続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

Ⅲ-1-1 自分の方へ向かう犬④

2019-12-27 06:58:14 | 美術ノート

 作家は常に自分と対象の間に感じる振動によってその距離を測っていおり、換言すれば《空間》を模っている。物理的にも精神的にも通じる距離は見えにくく曖昧さを伴うが、極力その細部を取り払い、原初の形態に近づけようとしている。

 具体性をそぎ落としているが、具体性を残しているという点で解釈の糸口を示唆、仄めかしている。それは鑑賞者に対する配慮というよりは作家自身の眼差しの基点に忠実だからである。

 例えば《犬》、この作品の場合、犬の頭部をリアルに現わしているが他は《何か》を置換していて触覚による記憶を媒体にするしかないのである。
 泳ぐ…当然隠れた部分は水中(液体)の中にあるべきで、そうとしか想起できないが、質の置換は他の意味を含有する素材でもある。
 重ねた年月を見せる年輪である樹木の断面には遥かな過去(時間)があり、しいては歴史へと継続させるツールである。しかもそれは力づくで沈めようと試みても決して沈下を由とせず、抗力・反発力を持つものである。
 犬と自分の間には、円形(おわん型)の溝があるが、水面をこのようにくり抜くことはできないが木材を以てこの風圧(振動)を描き得ている。つまりは犬と自分の間の障壁である。いくつかの傷跡も何か(事件…)を置き換えたものだと思う。

 犬という対象は自分に向かっている。敵意・好意・・・何を以て自分に近づこうとしているのか。犬という世間あるいは世界、あるいは自分自身との距離を作家は樹木という媒体を以て図っている。


 写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より神奈川県立近代美術館


『忘れえぬ人々』60.

2019-12-27 06:40:02 | 国木田独歩

 と秋山が大津の眼を見ると、大津の眼は少し涙にうるんでいて、異様な光を放ていた。


☆終(死)の算(見当をつける)他意の芯(中心)が現れる。
 験(調べると)代(入れ替わる)新しい幻の章(文章)がある。
 塁(次々に重なる)意(考え)の要の講(話)に逢う(であう)。


Ⅲ-3-11 飛葉と振動

2019-12-26 06:53:37 | 美術ノート

   飛葉と振動

 この作品に《葉》はないが、裸木となった樹木の林立があり、対峙する男の立ち姿がある。
 枝葉のない樹木、手足を被った人間との対峙…どこか物寂しく、終末感が漂う。

『飛葉と振動』と題しているが、飛んでいる葉はなく、大地に垂直に立つ棒状の樹木があるばかり。それぞれの差異は明らかだが、何の樹木であるかは不明であり樹木であるかさえも実は不明な状態である。
 揺れるという波も感じられないし、それによる現象もない。しかし『飛葉と振動』であると主張している。

 飛葉…つまりは落葉であり、樹木にとっての終末である。生命の循環のワンシーンと換言した方が適切かもしれない。
 樹木はそれぞれの墓標のようであり、対峙する男は行動不可の頭部だけである。知覚の残存…。

 自然に対する森閑とした空気感、祈りに通じるような寂寥。
 これらの樹木は殆ど直立している。確かにサンツリー(杉)などのように真っ直ぐな樹木はあるが、人に対峙し得るほどの高さではない。つまりはこれらは人の手の加わった人為の形骸化であり、樹木の本来の姿(生命)を感じない。

《飛葉》・・・いったん樹木から離れた葉は枯れて腐食し土に還る定めである。故に《振動》とは哀しみの葬送曲であり、胸の鼓動である。


 写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より 神奈川県立近代美術館


『忘れえぬ人々』59.

