続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

🈞デュシャン『花嫁』⑤

2019-05-31 06:51:55 | 美術ノート

 絵画、二次元において三次元を複写できる有効な手段。陰翳を付ければ立体になり、遠近法を守れば空間は無限に広がりを見せる。光景を切り取る疑似空間は鑑賞者を素直に納得させる。
 美(醜)を醸し出すが、視覚的真実があるにすぎないのではないか。精神の軸、存在理由、時空への挑戦…表現者に求められる、あるいは自らが求める次元を絵画(二次元)は追究し得るだろうか。

 絵画作品にはタイトルという言葉の結びつき、関係性を許されている。この二つの物の持つ力は多くは説明(合致)に尽きる。
 仮に「花嫁」という突飛なタイトルを付けた場合、鑑賞者は作品に併せてその共通項を見出そうと努力するに違いない。(絵画とはそういうものであったからである)

 左右前後どこにもつながることを予想させず、固定されたものであるかも不明である装置を創作。立地点、存在感を明確にすることは絵画の基本であり、構図という面から見ても息がつまりそうな茫漠とした奇体な構造である。
 不条理というより散逸であり、作品は全体というより部分である。どこにつながりどこへ発展するのかさえも不明な部分であり、現象と換言した方がいいかもしれない。

 これらは、絵画という範疇に対する抵抗であり、未来への究極の終末、訣別を模索しているように見える。
『花嫁』は、自らに課した実験であり、鑑賞者の賛意を問うものではないかもしれない。
 タイトルと作品の間には無言の軋轢があり、マイナスの電気が走っている。


 写真は(www.tauschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』29.

2019-05-31 06:40:44 | 宮沢賢治

「いやご遠慮はありません。どうぞ。わたしはどうも先生の音楽をきかないとねむられないんです。」
「生意気だ。生意気だ。生意気だ。」


☆掩(隠した)慮(考え)は専(ひたすら)照(あまねく光が当たる=平等)である。
 隠れている絡(つながり)は照(あまねく光が当たる=平等)の意(考え)の記である。
 章(文章)の意(考え)の基(根本)である。


🈞デュシャン『花嫁』④

2019-05-30 06:30:40 | 美術ノート

 花嫁は女性(個体)に被せられる呼称であるが、一人では成立せず、必ず男女というカップルの存在があってからの名称である。男という伴侶なくして花嫁の呼称は無い。
 花嫁は対象者に名付けられてはいるが、対象者のみではそう呼ばれない。

 花嫁という呼称に永続性はなく、やがて消失するが、そのことに不信を抱くものはいない。自然だからである。花嫁という呼称の持つ時間は、厳密に測定できず曖昧かつ短期的であり幻のような時空に花開く美称である。

 タイトルされた作品を見ると、機械を思わせる仕掛けが描かれているが、脈絡やプロセスの断絶した、それでいて複雑な細かい仕組みを感じさせる。
「何か」と問えば答えは出ず、暗躍めいて怪奇な分散であり、上下左右いろいろ動かしてみても、多分印象は変わらない。重力おける存在感が皆無だからである。

 つまりこの作品には固定がない、固定を予想させない。
 花嫁という言は観念的に使用されることが多い。花嫁以外の呼称が入りこめないくらいきっぱりと強い響きを有している。にもかかわらず軽く宙に浮き、輝きさえ帯び羨望の焦点にすらなりうる。少なくとも翳りやマイナス要因を払拭した美の領域にある言葉である。

 ただ持続を保証しないという点で作品は的を得ているかもしれない。立派に機能しているかの構造の一端、しかし凝視すると時を待たずして崩壊を余儀なくされる構造である。花嫁という言葉は一時的な他と関連をもたない美称(冠)にすぎない。

 名付けられた名称にも〈時間と華やぎ(空間)の明滅〉があることの例かもしれない。


 写真は(www.tauschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』28.

