細長いが、ドアではなく窓である。なぜ窓だったのだろう。
ドア(入口)ではなく窓ということは、不法侵入である。礼儀の欠落…まぁ、喧嘩だから・・・。頑丈な造りの窓、けれど(ここからは絶対に侵入できない)という確信はもろくも簡単に崩れてしまう。
一見頑丈な造り、しかし、レンガは薄手のレンガ模様ではないか。脆弱な安価な造りは居住には難がないが防備には難がある、そういう造りでしかない。
人が平和に暮らすのに過不足はなく、これで十分である。
『オーステルリッツの喧嘩』、この虚弱な窓に侵入した所で何の利があるだろう。
平和への毀損・・・ただそれきりである。
小さな窓には庶民のささやかな平和と安らぎがある。ここに侵入できるか?これを壊せるか?窓の内部の人間らしい暮らしこそが、人の誇りたりうるものであるとデュシャンは言う。
「せめて喧嘩くらいなら」デュシャンの反戦の弁である。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
その顔の色、その眼の光はちょうど悲しげな琵琶の音に相応しく。あの咽ぶような糸の音につれて謳う声が沈んで濁って淀んでいた。
☆眼(要)の私記が現れる講(話)である。秘(人に見せないように隠すこと)を備(あらかじめ用意してあり)把(つかむこと)に因(もとづく)詞(言葉)が隠れている。要は章(文章)を転(ひっくりかえす)という駄句を伝える。
で、わたしはどうかと言いますと、この地位を手に入れようなどと考えたことは、金輪際ありませんでしたわ。わたしは、客室付きの女中で、地位としては、つまらない、ほとんど先の見込みもないようなものでした。
☆ペーピ?彼女は地位を勝ち取ろうと思っていたでしょうか。わたしは主題(テーマ)の作り事のつまらない見込みもないようなものでした。
オーステルリッツの戦いは歴史に記録されるべき大戦である。
しかしデュシャンは『喧嘩』だと言っている。そして提示したのは、ミニチュア(62.8×28.7×6.3㎝)の窓であり、人の手で抑え込むことが可能なほどの大きさである。
上も左右も隙だらけどこからでも侵入できる・・・つまり、これは解放であり、自由ではないか。空の上から見た地球に国境がないのと同じである。
その後、レノンが歌ったImagineと同じ考えなのではないか。反戦の旗手として名乗りを上げたわけではないが、強い反戦の意志が隠れている。
♪殺したり死んだりするものは何もない~♪と歌ったレノンに等しい。
小さな作品提示で大きな声明を隠している。
誰もが知ってる「オーステルリッツの大戦」など誰もが乗り越えられる喧嘩にすぎない。
一見閉鎖的に見える頑丈な窓の造り、空からも東西南北どこからも開かれた自由な世界の、しかし忘れてはならない胸に刻んだ小さな墓碑かもしれない。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
歳の頃四十を五ツ六ツも越たらしく、幅の広い四角な顔の丈の低い肥満た漢子であった。
☆済(救い)の恵みは詞(言葉)で套(被われてる)。
死の等(平等)は語(言葉)で録(書き記されている)。
閲(調べると)複(二つ)の講(話)があり、詩(言葉)を較(くらべる)。
眼(ねらい)は諦(真理)を呈(さしだすこと)である。
秘(人に見せないように隠す)が万(たくさん)あり、換(入れ替える)詞(言葉)がある。
あの人をその意にさからってこの巣からとりだすなんて、とうてい不可能なことだったでしょう。あの人を巣から追いだすことができるのは、身分の低い人にたいする愛、つまり自分の地位にふさわしくないものだけだったのです。
☆意思に逆らって外すなど全く不可能です。低い立場の人たちへの愛、それは彼女の地位を駆り立てるもので、地位を欺くものではなかったのです。
『オーステルリッツの喧嘩』
ミニチュアの窓:木とガラスに油彩
タイトルと提示物の因果関係が不明確である。オーステルリッツの戦い(三帝会議)は近代的大戦の最初である。大戦をミニチュアの窓に置換する意図は何か、しかも何万人もの死者が出た悲惨な戦争を喧嘩と称している。
膨大な数の死傷者、大量の血が流れた戦いを喧嘩のレベルにまで収縮させる真意は?愚かしさと言えば、それまでである。
一見煉瓦造りに見えるものは、薄いレンガ模様を張ったに過ぎないものではないか、一見開くように作られた窓は開かないのではないか・・・。ガラス窓にはガラスがありますという証がペンキで記されている。
窓はしっかり閉じられているが、存外手薄で華奢な防備である。
大勝利を収めた大戦、後にナポレオンはトラファルガーの海戦で大敗している。
『オーステルリッツの喧嘩』は、デュシャンの失笑ではないか。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより
其処の店先に一人の琵琶僧が立っていた。
其処はキ・ショと読んで鬼、所。
店先はテン・センと読んで、展、遷。
一人はイツ・ニンと読んで、逸、認。
琵琶僧はビ・ハ・ソウと読んで、備、把、総。
立ってはリツと読んで、律。
☆鬼(死者・亡霊)のところ(場所)を展(ひらく)。
遷(移りかわること)が逸(隠れていること)を認(見わけ)備(あらかじめ用意してあるもの)を把(つかもこと)が総ての律である。
フリーダにその地位まで棒にふるような気持を起させたものは、ほかには考えられませんわ。あの人は、蜘蛛が巣の中にいるように、この酒場にでんと腰をすえ、いたるところに自分の知っているかぎろの糸を張っていました。
☆フリーダにそのポストを引き渡す気にさせたものは他に考えられません。彼女は蜘蛛が網の中に入るように来世の死の入口に座り、いたるところに網を張っていたのです。
「ある」か「ない」か、それが問題だ。
高さ13.5㎝、円周20.5㎝のガラス製アンプルの中にパリの空気50㏄が入っているという。
見えない対象に決定を下すことは困難である。
タイトル(言葉)は断定している。内実に等しいという前提のもとに言葉はある。しかし言葉は正負の領域を行き来する。
透明なガラス製アンプルを凝視すれば中身は見える、見えるが空気は見えない。見えないものは解放されており、自由である。
見えない対象は見えないという意味において隠れている。決して見いだされないという絶対の庇護がある。
元来、神は見えないものであった。模ることを許さない対象としての存在である。この見えないものの中に潜む善悪、判定は現象として人々の前に現出した時にのみ感じ得る、媒体としての空気(見えないもの)である。
現今の新型コロナウィルスの正体、明らかに物理的根拠のある害毒である。人から人への飛沫感染、「換気し風(空気)を通せ、密になるな!」と世界中で厳命が下っている。
見えないものへの畏怖。
「ない」が「ある」、在るが見えないものの暴挙、鎮静は抗体ができるまでなどとも囁かれる疫病の恐怖。
見えない対象(空気)への畏怖。
言葉、『パリの空気50㏄』は想像を誘導するが、断定を必ずしも受け入れない。言葉と見えないものとの亀裂ある空間は精神界のみで融合するものだからである。
写真は『DUCHAMP』ジャニス・ミンク www.taschen.comより