかになるという企てである。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.comより
「暫くすると朗々な澄んだ声で流して歩るく馬子唄が空車の音につれて漸々と近づいて来た。
☆竄(文字文章を入れ替えること)の労(働き)で、霊(死者の魂)を調べる章(文章)を留める。
普く目(ねらい)は詞(言葉)であり、媒(なかだち)の句(言葉)である。
赦(罪や過ちを許すこと)と隠れた全ての善を均(ならして平らにすること)を頼りにする。
ところが、お内儀が、きっぱり反対した。彼女は、服の着かたがおかしいことにやっと気づいたらしく、やたらにあちこちを引っぱって直そうとしながら、たえず頭をふった。家のなかを清潔にしておかなくてはならないということについての、あきらかに昔ながらの夫婦げんかが、またしても勃発しかかっていた。
☆ところが女主人はきっぱりと反対した。勢力は無秩序だということ、来世では現実を動かすことは無用であると、今気づいたらしい。常に考えを揺さぶり、一族の問題を再び始めようとしていた。
『折れた腕の前に』
レディ・メイド:雪かき用シャベル
これが床に伏せてあったのでは意味がないが、天井から吊り下げてあったことで、この雪かきシャベルの前に立つ人が見えてくる。雪かきシャベルと折れた腕の人間が対峙する空間には沈黙が走る、関係性を断たれているからである。
雪かきシャベルが完品であってもそれを使用する人間の方に不備があれば無用の長物でしかない。つまり、雪かきシャベルは能動的ではありえず、つねに受動的であり補佐としての備品にすぎない。
しかし、折れた腕の人間は、雪かきシャベルを前にして自分の不備を認めざるを得ず、少なからず敗北を感じ、打ちのめされてしまう。自分が主体だという誇りを失うのである。
主体と客体の関係。
主体は常に客体の優位にあると思いがちである。認識する対象が主体である人間の方を打ちのめすなんてことがあるだろうか。
『折れた腕の前に』ある雪かきシャベルは主体と客体の関係を喝破している。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.comより
すると二人が今来た道の方から空車らしい荷車の音が林などに反響して虚空に響き渡って次第に近づいてくるのが手に取るように聞こえだした。
☆字を認(見分け)勤めることに頼(期待する)。
道(語る)法(神仏の教え)で赦(罪や過ちを許す)。
化(教え導くこと)で赦(罪や過ちを許すこと)が隠れている。
輪(順番に回るもの)を判(区別する)。
教(神仏のおしえ)に拠る句(言葉)がある。
胸(心の中)の図りごとは字で代(入れ替わる)。
襟(心の中)の趣(考え)を修(おさめる)文である。
そして、樽のうえに板をのせて、せめて夜が白むまでそこで眠らせてほしいというKの願いをもかなえてやろうとしているようだった。
☆来世では少なくともモルグ(身元不明者の死体公示所)で死ぬという先祖の障壁は外面上のことにすぎないのだというKの願いをかなえようとしていた。
供給・需要ともに『ボトル・ラック』で一致している。しかし、そこに秘かにも異存を感じたであろうデュシャン。
別の意味を見出し、鑑賞者の前に提示する。主観である。
主観と客観(誰が見ても一様にみとめられるとする意見)は、同じ時空にあるということの発見である。主観と客観の間に壁はない。
対象を巡る意見の相違、主観が圧倒的多数であれば客観になり、主観が客観を超えることはない。仮に主観が大衆を動かすとしたらそれは専制であり、自由や解放からは遠い。
デュシャンは『ボトル・ラック』に他意を感じたからこそ作品として提示し、これはまさに『ボトル・ラック』であると差し出したのだと思う。
他意(主観)は、自由であり解放である。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.comより
長さよりも幅の方が長い橋にさしかかったから、幸とその欄に倚っかかって疲れきった足を休めながら二人は噴煙のさまの様々に変化するを眺めたり、聞くともなしに村落の人語の遠くに聞こゆるを聞いたりしていた。
☆調べると複(二つ)を包んでいる。
弔(死者を悼む)胸(心の中)の講(話)である。
覧(よく見ると)鬼(死者/亡霊)が秘(人に見えないように隠れている)。
即ち、求める弐(二つ)の腎(かなめ)を分(見分けることである)。
掩(隠れている)要(かなめ)の様(ようす)は、片(二つに分けたものの一方)だと解(わかる)。
重なる文が存る。
絡(すじみち)の腎(かなめ)は、互に縁(関わり合う)文の案(考え)である。
Kがふたつの尋問のことーエルランガーの尋問のことーを話し、お役人たちのことを敬意をこめて語ったので、亭主は、彼に好感をいだいた。
☆双方の迫害者ーひょっとしてエルランガーのことを言及し、他の大勢の人たちも言ったので、主人は彼に合意した。
ボトル・ラックである。使途は明確であり、その範疇で製造・選択されるべき製品である。
しかし、その概念を外してこれを見ると、中心から放射状に延びた手、ゆるぎなく安定した台座の形は美しく、塔のようにさえ見える。和的に考えると五重塔(地・水・火・風・空)である。
しかし、これはあくまでも『ボトル・ラック』であり、それ以外の何物でもない。
否定しても肯定せざるを得ない命名がある。
『ボトル・ラック』への逡巡は個人的感想に過ぎないかもしれない。
客観的事実から主観的観察、そして客観的事実の重さ、それを否定する主観的感動・・・客観と主観には距離がある。背中合わせという単純さはなく、対象における観察には大いなる時空が存在するということである。視覚における感知には誤作動が生じる。そこで修正という作用が働くが、強い認識(主観)は概念(客観)を揺さぶり、正しい判断を妨げてしまう。
正しい判断とは何かという混迷はデータの集積による客観的事実に押し任されてしまう。故に『ボトル・ラック』はボトル・ラックであり続ける。
主観は客観に隠れ、客観は主観を内包している。
写真は『DUCHAMP』(ジャニス・ミンク) www.taschen.comより