先日私が恐怖に慄いた崖の行軍 (?)、サークルで話すと、
「わたしなんか、そういう危険なとこ大好きだわ」と友人。
「あら、わたしも好きよ。わくわくしちゃう♪ ♡」
「・・・」
例の四人会でも、長沢のMさんは、
「小学生の時、学期末には六学年揃ってみんなで山登り。先生に引率されて、三浦富士から砲台山なんて何回も行ったわ」と言い「楽しかったわ」と回想した。
思えば重度の高所恐怖症のわたし、小学生の時、観音崎の灯台にも登れなくて先生に「ここで待っていなさい」と一人だけ取り残されたことがある。
怖くて怖くて・・・情けないわたし。地下鉄もどんどん深くなって、東京にも一人では行かれなくなってしまった。横浜のみなとみらい線も怖い…Ah。
どうしてみんな平気なの?
でも、高所はダメだけど、閉所は平気。ダメだダメだ、こんな小心、陰気な性格では。
この次、同じ所へ行けるかな?…ムリムリ… 絶対ムリ!
[2nd stage]って何だろう、4線・・・。
「日の出、日没」という大きなステージである。作家は地上に立ち太陽の昇降を感じ、その大いなる空間に改めて衝撃を覚えたに違いない。
この胸に迫るような感動的な時空を切り取り、一つの作品に収めるという仕事は容易ではない。第一に不可能な事象として普通なら断念せざるを得ない。しかし、何としてもその刻々と変化していく時空を切り取り提示したいという凝視の信念が《日の出、日没 Ⅳ》に次ぐ[2nd stage]につないだのではないか。
[2nd stage]とはまさに(4線)、4次元である。幅(線)奥行(平面)高さ(立体)加えることの時間。
作品は左から立体・平面・線、そして刻まれた時間の暗示(提示)が並列されている。
三次元こそが惑星である地球の原点・存在理由である。そして太陽(日の出、日没)による時間の概念が、自分を自分たらしめている根源的な(見えない)形なのだと確信したのではないか。
若林奮の考える彫刻、彫刻というより、存在理由の探究と換言出来るかもしれない。
地表面の危うさ、地下に123枚(3メートル)重ねた鉄板・・・度肝を抜くほどの地下への浸透圧力。それらは地表がいかに浅薄なものであるかの逆説的な証明である。(地球は中心から内核・外核・下部マントル・上部マントル・地殻でできており、言うまでもなく地表面はどんなに掘り進めても、揺れただけで崩壊の危機を孕む薄い表層である。)
若林奮の眼差しは、鑑賞者を目覚めさせる。
作家の熱い眼差し、「この意図が分かるか?」挑戦状二さえ思える作品群である。
(写真は神奈川県立近代美術館/葉山『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
二人は一度にはねあがってドアを飛び出して改札口へかけて行きました。
二人はジ・トと読んで、字・図。
一度はイツ・トと読んで、逸・途。
飛び出してはヒ・スイと読んで、秘・推。
改札口はカイ・サツ・コウと読んで、廻・察・交。
行きましたはコウと読んで、講。
☆字の図りごとが逸(隠れている)。
途(道筋)の秘(人に隠して見せない)を推しはかる。
廻(まわる/もとにもどるもの)を察(明らかにし)、交(行き来する)講(はなし)である。
わたしにたいしてさえ、率直には話してくれないんです。あの子の疑惑を訊きだそうとおもったら、さんざん甘やかしたり、キスをしてやったりしなくてはなりません。その場合でさえも、その疑惑が疑惑であることをどうしてもみとめようとしません。
☆わたしに対してさえ自由にものを言いません。疑念を訊くためには、お世辞を言ったり、さんざんキスをしたりしなくてはなりません。そのときでさえ、疑念が疑念であることを、やはり認めようとはしません。
『地下のデイジー』というタイトルであれば、地下に主眼があるということである。
当然、地下は見えない。
見えないエリアを対象(モチーフ)にすることなど、有り得ない。鑑賞者の疑惑を生み、ため息と共にその場を離れざるを得ない状況を作ってしまう。
『ぶらぶら美術館』で山田五郎が説明していたけれど、(ふん、そうなんだ)という感想しか抱けなかった。説明されても軽く通り過ぎざるを得ない作品提示である。なぜなら掘り返して確認するというわけにはいかないからで、博物館の地層展示のような具体性は見えない。
