『脅された殺人者』
この絵を見る限り、脅されるという危機感がない。確かに棍棒を持った男や網で捕獲しようとする男が両脇に描かれているが、眼差しはどこを見るでもない穏やかさで、隣室のベットの上の死体らしき裸体の方に神経を集中させる様子もない。
死体らしき裸婦の傍らの男はさらに無防備、無関心である。レコードに耳を傾け、くつろいでさえいる。
三人の男たちは山高帽にコート、スーツ姿の紳士風であり、並べて酷似している。
外部から覗く三人も極めて冷静にただ見ているという風である。
この絵の中に殺人者がいるのだろうか、ベットで横になっている裸婦は果たして死者なのだろうか。
聳える連山は草木のない高地であり、社会生活を送るには不自然な場所である。
すべてが不自然なのである。精神の高揚や危機感とは無縁の平穏さが、むしろ不気味な空気を醸し出している。
コラージュされた演出空間、殺人者を特定できない。《脅された、あるいは危機一髪の》のという形容、言葉がこの作品の鍵かもしれない。鑑賞者は言葉の誘導に逆らえない。題名(言葉)はイメージさせ、無理にも作品に結びつけようとする。
言葉が誘因するイメージとコラージュされた演出空間の奇妙な落差、埋められない感情を描いたのではないか。言葉は信用してはならない、と。
脅されているのは鑑賞者の方であり、《言葉とイメージの結びつきに疑惑の目を向けろ》ということを、殺人者という恐怖の言葉をもって教示したのではないか。
(写真は『マグリット』西村書店刊)
「ああ、こゝはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこはいことありません。わあくしたちは神さまにめされてゐるのです」黒服の青年はよろこびにかゞ焼いてその女の子に云ひました。
☆終(命のおわり)の記を展(ひろげる)。
転(物事が移り変わる)章(文章)の腎(かなめ)は、照(あまねく光が当たる=平等)であると告げる。
複(二つ)の念(思い/考え)を叙べ、詞(ことば)を運(めぐらせている)。
でも、まだもうひとつお訊きしておかなくてはならないことが残っていますわ。あなたは、いったい、それを知りたいとお思いでしょうか」
「なぜそんなことを訊くのです」と、Kは言った。「必要なことであれば、知りたいのが当然じゃありませんか。だのに、づしてそんなに念を押すのですか」
「御幣かつぎのようなものですわ。
☆しかしながら、なお先祖の論争点が残っているのです。通常そんなことを知りたいでしょうか」
「なぜ、そんなことを訊くのですか」と、Kは言った。
「それを知るのは必要だからです。なぜそんなに聞くのですか」
「迷信だからです」とオルガ(機関/仲介)は言った。
新聞(日経)を読んでいたら、池内紀という文学者のエッセイが載っていた。
先生の人との交流の温かさを示す手紙の保管、昨夕は若い日に読んだという「人生最期の日々」の読み古され、セロテープで繕った本。
どちらも衝撃的な感動を覚えた。
大雑把で不勉強、お気楽で《見ないで捨てる方式》のわたし、自分を捨てたら、さぞさっぱりするだろうという考え。
一流の人は、物に対する処し方が違う。
感動を覚えた池内紀先生のエッセイ、今夕もあるのかな。
『すみれの歌』
石化した紳士が二人、石壁、岩場の荒れ地に立っている光景、これを『すみれの歌』と称している。二人とも足を踏み出そうとしている、進行形のまま時が止まってしまったようである。
かつてポンペイの遺跡から空洞を固めて見たら人型が現出し、当時の生活状況などが判明したという報告を見たことがある。
現代もまたずっと遠くの未来から見たら、このような形で発掘されるかもしれない。
すみれは小さな野草である。『すみれの歌』というのは、微かな声の暗示ではないか。(スミレの花言葉は「謙虚/つつましやか」)
この光景に小さな声がする。この紳士(男)から垣間見える時代の名残り、主張などは、小さなすみれのつぶやき位にしか相当しないということかもしれない。
