ラジオ体操の帰路、リハビリの送迎車を待つAさんたちに遭遇した。
年を取り、身体機能に支障が出るのは自然の理である。
けれど、周囲はそれに気づかず「なんで、どうして?」とその不備を厳しく問い詰める傾向がある。
「仕方ないわね」という冷めた距離感。
耳も聞こえるし精神は若いころと変わらないが、周囲の目に照準を合わせて《老い》をわが身に承服させる。
「ガスは点けっぱなし、水も出しっぱなし」(「たった一度、油断したわ」と、彼女は小声で…)
「大分、ボケが入ってきています」(こともなげに言う家人)
《…ああ、駆け出すほどの元気が取り戻せたなら》
Aさんは口惜しい気持ちを押し隠して、にっこり笑っていた。
明日は我が身、デイサービスの車が来るまでの短い会話。
老いていくという当然の理に正しい対処法はあるだろうか。
『自然の驚異』
海・空・雲・陸の自然の光景。
しかし海の水は船の形を模し、岩石は上半身は魚類で下半身は人間の形を模した男女が腰かけている。
水は三態を見せるが、液体である水が空中において人間の想念に一致する形態をとるなどということは絶対に有り得ない現象である。
人間と魚の合体など空想上ではありえても、物理的には有り得ない。ましてそれが、石化するなど奇跡ですら起こらない。
絶対に起りえない現象を妄想する。
しかし男女らしきものの形は明らかに「愛」を想起させ、喜怒哀楽の感情を内包しているようにさえ見える。
海水が帆船の形をとることなど皆無であるが、形というものは鑑賞者を説得させる力がある。
要するに欺瞞である。イメージは本質という物理条件を凌駕する。
この偽装された自然の景に対する驚異ではない、この偽装された自然の景に容易くイメージを重ね合わせることの出来る精神構造に驚異を感じるということである。
「これはパイプではない」と、パイプそのものを描写して否定する。これは、その裏側/反転を衝き指摘したのものである。
「これは『自然の驚異』である」と、自然の驚異の否定的な描写をしてみせたのではないか。
精神界(イメージ)は自由であり、物理的条件の領域には収まらない驚異がある。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「なかなかはやってるんだ。こんな山の中で。」
「それあさうだ。見たまへ、東京の大きな料理屋だつて大通りにはすくないだらう」
☆算(見当をつけ)、注(書き記す)。
現れる等(平等)の教えが題(テーマ)である。
霊(死者の魂)の裡(内側)に憶(思いを巡らす)。
題(テーマ)は、Two(二つ)ある。
もしかしたら、母も、わたしたちみんなの苦しみを担っていたかもしれません。母は、それが自分のうえにおそいかかってきたから担ったのです。そして、母は、長くは担っていませんでした。
☆もしかしたら、気分は死を偽るためだったのかもしれません。気分に打ちのめされていたので、ごまかしたのです。いつまでも気分をごまかしてはいませんでした。
やりたいことは沢山ある(ように錯覚している)。
けれど指折り数えるまでもなく、終了時間は迫っている。
『はい、ここまで』
にっこり笑い、わたしをどこか違う世界の扉に誘導していく誰かの手が突然差し伸べられる。
覚悟!
覚悟のその日が来るまで、どうにもきっちり片付けられない曖昧な信念を道連れに歩いていく。(それでもいいじゃないか)とか細い声がする。
(それでもいい)と、素直にうなずく。
笑止、そういう人生。
(それでもいいじゃないか)と繰り返し、自分に言い聞かせている。
『会話術』
Espana/スペインと読める文字が浮きでている。
海・平原(丘)・山稜・空を覗く開口は神殿を暗示している。
闘牛士によって頭部をぐさりと刺され死んだはずの牛が頭をもたげている。
半死半生では終わらず、必ず死を確認するまで剣を突き刺す格闘技。
残酷極まりないお祭りは牛の死をもって拍手喝采となる幕切れに、闘牛士の乗った馬が死んだ牛を引いて退場する。
牛にとっては無念・屈辱・怒り心頭のフェスティバルである。
《生あるものとして、わたしは告訴したい》死んだはずの牛の魂は訴える。被せられたマントは哀惜のように見えるが、単に葬送の儀礼に過ぎない。《わたしの生は、殺されるための生だったのか…しかも晒し者になり、死ぬことによって拍手喝采を浴びるという非情な仕打ちを受けるために・・・》
牛は人間の言葉を知らない。
成り立つはずのない会話、海の水が空に侵入し丘の上を船が走行する不条理、世界の律が破綻する景色の中で、死んだはずの牛は頭をもたげ、この不条理を訴えているに違いない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」
☆闘(争い)を検(取り調べ)誅(罪を責め咎め)問う。
詫(謝罪する)霊(死者の魂)を展(省みて)質(問いただす)。
ところで、わたしは、さいわい、あのころよりいまのほうがアマーリアをよく理解しているつもりです。アマーリアは、わたしたちみんなよりも多くの重荷をになっていたのです。あの子がどうしてそれに耐えぬき、いまもこうしてわたしたちといっしょに生きているのか、ふしぎなくらいですわ。
☆ところで、運のいいことに当時よりも現今の方がアマーリアを理解できています。彼女はわたしたちよりもより多くを担っていたのです。それをどう耐えたのか、今なおわたしたちの中で生きているのか理解できないくらいです。
人前に立ったことのない臆病さを克服…こんな年になって自分を鍛え直そうって、無理?
残り少ない(?)時間を大いに愉しみたい。悲観ばかりでは・・・。
というわけで、実践紙芝居の幕開け(まあ、わたしは進行係を地味に勤めただけだけど)。
なんとか無事に各グループが終了。
午後は先生方(宮崎二美枝先生、片岡直子先生、西田芳子先生、宮崎奈津子先生)による実演。
大いに参考になると共に、こんなにできるだろうかという不安が大きく膨らんできて気分は疲労困憊。
でも、自分を変えていくことに…挑戦したい!!
「あなたが紙芝居を見せたい相手は誰ですか」という質問。
「・・・」
自分自身への挑戦なんて言っている場合じゃない。少しでも相手に響き届けること、むしろ自分を無くして何かを伝えることを努力の目標にしたい。
先生方はじめ、職員の奥泉さん、お世話になりました。
『会話術』
湖と林が交錯しており、その盛り上がる(盛り下がる)曲線が《Amour 愛》という文字を浮かび上がらせている。
水平線は絶対の真理であるが、それが空中にまで延びている不条理、物理法則の崩壊。
第一、二十六日(下弦の月)の月が南中するのは真昼であって、その時刻には星は見えない。
大きな林(森)の背後に建屋が見えるが、遠近法に従えば大き過ぎ、窓などの規格を考えると暴力的な巨大さである。
暗い背景に、純白を示す鳥(白鳥)は奇妙であるし、《愛》というテーマにしては迫る相手を袖にし、そっぽを向いている。
全てがちぐはぐでかみ合わない情景を『会話術』と称している。真実の律がどこにも見えず、本質をことごとく外している。一見美しく静謐なムードであり、個々を切り離し部分的に見ればある程度の納得はできる。
しかしそれぞれの主張に差異がある。
それぞれが騒がしく主張し世界の律を混迷に陥れている、愛とはかくも混沌の迷いの時空にあるものなのだろうか。
愛の中に、深く潜行し支配する会話術は、むしろ混迷をきたす魔術かもしれない。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)