2019-05-30 06:14:14 | 宮沢賢治

 すると猫は肩をまるくして眼をすぼめてはゐましたが口のあたりでにやにやわらって云ひました。
「先生、さうお怒りになっちゃ、おからだにさはります。それよりシューマンのトロイメライをひいてごらんなさい。きいてあげますから。」
「生意気なことを云ふな。ねこのくせに。」
 セロ弾きはしゃくにさはってこのねこのやつどうしてくれようとしばらく考へました。


☆平(平等)を兼ねて現れる講(話)を運(めぐらせている)。
 宣(はっきり言う)照(あまねく光が当たる=平等)に努(力を尽くす)。
 照(あまねく光が当たる=平等)の意(考え)の記を運(めぐらせている)談(話)は恒(変わらない)。


『城』3193。

2019-05-30 06:06:48 | カフカ覚書

つまりですな、それぞれの事件はひとりのきまった秘書だけの所轄事項であるというふうにはなっていないのです。大きな活発な組織では、そういうことは不可能です。


☆即ち、先祖の大きな活動的な組織ではそういうことはできません。それぞれの事件は先祖が決めた秘書の領域にはないのです。


🈞デュシャン『花嫁』③

2019-05-29 07:07:50 | 美術ノート

 雑多な形態が複雑に入り混じっている。細い線を追っていくと、繋がっているというよりは隠蔽、隠れてその関係が見えない。彩色の濃いものが背後にあるのかと思えば手前に出てくる。
 遠近をさりげなく否定、壊している。光彩に関しても同様な不明があり、対象物(光景)を描く(見る)という基本(通念)を微妙に崩壊(否定)しており、現実に再構成(組み立て)の不可能な立体(三次元)である。

 そして、何故これが『花嫁』なのかと問えばさらに混迷は深まる。
 花嫁という誰もが得られる可能性のある命名、しかし、誰もがその命名に固執し続けることのない命名。一時的にあるように見える、否、確かに在るが存続しえない美称は世界中あちこちで生まれては消えている。日常のなかにあって非日常性を帯びた言葉。
 男女の結びつき(婚姻)において周囲のものが祝福をこめて、そう呼称する。
 時空の中に起きる現象、定まった時期や法規の中にも存在せず、偶発的とも言える《泡》のようなものである。

 時空の中で居場所を決定しない、宙に浮いたシャボン玉のような言葉としての『花嫁』を選択し、近似する光景としての作画を描いたのだと思う。摘まもうとすればスルリと抜け出てしまうような流体への感覚、確かに在るが、無いのである。


 写真は(www.tauschen.com)より


『セロ弾きのゴーシュ』27.

2019-05-29 06:57:29 | 宮沢賢治

 ゴーシュはひるからのむしゃくしゃを一ぺんにどなりつけました。
「誰がきさまにトマトなど持ってこいと云った。第一おれがきさまらのもってきたものなど食うか。それからそのトマトだっておれの畑のやつだ。何だ。赤くもならないやつをもしっていままでもトマトの茎をかじったりけちらしたりしたのはおまへだろう。行ってしまへ。ねこめ。」


☆逸(隠れたもの)を推しはかる。
 字で運(めぐらせた)題(テーマ)が逸(隠れている)自記である。
 将(あるいは)、化(教え導くこと)の釈(意味を明らかにする)系(続きをなすもの)の講(話)である。


『城』3192。

2019-05-28 09:08:37 | カフカ覚書

「まえに申しあげた、非常にまれな、ほとんど起りっこない可能性なるものは、どこにあるのでしょうか。秘密は、管轄にかんする法規のなかに隠れているのです。


☆それぞれの思い込みの中で、決して傷痕は無いという可能性はどこにあるのか。秘密は権限のある処方に入っています。


🈞デュシャン『花嫁』②

2019-05-28 06:48:51 | 美術ノート

 全く何かを想像できない作画である、何かに当てはめることを拒否しているとも言える。ロートのような物の先は唐突に切れているし、何より接合部分の危うさ、ネジのような物も回転するには欠けている。全体、各所で動きは止まる仕組みである。手前のものより後ろにある部分に正面から光が当たっているのに、影を見ると上方からに感じられる。
 総てが切れ切れで重さを感じるにもかかわらず、宙に浮いている。(着地感がない)

 きわめて条理に反したこの作画は何を意味しているのだろう。
『花嫁』とタイトルしている。
 華やかさや喜びといった通常花嫁から受ける印象をことごとく消している。
 二人が一つに結びつくという一体感は無く、いずれ崩壊をを余儀なくされるような構成でありながら、一見堅固に結びつきを保っている作画。否、持続は可能かもしれない。


 問題は時間かも知れない。
『花嫁』という呼称の持つ時間は不定である。
 (永遠≠花嫁≠0)(永遠≧花嫁≧0)
 時間は社会的(世界基準)であるが、個人の内にもある。
『花嫁』は明白であるように見えてズレと曖昧さによって成り立つ時間を内包している。デュシャンは時間の曖昧さを『花嫁』という作品で問うている。


 写真は(www.tauschen.com)より