続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

待っているのに・・・。

2017-03-31 07:07:05 | 日常

 ラジオなどで、ツバメ飛来の声を聴いているけれど、こちらには未だ姿を現さない。

 毎年、待っている。
 我が家にツバメが来た時の衝撃は忘れられない。母も存命で二人で食事をしていたとき、西側の窓に鳥影が走ったのである。
「何、・・・今の影は?」
 間もなく、本当にあっという間に巣は完成し、やがて小さな鳴き声が騒がしく大きくなると、飛び去ってしまう。何年も繰り返されたのに、某日、雀が巣を占拠したばかりに居を隣家に移してしまった。
 それでも毎年欠かさずやってくるツバメを心待ちしているのに…今年はまだ来ない。

 近くにはムクドリやヒヨドリやカラスがたくさん居るので危険を感じているのかな、一日も早く姿を見せて!
 待っている!!

(写真はムクドリ)


デュシャン『折れた腕の前に』

2017-03-31 06:45:51 | 美術ノート

 『折れた腕の前に』

 折れた腕の前に《雪かきシャベル》があっても、有効とはならず、ただ在るだけの存在と化す。

 これを作品として見ている鑑賞者は《作品・レディ・メイドの雪かきシャベル》と《鑑賞者自身》の間に《見えない他者/折れた腕を持つ者》の存在を見ることになる。

 雪かきシャベルは、『折れた腕の前に』というタイトル(言葉)を以て《見えない存在者》を見せる構造を有している。無いが在るのである。
 雪かきシャベル自体は空無ではなく実用性を有した器具であることは間違いないのに、タイトル『折れた腕の前に』というタイトルとの競合のために、鑑賞者との間の空間に《空無であるが存在している者》を立たせる妙を生み出している。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


デュシャン『壜掛け』

2017-03-30 07:04:13 | 美術ノート

 『壜掛け』

『壜掛け』、レディ・メイドの作品である。
 (なるほど便利)と購買者の心理を誘った製品、今でも『コップ掛け』のようにこの発想を縮小したものはある。コップのように日常的なものはともかく、壜となると、再利用は難しい。
 煮沸なしの乾燥では長期保存には不衛生で不向きであるから再利用の目的は果たせない。つまり単に空の壜を、さらに空にするというだけの器具にすぎない。(だいたい壜掛け自体が汚れてくる)

 壜(ガラス)は融かせば再生可能であるが、壜掛けによる再利用は菌の繁殖などにより諦念せざるを得ない。すなわち、無用の長物である。

 この『壜掛け』の持つ無為には、期待したのに残念な結果をもたらしたという悲哀が漂う。
 存在価値を問われ、否定された沈黙の慟哭がある。いずれ無に帰していく陳腐・失笑ものの羞恥。

 堂々とした美しい形態、倒れないための円形と重厚…『壜掛け』へのアイロニー。
 デュシャンは一目でこの『壜掛け』の空無に共感したに違いない。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


マグリット『罠』

2017-03-29 07:01:56 | 美術ノート

 『罠』

《レディ・メイドの木製のコート掛けを床面に固定したもの》だという。
 罠というのは鳥獣を捕えるための仕掛け、あるいは人をだますための企みである。木製のコート掛けが罠になる・・・気づかず転倒するくらいのことはあっても捕獲には至らないし、だますという心理駆け引きが謎のように潜んでいるというのでもない。

 木製のコート掛けは、垂直に立った壁面の然るべき位置の高さに、床面に平行に固定されてこそ有用である。それが床面に固定されたのでは意味がない。しかも固定されていては不要の上に邪魔である。

 《有用な物》が場所を違えるだけで《不要な物》に変移する。物自体に変化はない。
 意味を消失する、すなわち無意味になるという仕掛けである。

 コート掛けは床面に設置されるべきでない、というのは観念的な思い込みではない。コート掛けは壁面に設置されるべきである、というのは重力の法則に適っており、物理的論理による正解である。
 だから、コート掛けを床面に置き『罠』とタイトルした意図は、《無意味/無謀》を問いただすことにあり、床面に置かれたことへの不審を芸術=アートなどと勘違いしてはいけないという試薬でもある。(しかし、これは尚かつ芸術家の眼差しからの皮肉であることは間違いない)


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)


『城』2595。

2017-03-29 06:30:48 | カフカ覚書

ブルーンスヴィックがこの点でわたしたち一家のために商売上のある種の危険を引きかぶってくれたことは、確かでしょう。しかし、そのかわりに、バルナバスの仕事は文句のないほどすばらしいのに、ごくわずかのお金しか払ってくれませんでした。


☆ブルーンスヴィックが、ここでわたしたちのために先祖のある種の危険な仕事をしたことを白状した。しかしながら、そのためごく僅かでしたが、バルナバスの現場不在には過失はあrませんでした。


ラジオ体操。

2017-03-28 07:29:39 | 日常

 公園墓地の広場でラジオ体操を始めてからちょうど一年、もう一年を過ぎたかと思うと感慨深い。

 昨日など意気込んで行きそうになって、どう見ても雨が降っている。止みそうな霧雨だけど水たまりを見るとやっぱり水の輪が時を置いてできている。
 やむなく断念。

 それほどにラジオ体操に固執している。もはや走ることも踊ることもできない肉塊と化した身体にラジオ体操は天啓のようである。縋りついているといってもいい。このレベルまでは…何とかついていきたい。
 実のところ、体操のプロセスにある《飛び上がる》動きが最初はできなかった。飛び上がることもドスンと落ちる時の衝撃にも耐えられなかったから。
 思いがけなく気づいた身体の衰えに戸惑ったけれど、最近ではそれもクリアーできるようになり喜んでいる。全く笑止千万な小さすぎる変化だけれど。

 今朝は青空、行くぞ!!


デュシャン『自転車の車輪』

2017-03-28 06:58:05 | 美術ノート

 『自転車の車輪』

 まさに自転車の車輪が丸椅子の上に鎮座しており、あたかも何かの象徴のようである。

 車輪は、黒色(軸はシルバー)の円形であり、白い丸椅子との対比は美しいし、廻すこともできる。しかし、それが何だというのだろうか。
 両輪が組み合わされての自転車であり、機能を発するものである。片輪だけの、しかも自転車から外され、丸椅子の上に据え付けられているという滑稽。
 用途(意味)を失った不要物、詩的な哀愁、悲しみの果ての象徴である。

 希望・前途・・・未来を感じられない、ただ場を占めている無用の長物。完成品であることをどこかで外されたアウトの悲哀。

 この作品を見ていると、もの悲しい孤独感に襲われる。どこからともなく風がわたしの中を吹き抜けていくのである。


(写真は『DUCHAMP』TASCHENより)