ある日突然時空が遮断される、それは死と呼ばれる。どこかへ行こうとしてその前に終わってしまう人生の息遣い。
時代の集積は、必ずしもすべてを包括しない。削られ、忘れられ、あるいは人型くらいは何かのはずみで発見される奇跡があるかもしれない。
マグリットの自嘲である。
(写真は『マグリット』西村書店刊)
「あら、こゝどこでせう。まあ、きれいだわ。」青年のうしろにもひとり中にばかりの眼の茶色な可愛らしい女の子が黒い外套を着て青年の腕にすがって不思議さうに窓の外を見てゐるのでした。
☆章(文章)の念(思い)は等(平等)を示し、願っている。
査(明らかにする)化(形、性質を変えて別のものになる)で、相(二つのものが同じ関係にあること、互いに)叙べる詞(ことば)であることを告げる。
我意を問う記であり、(あまねく光が当たる=平等)の念(考え)が、溢れている。
普く、詞(ことば)を疑うと、双(二つ)の我意が現れる。
どうしてもあなたに知っていただきたい、と言いますのは、そうしないことには、わたしたちの置かれている状況がよくわかっていただけなくて、あいかわらずバルナバスにひどいしうちをなさるでしょうから。わたしにはそれがとくに辛いんです。そして、そうなると、わたしたちは、必要な一致協力ができなくなって、あなたは、わたしたちを助けてくださることもできなければ、さしでがましいかもしれませんが、わたしたちの援助をお受けになることもできないでしょう。
☆あなたはそれを知るべきです。さもないと、わたしたちの状況(苦境)はそのままであり、バルナバス(生死の転換点)に対して、正しくないということでわたしを苦しめます。
必要かつ十分な合意ができなくなり、あなたはわたしたちを助けることもできず、わたしたちの助力を受けることもできないでしょう。
《ねばならない》ことからの解放。
両親を看取り、息子たちも独立し、離れて行ってしまった後の孤独。
束縛されて一見不自由に見える生活の苦労は、生きる糧だったかもしれない。ポカーンと空いた穴を埋める術が見つからない。
明らかなのは老いて、身体の不自由の自覚だけである。
これではいけない、自分をいさめても結局同じ場所から離れることなく一日を過ごし、夕刻にはその虚しさに呆然とすることがある。
《今さら》と自分の人生を自嘲する。
頑張る…頑張れない…頑張る…頑張れない・・・花びらを一つづつ千切る恋占いには程遠い反問。
のんびり行こう、もうすぐだもの。
(もうすぐ)って、どこ?
悲観的感想こそ千切って捨てたいけど、複雑なのは乙女心だけじゃない。
『イメージの裏切り』
明らかにパイプを描いて「これはパイプではない」という。
この意図はどこに在るのだろうか。
物に名付けられた言葉は、その社会の約束であり、律である。それを外せば混乱・混沌は必至であり、社会は機能しなくなってしまう。
しかし、あえてマグリットが「これはパイプではない」というメッセージを出すのは、観念の揺さぶりである。
「これはパイプではない」
鑑賞者はここで肯定するだろうか。
「いや、これはパイプ以外の何物でもない」と心中騒がしく反問し、やがて(他の名前でもよかったかもしれない)と譲歩してみる。
否、否・・・各人が各人のイメージをもって呼称すれば、意味不明になってしまう。
共通の概念を持つことの正当性が浮上する。
「これはパイプではない」という問題提議は、「これはパイプである」という答えに帰結する可能性を含んでいる。
見えている対象の真偽への警告、『イメージの裏切り』の鋭い切込みに感服するしかない。
(写真は『マグリット』西村書店刊)
隣には黒い洋服をきちんと着たせいの高い青年が一ぱいに風に吹かれてゐるけやきの木のやうな姿勢で、男の子の手をしっかりひいて立ってゐました。
☆倫(人の行うべき道を告げる。
要は複(二つ)の記の考えであり、照(あまねく光が当たる=平等)の念(思い)が逸(かくれている)。
黙って死の世(世界)を談じ、詞(ことば)で趣(狙い)を留めている。