しかし、現実に地下には123枚の鉄板が重なり合って3メートルに及ぶ長さで埋められているという。
驚異・驚嘆である。《なぜ、なんで?》見えないのに、分からないのに・・・。
この点に若林奮固有の強いこだわりがある、その信念が作品の支柱をなしていると言ってもいいかもしれない。
《見えないが、在るもの》への凝視の眼。『日の出、日没』の時空、地表面・天空・地下への垂直な空間への透視とも思える凝視。
《存在は存在を遮るものである》そして《時間とともに変移していくものである》という理念。対象物は決して固定されず、時間の経由と共に自然の中で自然と共に変容していくという不変の真理に基ずく提示である。
わたし達が見る景色は刹那であり、即物的である。それが自然であるけれども、その刹那を幾度も幾憶回をも重ねた時間を空間領域の中に設定・提示したいという挑戦が作家の意図である。
『地下のデイジー』は、その意味で極めて象徴的な作品であり、彼の作品の《門》であると理解している。
(写真は神奈川県立近代美術館『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
〔二十分停車〕と時計の下に書いてありました。
「ぼくたちも降りて見ようか。」ジョバンニが云ひました。
「降りよう。」
☆辞(ことば)の自由な文(文章)の態(ありさま)を写す。
弐(二つ)の景は、化(形、性質を変えて別のものになる)の諸(もろもろ)の考えを現わし、運(めぐらせる)講(はなし)である。
もちろん、あの子としては、あなたにたいしてそんな疑問を口にするわけにはいきません。もしそんなことをしたら、あの子にとっては、自分の生活を破壊してしまうことになりますし、自分がまだ服従しているとおもっている掟をめちゃめちゃに踏みにじったことになってしまうでしょう。
☆あなたにたいして何も疑念を持っていません。それに今では自分の存在を委ね、何かをする時にも、まだ信じている掟を犯してしまいます。
『日の出、日没』
日の出も日没も美しく郷愁を誘う景であるから、画家たちのモチーフとして多くの名画が残されている。
しかし、この作品において、心地よい美はどこに?
止む無く凝視する。山(樹木の林立)丘・大地・川・海岸線・地下を流れる水・建屋・・・などの暗示(提示)は景色の概略化である。
地平線・水平線くらいは想起可能な景かもしれない。とすれば、必然的にここを越えていく太陽は見えないが在るはずだということに気付く。
逆にたどる夢想空間であるが、スケッチには辛うじて丸みを帯びた地平線が描かれている。
一日に一回の日の出と日没は、自転する地球(惑星)において永遠の真理であり、存在理由でもある。存在の根源・根拠を問えば、太陽と地球の距離であり、日周運動における日の出、日没に因している。
太陽と地球の関係によって生じる時間・空間の概念は自然への郷愁である。
若林奮が提示した『日の出、日没』は、地上(地表面)を概略化・縮小することで必然的に上空を通過するであろう太陽を内包しているということである。刻々と変化していく、微細に振動を続行する景は、この時空なくして有り得ない。
「日の出、日没」とは地平線との交差のことであれば、この形に集約するしかなかった「選択としてのモデル」であると思う。
(写真は神奈川県立近代美術館『若林奮 飛葉と振動』展・図録より)
さはやかな秋の時計の盤面には、青く灼かれたはがねの二本の針がくっきり十一時を指しました。みんなは、一ぺんに下りて、車室の中はがらんとなってしまひました。
☆周(あまねく)弐(ふたつ)の景(けしき)が伴う。
綿(細く長く続く)章(文章)の釈(意味を解き明かす)のは字を翻(ひっくりかえす/作り直す)新しい自由が逸(かくれている)。
字を試みることが溢(あふれている)。
化(形、性質を変えて別のものになること)を視野に悉(ことごとく)註(意味を解き明かす)。
自分のやっていることがほんとうに使者の仕事なのだろうかという疑問さえなかったら、だれから文句をつけられようと、ただ言いなりになっておればすむことで、つべこべ反論する筋合いじゃないんです。
☆自分のやっていることが、小舟や晩餐のことだろうかという疑問(論争点)さえなかったら、反論が許されるだろうかを考えあわせるべきなんです。