続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『ある聖人の回想』

2015-06-30 06:52:36 | 美術ノート
 ある聖人は、いつかきっと回想しているに違いないという図である。


 はじめに神は天と地とを創造された。地はかたちなく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝になった。第一日である。
 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。神はおおぞらをつくっておおぞらの下の水おおぞらの上の水とを分けられた。神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝になった。第二日である。(創世記より)


 この話に似てはいないか。
 地は曖昧な稜線である。むなしく、やみが淵のおもてにあり・・・仕切られた昼と闇(夜)、上の水(雲)と下の水(海)・・・。カーテンのような仕切りは、非自然=人智の意図という暗示だと思う。

 酷似している。

 マグリットが信徒であったか否かは知るところではないけれど、社会や生活を制するかの宗教というものを億年の歴史の中で客観的に自分の中で捉え直している。

 まっすぐに『言葉の力』というものを検証している。


(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『銀河鉄道の夜』2。

2015-06-30 06:32:10 | 宮沢賢治
宣誓は、黒板に吊るした大きな黒い星座の図の、上から下へけぶった銀河帯のやうなところを指しながら、みんなに問をかけました。


☆宣(広く知らせる)で、照(あまねく光があたる=平等)を告げる。
 番(くみあわせ)調(ととのえ)、代(他のものに入れ替える)ことを告ぐ。
 正しい座(位置)の途(道筋)を常に可(よし)としている。
 魄(たましい)を吟ずる講(はなし)の他意は、死の悶(くるしみ)である。

『城』2007。

2015-06-30 06:15:55 | カフカ覚書
むろん、気のすすまない、ありがたくない仕事であった。Kにすれb、あれこれ勤務をなまけたあとでギーザに恩を売りつけることのできる機会はなんでも利用するのが大いに得だということでもなかったら、こんな不愉快な仕事を引き受けることは、きっと我慢がならぬところであった。


☆むろん、気のすすまない不都合な仕事であった。Kにすれば仕事を負わせることのできる機会としてなんでも利用するのがすべてに有利な得策であるというのでもなかったら、小舟という異なった仕事の怠慢はきっと辛抱できなかったに違いない。

マグリット『出現』

2015-06-29 07:02:05 | 美術ノート
 まさに出現である。人類の智の出発点ともいえる「0」の出現。

 渾沌の世界に、智のひらめきによって出現した「0」
 ピンク(赤)・白・緑の菱型は何を意味するのだろう。◆はアラビア文字か何かのゼロではないか。

 「0」はインドで発見されたと学習しているが、それ以前にも占星術などでは認識された概念であったらしい。
 マグリットにとっての「0」は、地球の億年の歴史空間を思考するうえで重要な基点である。

 左上は明らかに囲んだ形が「0」を提示しているが、右下は「0」のかたちが変形し開口部を開けている。
 「0」は自然数であり、真空、空虚を意味する。正でも負でもない存在としての概念(最少非負整数)である。

 暗雲垂れ込める背景は何を意味するのだろう。渾沌・不条理・説明のつかない人間の業。「0」は毅然と位置するものであるが、その「0」をこじ開けたもの・・・崩壊だろうか、進歩だろうか、答えは見出せない。
 足しても引いても掛けても割っても「0」は「0」である。

 しかし、「0」を「無」と考えるならば、人間において完全な無(悟り)は存在しない。
 人智の怪しさ、危うさへの危惧。マグリットは光なき渾沌の中の至宝「0」を凝視する。

(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)

『銀河鉄道の夜』1。

2015-06-29 06:51:30 | 宮沢賢治
銀河鉄道の夜

   一、午後の授業
「ではみなさんは、さういふふうに川だと云われたり、乳の流れたあとだと云はれたあとだと云はれたりしてゐたこのぼんやrと白いものがほんたうは何かご承知ですか。」


☆吟ずる講(はなし)は徹(最後まで貫き通す)同(平等)也。
 語(ことば)で考えを受け、合わせる。
 遷(うつりかわる)運(めぐりあわせ)を遅々として縷(連なる糸)のように運(めぐらせている)。
 博(大きく広がっている)化(形、性質を変えて別のものになる)の章(文章)を置いている。

『城』2006。

2015-06-29 06:33:04 | カフカ覚書
フリーダは、家にいて、洗濯をしているか、でなければ、いまだにギーザ嬢の猫を洗ってやっているかであった。この仕事をフリーダに任せたのは、ギーザの側からの大きな信頼のしるしであった。


☆わが一族の願いはすでに希望のない世襲的階級であった。この現場不在証明をフリーダ(平和)に任せたのは、ギーザ(総体/全体)からの大きな信頼のしるしだった。

捨てる。

2015-06-28 07:08:52 | 日常
 あれも欲しい、これも欲しいと思った若いころ。今でも思いは同じかもしれないけれど、許容量を考え躊躇し、さらには、そうして手に入れたはずのものを捨てている。