2019-12-26 06:39:02 | 国木田独歩

 夢から寤めたような目つきをして大津は眼を秋山の方に転じた。
「詳細く話して聞かされるなら尚のことさ」


☆謀(図りごと)の語(言葉)は黙っている。
 他意の芯(中心)は終(死)の懺(罪の赦しを乞うこと)であり、法(神仏の教え)を展(ひろげている)。
 章(文章)を再(もう一度)和(調合する)と問(とい詰める/責任や罪を聞き出す)章(文章)になる。


『城』3327。

2019-12-26 06:18:23 | カフカ覚書

それほどあわてふためいていたのである。そして、自分は大きな不幸が起こって呼ばれたのだが、これからそいつをつかまえ、胸に押しつけてすぐに息の根をとめてやるために出かけるのだとでも言うかのように、腕をなかばひろげていた。


☆しかしながら、その結果、彼の威厳を忘れていた。
 この悲しみは曖昧に広げられ、先祖の大きな不幸を叫ぶために、これから彼の胸を掴み息の根を止めようとしていた。


Ⅲ-1-1 自分の方へ向かう犬Ⅰ③

2019-12-25 07:05:17 | 美術ノート

 自分と犬との間には距離がある。犬が地中に埋められているわけでないことは、犬の目や耳の状態で察せられる。『泳ぐ犬』という作品の流れを見れば、泳いでいることは間違いない。

《自分》の位置は犬に対し直線的な前方にあると思うが、自分もまた水中にいるのか着地点を持っているのかは不明である。少なくとも、犬と自分との関係には距離があり、犬は自分の方へ向かっているという確信だけである。
 犬は他者であり、自分の意思(あるいは指令)によって動いているのではないのかもしれない。犬が自分の方へ向かって来るのであって自分が向かっているのではない、あるいは自分は逃げることも可能なのだろうか。(鑑賞者は犬が飼い主のもとへ走るというありがちな光景を根底に抱いてしまう)

《自分の方へ向かう犬》は、必ずしも決定ではなく解放されている。
 しかし、泳ぐ(水中)という状態故に不自由(束縛を受けている)であり、この状態から脱しなくては本当の自由には至らない。

 自分は当然、手前にいるのだと思うが、犬の前方には円形の穴が(溝)がある。これは竜巻などのスクリュー状の現象(振動)に因るものではないか。とすれば、見えない壁が立ちはだかっていることの証であり、犬と自分の間には近づけない要因が存在していることになる。

 他者であると同時に自分自身の心象でもある犬の存在、対象(世界)との近くて遠い障壁のある光景である。


 写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より神奈川県立近代美術館


『忘れえぬ人々』58.

2019-12-25 06:51:02 | 国木田独歩

「君がこれを読むよりか、僕がこの題で話した方が可さそうだ。どうです、君は聴きますか。この原稿はほんの大要を書き止めて置たのだから読んだって解らないからねェ」


☆訓(教え導くこと)は独(一人だけの)目(ねらい)である。
 内(秘密の、非公式の)和(調合)は法(神仏の教え)を化(教え導くこと)である。
 訓(教え導くこと)を重ねた眼(要)の講(話)は他意の様(ありさま)であり、諸(もろもろ)の詞(言葉)で致(まねく)。
 独(ただ一つ)に回(もとに還る)。


『城』3327。

2019-12-25 06:35:35 | カフカ覚書

しかし、ベルは、すぐに降下をあらわした。はやくも遠くから宿の亭主が、いそぎ足でやってきた。いつものように黒い服を着て、ちゃんとボタンをかけていたが、いつもの威厳は忘れているらしかった。


☆しかし、すぐに効果は出た。遠景では早くも大群と共にハロー(暈)がこちらへ黒衣に包まれやってきた。いつものよう(通常の景色)ではなかった。


Ⅲ-1-1 自分の方へ向かう犬Ⅰ②

2019-12-24 07:16:59 | 美術ノート

 自分の方へ向かう犬・・・・微妙なタイトルである。
 自分は当然自分(人間)だと考えるのは早計かもしれない。自分は犬自身であるかもしれず、自分(犬)が自分(犬)に向かうという意味を含んでいる。そして重要なのは犬は作家自身の化身とも考えられ、犬は他者としての世界全体とも考えられる点である。

 視覚的には限定された空間であるように見えるが、内実は広く大きい。しかし、常に原点であるこの距離感に立ち戻るという構図である。

 この世界を沈める(攻撃する)としても、とてつもない反発力で浮上してくることは必至であるが、決して解放された自由の身であるわけではなく、心身は動こうとすれば相応の圧をはねのけなければ前身は叶わない。 


「自分の方へ向かう犬」は限定を定めない流動的な空気感(世界観)を秘密裏に主張している。即ち大いなる振動である。


 写真は『若林奮 飛葉と振動』展・図録より 神奈川県立近代美術館