『自由の入口で』
自由とは他からの強制・束縛・支配を受けないで、思いのまま、心のままに行動することである。
この絵の空間は8枚のパネルで壁が被われており、入口の開口部が見当たらない。
左から、林(樹木)・裸体・板・鈴・炎・切り抜き・集合住宅の窓・青空と雲・・・である。
林は迷路、迷い(幻惑)。
裸体は、性への執着。
板は、死の暗喩。
鈴は、言葉・噂・命令・伝言etc。
切り抜きは、刻まれた精神。
閉じた窓は、閉塞・沈黙。
青空と雲は、変化(不可逆の時間)。
それらは生きる糧であり、また生きることを阻む憂鬱である。この混迷・混沌の中に生きている。
本当の自由があるならば、それは現今の状況を、大砲をもって爆撃するしかないのではないか。
「自由の入口で」わたくしは生きているが、自由の扉が開かれているわけではない。
解放を願う暴挙を心に抱き、常に自由の入口の前で大志(大砲)をもって構えている。
マグリットの願う自由とは、絶対に行き来不可の(母のいる)冥府への道ではないかと推測する。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
「ぜんたい、こゝらの山は怪しからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構はないkら、早くタンタアーンと、やぅて見たいもんだなあ。」
☆算(見当をつけ)皆(すべて)を諜(さぐる)。
重ねて逸(隠し)畢(おえる)挙(すべて)の講(はなし)は、双(二つ)現れる。
村でも声望のある一家が突然村八分にされてしまうと、だれでも損害をこうむるものです。村の人たちは、わたしどもと手を切ったとき、ただ自分の義務をはたしているにすぎないとおもったのです。わたしたちだって、もしその立場に置かれたら、おなじように考えたことでしょう。
☆来世の先祖を見ると、一族は排除され、不利益をこうむっています。わたしたちとの関係を絶ったのは単に義務だったのです。もしその場に置かれたら違うようにはならなかったでしょう。
ゴミを外のゴミ箱に入れようと外に出た、星空である。
黒い人影が近づいてきた、Xさんの息子さんの帰宅・・・。お母さんが集中治療室にいるという話は少し前に聞いている。
「お母さんの容態は?」と聞くと、
「2月20日が誕生日ですが、それまでは持たないと宣告されています。肝臓は二つあるそうですが二つともがもうすでに・・・管で胆汁を外に出している状態です」と言った。
「明日は仕事を休んで、寿司をもって見舞いに行きます。でも食べられないでしょう…」
言葉が出ない。Xさんとは同世代・・・。
「母が亡くなったら、この家を売り、借金を返した後は僕も消えます」という。
返す言葉がないほどの衝撃。
「ぼくも51才になりましたが、この先結婚をする気もないし、ただ消えるだけです。こんな世の中で生きていてもつまりません。一酸化中毒か何かで簡単に死ねたらいいんですけどね」という。
「あなた、若いんだから・・・」
「いえ、食べることもままなりません」
「・・・」
辛すぎて、寒すぎて「じゃぁ」と別れた後、足がすくんで一歩が出ないほどの膠着状態。
そんなこと言わないで、頑張って!
言葉を失った夜の会話・・・それでも頑張るしかありません!!
『旅人』
静かな海/水平線、宙に浮遊する球体である。
腰の位置の低い椅子は権威(地位)の象徴ではなく、単にくつろぎの椅子であることの強調かもしれない。
女体のトルソーは、肉欲はなく・・・ということか。(女/妻とは一心同体である)
ライオンはどこまでも強い志、挫けずめげない百獣の王たる尊厳としての誇りであり、一人で闘うという表明にも思われる。
トランペットは、『主張』。
樽は、飲食。
袋は、生活を支える金銭。
ミシンは妻の道具、少し見えているイーゼルは自身の道具。
虚空(未知)を映す鏡。
自然の緑、新聞の文字(活字)・・・など。
世間とは隔絶されているかもしれないが、これがわたしの浮世離れした生活の全てであり、常に人知れず精神の旅を続ける全景である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)
注文の多い料理店
二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで白熊のやうな犬をつれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさkさしたとこを、こんなことを云ひながら、あるいてをりました。
☆宙(大空・空間)を問う。他に、霊(死者に魂)の裏(反対側)をも展(くりひろげる)。
普く図りごとである。
惹きつける真(まこと)の詞(言葉)を並べる他意を徹(貫き)、法(神仏の教え)を吐く。
幽(死者の世界)の他意は普く、必ず太陽に応えるものである。
朴(すなお)に、要(かなめ)を運(めぐらしている)。
とにかく、アマーリアがふたたび注文とりにきてくれることだけを待ちうけていました。村の人たちだって、自分たちがしでかしたことで弱っていたのですもの。
☆もっとも再び伝言があったことは、すべての人たちにとって悲しいことでした。
片付けの極意に、「例えば靴箱の下敷きとして新聞紙など使用しないことですね」というアドバイスを聞き、早速違うもの、すこしオシャレな紙ないしはビニールシートに変えてみた。
けれど、昨日のシンク下の収納場所の清掃では強いた新聞紙の日付で、前回の清掃日が判明することが分かった。
1916年5月・・・一年半ものブランク!!
月日はめくるめく過ぎて行くことを実感。Ah・・・。
通常使わないものは処分。すり鉢などは(絶対使わないよね)でも、捨てかねて、やっぱり収納。
迷いながらため息をつきながら、死後のことを念頭に片付けている。
(あとどれだけ生きるの?)神様に聞いてみたい。
今朝チャイムが鳴ったので出てみると、近所の96才になるKさん、
「息子が何でも片付けて棄ててしまうから、孫のもんなんか勿体ないのでお宅で預かったもらいたい」という。
見ると大きなビニール袋にいっぱい…(何が入っているのかしら)
それにしてもこれを両手で抱えて持ってきたKさん、すごいわ!!96才って、そんなに元気なの?
(あとどれだけ生きるの?)なんて言っていた自分が恥ずかしい。
『終わりなき認識』
シンプルな室内から眺め渡した景には、険しく高く不毛のように見える山々が続き、その上に浮かぶ球体の上に一人の男が立っている。
《わたくし》は、《宙に浮かぶ球体の上の男》と対峙している。男はわたくしであり、わたくしはあの男でもある。
光は球体に当たっているが、男は陰のなかに在る。男は遥か向こうを見渡しているが、自身の立つ位置の危うさには気づいていないようである。
宙に浮いているという存在は、むしろ不在に近い感覚で、現場確認は困難な状況と言えるかもしれない。自身の存在の根拠の不明・・・。
認識とは主観である。見聞きした状況を、直観・感性・理性・知性などで判断した意味づけを認識と呼ぶのではないか。いわば情報の収集が認識を導くのである。
この絵における男の立ち位置の不安を男は知らない。にもかかわらず男は見る(情報の収集)のポーズをしている。転倒し奈落の底に落ちるやもしれないが、その状況を知らなければ一抹の不安も無用である。
男は世界を認識しようと努めているのかもしれないが、男の存在自体が危うい。この不条理を乗り越えられる認識というものはあるだろうか。
『終わりなき認識』は、認識に完結がないことの証明である。
(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)