 これが案外難しい。「これは!」ふと手が止まる。形あるものには思い出があるから、時代の記憶がよみがえり、時の流れの中に迷い込んでしまう。

「これは要りますか?」「いいえ」
「これはどうですか?」「・・・」

 シンプルに山頭火(茶碗と箸)の心意気を倣いたい。

「同じ物を二つ欲しがってはいけません」という義姉の忠告にもかかわらず同じような着衣を衝動買いしている。非個性的な目立たない無難な衣服は並べてみると同じ景色。「なんで、どうして?」「わかんない」

 分かんない物だらけのごみの山に呆然としながら、迷いを棄てて仕舞い込む業。


 それでも(捨てなくては!)の強迫観念がわたしを揺さぶる。これとこれ・・・何か出し惜しみをするような態は滑稽ですらある。
 
 食器類も同じこと。ちょっと無理して購入したけど、単にみすぼらしい食器棚に見栄を張っただけの無用の長物。
(捨てましょう、使ってもいない場所ふさぎは)無理にも納得させ、いくつかを紐で括りつける。


 今頃になって(もう、あれは無いのね)と、逃がした魚を追うような眼をしている。


 しかし、人間には忘却作用が備わっている。昨今増幅しているその作用は、捨てた物への未練を断ち切ってくれるに違いない。自分だけはとりあえず捨てなければ、あとはもう・・・でも、パソコンは持っていかないで!やっぱり、すっきりというわけにはいかない。

『冬のスケッチ』151(了)

2015-06-28 06:38:06 | 宮沢賢治
         ◎
  霧のやすけさは天上のちゝ
  精巧のあをみどろ水一面をわたり
  はちすさやかに黄金の微塵を吐けば
  立ちならぶ岸の家々
  早くもあがるエーテルの火


☆無に転じることが常である。
 照(あまねく光があたる=平等)の考えを推しはかる。
 逸(隠れて)綿(細く長く続く)講(はなし)は、金(尊いこと)の美を忍ばせた図りごとである。
 律(物事の基準になる決まり)の眼(かなめ)は、化(教え導くこと)であり、荷(身に引き受け)想(思いめぐらせること)の果(原因があって生じるもの)である。

『城』2005。

2015-06-28 06:21:36 | カフカ覚書
彼は、校門のところに立っていたが、あたりには人影もなかった。例の助手は、もう何時間もまえに追放し、かなりの道のりを追いまわしていった。やがてどこかの庭と小屋のあいだに隠れたのか、見つけだせなくなってしまったが、それきり二度と姿をあらわさなかった。


☆彼は考えだされた(想像上の)入口(死の入り口)に立っていたが遠くのほうにまで死んだ先祖がいた。
 助手(脳/知覚)はすでに何時間も前に追放され、かなりの時間を延ばされ追いかけられていた。
 その時助手(脳/知覚)は、警戒しているあいだに隠され、見つけだせなくなり、再び前に現れることはなかった。

マグリット『彼は語らない』

2015-06-27 06:51:55 | 美術ノート
 『彼は語らない』というか『彼は語れない』

 白い石膏の顔面、耳まであるデスマスクはないと思うけれど、デスマスクである。(デスマスクを想起させないために耳をつけ、『天才の顔』では首をつけている)

 唇に差した赤・・・これは言葉を示唆していると思う。

『初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった、すべてのものは、これによってできた。』(『ヨハネによる福音書』より)

 言葉は口から発せられる、しかし、すでに語ることができないデスマスク。
 背景は規則正しく配列された点描であり、連続を可能とする暗がりがある。正確な配列、直線というものは自然界には存在しないから、人工・あるいは精神界の空間であるよりほかない。
 背後の女(あるいは男)の眼はしっかり見開き、頬は赤い。明らかに生きている人である。二者を遮る円盤形のものは何を意味しているのだろう(地球かもしれない)ここには確かに遮蔽された空間が在る。円形のものに突き刺さった硬質の棒(パイプ)は白い顔(デスマスク)の辺りを始点として立ち上がり、ここから直角に背後に折れて延びている。明らかに人智による何か(思考/構造物)を最短の条件で示唆している。

 目前の石膏(デスマスク/神)を凝視する人間は、ぴったり背後に控え、堅く結びついているという印象を与える、つまりは従順である。
 女(あるいは男)の背後の壁は木目の顕著な木材であり、木の特質としては自然であることと、その木目(年輪)にあり、歳月の暗示だと思う。


 細い筒状の棒(パイプ)は背後の空間を突っ切り、無窮の空間へ延びているかの印象がある。
 白い顔(デスマスク)から始まっていると言えるかもしれないパイプ。これは《伝達》を意味するのではないか。

 彼は語らない、しかしその意志はどこまでも(未来永劫)伝えられて行くかの暗示。仮に白いマスクを神とするなら背後の人は従順な信者であり、硬質な丸い穴の空間を持つ棒(パイプ)は、語り伝えられる伝承/伝達を意味する。

 『彼は語らない』、しかし、『彼は語り続ける(あたかも永続的に)』という堅い信奉を描いている。けれども、その基盤は空に浮いている、そして永久に延び続けるパイプなどというものは存在するだろうか。確信だけが存在を確かなものにしていると言えなくもない。

(写真は国立新美術館『マグリット展』図録より)